同一性と投影:何が投影されて一体性を形成するのか

同一性と投影:何が投影されて一体性を形成するのか


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)は、自己認識に関しては、高度に進展して、ほぼ完成の状態にあると思うが、ここでは、私が素朴に疑問に思っている本件のテーマを検討して、補足したいと思う。
 iを原認識主体、-iを原他者・客体としよう。iが-iを認識するとはどういうことなのか。他者を認識するとはどういうことなのか。
 これまでの検討から、同一性自我欲望から、他者が否定されて、同一性化が生じるということになった。本来は、差異共振性が現象化においても存しているのであるが、同一性欲望のために、他者が否定されるのである。
 さて、同一性欲望と投影がどう関係するのかである。思うに、同一性欲望とは、食欲や性欲や所有欲や暴力欲と一如ではないだろうか。
 空腹である。そのとき、眼前に、おいしそうな焼き肉があるとしよう。そう、飢餓的に空腹であるとしよう。そうすると、理性なく、その焼き肉を奪い取り、食べるだろう。このとき、焼き肉に対して、投影があるのだろうか。あまり明瞭ではないようだが、一種投影があるのではないだろうか。あるいは、一体感があるのではないだろうか。私は焼き肉と一体である。そして、貪り食うのである。
(ところで、猟奇犯罪であるが、それは、基本的には人間の野蛮な本能と関係していると思われるのである。参照:『羊たちの沈黙』)
 そう、これは、食人(カニバリズム)と通じるのであるが、思えば、キリスト教は、最後の晩餐で、キリストの肉と血を、パンとワインに変えて、信者に飲食させるのである。これは、明らかに、同一性欲望を活用した参入方法である。(やはり、この点でも、キリスト教は問題があるだろう。隣人愛とは、同一性欲望なのではないのか。イラクを愛するから、イラク民主化するのである、云々となるのではないのか。)
 同一性欲望の投影とはどういう力学なのか。あるいは、欲望とは何か。欲望とは、暴力である。
 とまれ、同一性欲望投影であるが、それは、感覚された対象への欲望があるが、感覚像に対して欲望が生じる。そのとき、感覚像と癒着するのである。同一性化するのである。これが、同一性欲望投影の原因ではないのか。
 即ち、感覚像への欲望癒着があり、この欲望化された感覚像において、既に、同一性投影が発生していると言えると思う。つまり、同一性投影とは、欲望癒着のことなのである。欲望的一体化が同一性投影の原因である。
 そう、ここで思うのは、この同一性投影とは、恋愛の視線と同じである。所有欲望の視線なのである。そして、女性は、男性の所有欲望である恋愛視線にだまされるということになるのであり、また、男性は、女性の所有欲望である恋愛視線にだまされるわけである。
 もっとも、だまされると言ったが、正確に言えば、自己盲目化である。知性を否定して、感覚像に入れ込むのであるから。恋愛とは、欲望・暴力の変形である。これを、大作家は洞察表現している。
 結局、同一性投影において、投影されるのは、欲望であると言えよう。自我欲望である。i*i又はi*-(-i)⇒-1である。
 これで本件の考察は終ったが、最後についでながら言うと、連続化とは、この同一性欲望投影と結びついていると言えよう。
 だから、エポケーや不連続化は口で言うほど易しくはないのである。感覚像と欲望を切断する必要があるのである。色即是空にしないといけないのである。解脱である。
 近代主義は、正反対で、同一性欲望投影を積極的に肯定して、欲望自我を肥大化させたのである。
 今の欲望中心主義の腐敗堕落した日本社会を見ると、仏教への回帰が必然になっていると思われる。精神性への回帰と言ってもいい。
 これは、万民坊主になれというのではない。同一性欲望投影の回路を切断して、精神性へと回帰することで、差異の知が見えてくるのである。差異はまた倫理である。差異共振的創造が始動するようになるのである。
 社会・政治・経済的には、埋もれている差異を救い出して、経済創造に役立てるだろう。精神性への回帰とは差異や差異共振性への回帰であり、このときに、差異的資本創造という視点が生まれるのである。差異、差異共振によって新たな経済創造が生まれるのである。この点は後で検討したい。