ドゥルーズ&ガタリの「ポスト構造主義」と構造主義について:実数軸

ドゥルーズガタリの「ポスト構造主義」と構造主義について:実数軸のメディア・ポイントの動的構造性


テーマ:哲学


先に、本件について触れたが、ここで、簡単に説明しておきたい。

彼らの思想は、構造主義の静態性を超えることを目指していた。即ち、構造のさらに深層の動態性を提示して、構造主義の乗り越えを提起したのである。例えば、化学で言えば、「モル」に対して、「分子状」という深層を提起したのである。あるいは、「量子状」という深層である。

問題は、この構造のさらに奥にある、これらの動態的深層である。

それは、構造を形成すると考えられた根源的層である。

この根源的層については、以前に説明したが、ここでもう一度述べよう。

構造は、PS理論から見ると、実数軸のメディア・ポイントmepoにあると言える。ここでは、虚数軸のメディア・ポイントmepoは、いわば、知られていない。

とまれ、エネルギーは、超越界から現象界へと伝わるのであり、メディア・ポイントmepoが正に、メディアとして機能している。

だから、エネルギー(エネルゲイア)は、メディア・ポイントに顕現していると言える。

ここで、ドゥルーズガタリ(以下、DG)の思想を考えると、構造主義を超えようと意図されたその深層理論は、明らかに、メディア・ポイントのエネルギー態から発している。

メディア・ポイントは実数軸においては、構造でありつつ、同時に、エネルギー態なのである。

ここで整理すると、実数軸のメディア・ポイント(以下、実メディア点)の様相を明快にすると、それは、連続性における構造と構造を発生させるエネルギー態(動態)の両面をもっていることがわかる。

だから、まとめると、実メディア点は、構造エネルギー態であるということになるだろう。ソシュール構造主義とは、言語における二項対立の構造の静態性を説くものであるが、その二項対立構造を発生させる動態性については、説明していない。

例えば、pとbとの音声対立があるとしよう。それは、互いに排除する。bigとpigである。

しかし、ソシュールは、pとbの対立構造・差異構造が発生する深層については述べない。

当然ながら、対立・差異構造を発生させる動態根源があるのであり、それを、DGは動的な構造として説いたのである。だから、彼らの思想は、動的構造主義と呼ぶのが適切であり、ポスト構造主義という用語は、誤りである。

そして、この動的構造が、実メディア点に過ぎないのである。

ここは、連続的構造であるから、差異は、連続的差異=微分にしかならないのである。

結局、DGは何を見出したのか。それは、数学では、数百年も前に発見されていた微分の思想を、時代遅れに哲学に取り入れたのであり、発見は何もない、陳腐・凡庸な思想というしかない。

ただし、ドゥルーズの場合、キルケゴールニーチェの特異性singularityの思想を差異の思想に取り入れたことは、評価できるだろう。

しかし、そのドゥルーズの特異性は、実メディア点に留まったのであり、真の特異性を理解できなかったのである。

ということで、本稿をまとめると、構造主義とDGの動的構造主義とは、実メディア点が基盤であり、実メディア点における原因が動的構造主義であり、結果が構造主義であり、両者は、実メディア点の因果関係にあるということである。

ここで想起するのは、カント批判哲学である。

純粋理性批判とは、正に、メディア・ポイントの即非性を、従来の論理学から理論化しようとしたものであろう。

アンチノミーがそこでは出現するのである。カントは、大乗仏教の矛盾的論理(即非論理)を知らなかったから、従来の論理学から飛翔できなかったのである。

換言すると、現象的理性・知性の規定(先験論)に囚われていたので、メディア・ポイントないし超越界のもつ超越的論理を理論構築できずに、実践理性に留まったと言えよう。

ここでフッサールについて言及すると、フッサールは、カントの限界を超えて、超越的意識を捉えたが、しかしながら、それが、他者を志向して、即非の論理をもつ事態までは進めなかったと言えよう。

i*?に留まったのがフッサールであると言えよう。そして、間主観性・相互主観性であるが、それは、思うに、i*i⇒-1ではないだろうか。

超越的自己が、連続的自我に陥っているのではないか。

思うに、他者の欠落が、ハイデガーの現存在における志向性(企投)等の考えを生み出す隙を作ったと言えるのかもしれない。

そして、他者問題は、ナチズムを経て、レヴィナスの他者倫理哲学において扱われることになったと言えよう。

最後に、他者倫理であるが、これは、今問題の「従軍慰安婦」という国家的暴力的売春に直結しているのである。

結局、日本人が、他者を認めるか否かである。

言い換えると、日本人が、自己認識を確立できるかの問題でもある。

この問題は、「民主主義」の問題と関係して、きわめて重要である。

この問題は別稿で検討したい。