形相の問題:イデア的形相、又は、内在的超越的形象:虚MP⇒実MPの形

形相の問題:イデア的形相、又は、内在的超越的形象:虚MP⇒実MPの形相変換力学構造について


テーマ:プラトニック・シナジー理論


イデアの結界―西欧的感性のかたち (単行本)
田淵 安一 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%B5%90%E7%95%8C%E2%80%95%E8%A5%BF%E6%AC%A7%E7%9A%84%E6%84%9F%E6%80%A7%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%A1-%E7%94%B0%E6%B7%B5-%E5%AE%89%E4%B8%80/dp/4409040294
を拾い読みして、形相の問題も未解決であると思った。

著者は、プラトンイデアアリストテレスの形相に関連して、ネオプラトニストのプロチノスのイデア的形相のようなものを説いている。

これは、内在的超越形式というものではないだろうか。

簡単に言うと、超越論的(内在的超越的)形態・形象である。

この空間を求めたいのである。

プラトンイデアは、一面として、この元形態・形象性をもっている。

先に、形態に関しては、対称性の破れで説明できると考えたが。

直観で言えば、メディア・ポイントがこの超越論的形態の空間であろう。

例えば、朝顔の元形態はここにあるということになる。

思うに、種子・種ないし卵、あるいは、遺伝子やゲノムという形態の起源は、メディア・ポイントMPではないだろうか。MPは、確かに、イデア界的即非様相が「縮限」される空間のように思えるのである。

元形態が、いわば、折り込まれる、折り畳まれるのがメディア・ポイントであり、その現象態が、種子、卵、遺伝子、等々ではないか。

i*(-i)⇒+1は、このことも表象しているのではないだろうか。iが元雄であり、-iが元雌であり、*がメディア・ポイントであり、受精・生殖等を意味するのではないか。

さて、問題は、元形態である。ここでは、限定して、簡単に考えたい。すなわち、たとえば、花の元形態、馬の元形態、木の元形態、等について解明したいのである。

これは、プラトンイデアの一様相である。

ここで、上述した著書で引用されているヒルデガルド・フォン・ビンゲンの言葉を引用しよう。

《その形は、神の予定知が、時間が存在するより以前に非肉体性のうちに熟視されたものです。まことに、鏡のまえに置かれたすべての物がそこに自らを映すのとおなじく、神の創造物のすべては、聖なる神性のみ胸に、非時間性のなかにおいて姿を現わすものなのです。・・・光線が被造物の形を照らしだすとおなじく、神の純粋なる予定知は、被造物の形を肉体が包むそのまえに熟視されるのです。ということは、それぞれの物は神の御予定にしたがって、肉化に先立ち、予定知のただなかにおいて似像として燦然と輝いているのです。」pp. 96~97

「予定知」とは摂理providenceということであろう。

この箇所において、元形態の問題点は、神が熟視する元形態であるということである。当然、神と元形態はことなっているのであるが、神の内部に元形態があるのである。「被造物の形を肉体が包むそのまえ」という点について言うと、「肉体がつつむ」とは現象化である。だから、現象化あるいは物質化以前に、元形態があるということで、PS理論的には、元形態空間は、メディア・ポイントではないかと思われるのである。

しかしながら、問題は、メディア・ポイントから実数軸上への展開である現象化の構造である。

先に、+1ないし⇒+1がメディア界ではないか、また、-1ないし⇒-1が現象界ではないかと示唆した。

これらをどう整理するのかである。

端的に言えば、元形態空間は、メディア・ポイントなのか、+1なのか、それとも、メディア・ポイントから+1の過程、等にあるのかである。

思うに、実数軸は、これまで、現象界と考えたのだから、+1が元形態空間とするのは、明らかに、不合理である。

少し議論が外れるが、メディア・ポイントと+1について考察すると、不連続的差異論におけるメディア界に相当するのがメディア・ポイントであると言えよう。だから、先に、+1をメディア界と考えようとしたのは、誤りである。ただし、+1は、メディア・ポイントとの関係が、-1よりも強いと思われる。というか、メディア・ポイントは、エネルギー変換点である。ここで、イデア・エネルギー(元エネルギー)が、同一性エネルギーへと変換されるのである。ここに分極化があり、+1の同一性エネルギー(差異的同一性エネルギー)と-1の同一性エネルギー(連続的同一性エネルギー)へと分化(分相化)すると考えられるのである。

差異即非様相から同一性様相への変換点がメディア・ポイント(メディア界)であり、ここにおいて、既に、元形態が生成していると言えよう。

というか、実際は、精妙である。すなわち、メディア・ポイントの二相性に注意しないといけない。虚数軸上のメディア・ポイントと実数軸上のメディア・ポイントを理論的に区別する必要があると考えられる。

前者を、とりあえず、虚メディア・ポイント(虚MP)、後者を実メディア・ポイント(実MP)と呼び、区別したい(MP・0iとMP・0?)。

思うに、虚MPと実MPとの重なりの様相に重要な問題があると言えよう。また、それらと±1の関連の問題がある。

とまれ、虚MPは、イデア界にあり、思うに、これが、元形態空間ではないのか。ここに超越的形相(いわば、エイドスeidos)があるのではないのか。そう考えると、本件の問題が解明されることになるだろう。ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの言葉にある「被造物の形」は、虚MPに存しているということになるだろうし、「神のみ胸」とは、イデア界で、虚数軸空間のことであると言えよう。確かに、虚数軸上に虚MPは存するのである。

すると、虚MPから実MPへの変換が《天地創造》ということになるだろう。「光あれ」である。(因みに、ハイドンのオラトリオ『天地創造』を聴いていたのである。偶然の一致であるが、思うに、天地創造のことが無意識にあったので、この曲を選択したのかもしれない。)

では、虚MPから実MPへの変換とは何か。それは、既述済であるが、同一性化である。現象化である。おそらく、単純に物質化とは言えないと思う。なぜなら、+1が精神ないし自己であり、-1が物質ないし自我であると考えられるからである。つまり、同一性化とは、+1の精神・自己化と-1の物質・自我化の両面・両義性があると考えられるのである。

いろいろ細かな問題があるが、それは置いて、ここでは、同一性化の力学構造を考えたい。虚MPから実MPへの変換力学構造を考えたいのである。

思うに、虚MPにおいて、元形態があるならば、それは、ここには、元1の形態があるということではないのか。つまり、元±1の形態ないし元形態があるということではないだろうか。

そうならば、元±1としての虚MPであろう。では、実MPとの関係はどうなのかである。思うに、実MPは、種子、卵、遺伝子等であろう。だから、元±1としての虚MPと見ていいだろう。(メルロ・ポンティは、身体的現象学において、虚MPと実MPを混合していると思うのである。)

問題は、やはり、虚MP(iMP)と実MP(rMP)との変換構造である。

この変換力学とは何か。

やはり、回転ではないだろうか。ベクトルiとベクトル-iとの1/4回転が発生して、±1が生起するのではないだろうか。

つまり、iMP⇒rMPの⇒とは1/4回転を意味するということになる。

つまり、イデア界的内在的エネルギーによって、iMP⇒rMPの変換が生起するということになる。この点は再考したい。

とまれ、以上から、元形態は、iMPにあることになった。ここが、イデア的形相(エイドス)の空間ということになった。(今、地震がある。14:06pm)

ついでに、プラトンのいうコーラのことを考えると、それは、いわば、形態発生空間であるから、端的に言えば、MPのことであり、より精緻に言えば、iMP⇒rMPのことであると言えよう。

さらに言えば、プラトンのいうイデアとは、以前述べたように、少なくとも二種類あるのである。それは、差異共振シナジーとしてのイデアである。それは、 i*(-i)としてのイデアである。もう一つは、ここで述べた元形態としてのイデア(エイドス)である。すなわち、iMPとしてのイデアである。

さらに展開して、アリストテレスの形相についていうと、それは、iMPを否定して、rMPだけを取りだしたものであろう。rMPは確かに、個物・個体内的元形態と考えられるのである。

PS理論は、フッサール現象学の意味において、超越論的理論であるから、内在的超越性としての「イデア」を現象における分有として見ている。それは、私の言葉では、特異性である。九鬼哲学の言葉では、偶然性である。ドゥンス・スコトゥスでは、存在の一義性である。スコラ哲学のhaecceityである。ライプニッツモナドである。

内在的超越性において、内在性とはrMPであり、超越性がiMPであると言えよう。因みに、ポスト・モダンないしポスト構造主義の誤りは、両者を混同したことになる。典型がドゥルーズであり、フッサールの超越性を否定して、内在性に限定してしまったのである。また、デリダについて言うと、彼の誤りは、ドゥルーズの正反対で、超越性のみを肯定して内在性をロゴス中心主義として否定したことにあろうだろう。言い換えると、デリダ(初期デリダ)は、同一性をロゴス中心主義として否定して、超越性のみを肯定して、それを示唆・暗示するしかないという袋小路に陥ったのである。
 
即ち、デリダは、同一性には、連続的同一性と差異的同一性の二つがあることを知らずに、すべて同一性を否定したために、いわば、不可知論に陥ったのである。それで、あのようなエッセイ的な論述となったと言えよう。

ドゥルーズは、差異を内在性に見て、デリダは差異を超越性に見たのである。両者、正反対で、また、一面的であった。両者とも、フッサールを把捉できなかったと言えよう。やはり、繰り返すが、ハイデガーによるフッサール現象学破壊が要因だと思うのである。ハイデガーの理論は、超越性を否定した内在性の理論なのであるからである。

以上の解明を簡単にまとめると、PS理論において、メディア・ポイントMP空間に虚MP(iMP)から実MP(rMP)への変換力学構造を見て、元形態が虚MPにあり、それが、実MPへと変換されて、現象化が生起すると考えたのである。実MPは、具体的には、種子、卵、遺伝子等々である。言い換えると、プラトンイデアがより明確化されたのである。差異共振シナジーとしてのイデアと元形態(エイドス)としてのイデアを分明できたのである。

ついでながら、PS理論は、西洋哲学における二元論的分裂、プラトン的観念論とアリストテレス実在論を形態論的に統一したと言えよう。既に、この統一は、一般理論的には為されていたのではあるが。

最後に、敷延して言うと、素粒子や量子であるが、それは、ここでの形態論が適用できると思われるのである。即ち、元素粒子ないし元量子は、虚MP にあり、それが、観測においては、実MPに空間化されると思うのである。真空というは、実MPであろう。量子力学は、虚MPを見ていないと考えられるのである。唯物論なので、イデア界の虚MP空間に進展できないのである。それで、非局所性の問題等があると思うのである。有り体に言えば、元素粒子、元量子とは、虚MPにおける差異共振シナジーイデアなのである。差異即非共振シナジーイデアなのである。虚MPにおける元粒子・即非・元波動のイデアが元素粒子・元量子と考えられるのである。

これが、実MPにおいては、粒子と波動との相補性として理解されていると思うのである。つまり、物質論的に、「素粒子」と「量子」は、一方では、粒子であり、他方では、波動であるということである。

しかしながら、「素粒子」や「量子」の実体は、虚MPの差異即非イデアである。無時間的イデア界にある「素粒子」や「量子」、即ち、元素粒子、元量子を素粒子論や量子論唯物論に囚われているので、認識理解できないと考えられるのである。

わかりやすく言うと、素粒子や量子は、虚MP⇒実MPの変換力学構造における、イデアの影像であると考えられる。