九鬼周造著『偶然性の問題』は、鈴木大拙の即非の論理学と並び、PS理

九鬼周造著『偶然性の問題』は、鈴木大拙即非の論理学と並び、PS理論の実質的先駆である。




九鬼周造『偶然性の問題・文芸論』 (単行本)
大峯 顕 (編集), 大橋 良介 (編集), 長谷 正当 (編集), 上田 閑照 (著), 坂部 恵 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E5%91%A8%E9%80%A0%E3%80%8E%E5%81%B6%E7%84%B6%E6%80%A7%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%83%BB%E6%96%87%E8%8A%B8%E8%AB%96%E3%80%8F-%E5%A4%A7%E5%B3%AF-%E9%A1%95/dp/4924520497


今、本書を拾い読みしているが、これは、久々に大感動した本である。正に、天才的著書である。灯台下暗しとは、これまで、何度も経験したが、本書に関しても言える。

九鬼周造は、『いきの構造』で有名だが、本書は彼の主著である。ここには、PS理論的核心があると言っても過言ではない。1935年に出版された本書をこれまで、誰が、世界的に先端的理論であることを説いただろうか。

本書については、直接的には、novalis666氏(「いき」の創造http://ameblo.jp/novalis666/ )によって、知ったのであるが、また、九鬼周造が日本の代表的哲学者であると教えられたのは、某知りあいからであった。

今は、簡単に引用したい。後で、読みを続けて、論じたい。簡単に予想を言うと、九鬼の言う「偶然性」とは、私の言う「特異性」とほぼ同じである。

引用開始

《経験に斉合と統一とを与える理論的体系の根源的意味は他者の偶然性を把えてその具体性において一者の同一性へ同化し内面化することに存している。真の判断は偶然-必然の相関において事実の偶然性に立脚して偶然の内面化を課題とするものでなければならぬ。思惟の根本たる同一律は内面化の原理にほかならない。「甲は甲である」というのは「我は我である」ということにほかならない。判断の本質的意味は邂逅する「汝」を「我」に深化することでなければならない。我の内的同一性へ外的なる汝を具体的に同一化するのが判断の理念である。》p. 222
(コメント:正に、i*(-i)⇒+1をここで述べていると考えられる。)

「偶然を成立せしめる二元的相対性は至るところに間主体性を開示することによって根源的社会を構成する。」p. 224
(コメント:間主体性であるが、これは、間主観性より、用語として適切であると思う。)

「道徳が単に架空なものでなく、力として現実に妥当するためには、与えられてた偶然を跳躍板として内面性へ向かって高踏するものでなくてはならぬ。・・・ 偶然性は不可能性が可能性へ接する切点である。偶然性の中に極微の可能性を把握し、未来的なる可能性をはぐくむことによって行為の曲線を展開し、翻って現在的なる偶然性の生産的意味を倒逆的に理解することが出来る。」pp. 224~225
(コメント:道徳は、偶然性=特異性において、基礎づけられ、行為への意志となると言えよう。)

「不可能に近い極微の可能性が偶然性において現実となり、偶然性として堅くつかまれることによって新しい可能性を生み、更に可能性が必然性へ発展するところに運命としての仏の本願もあれば人間の救いもある。」p. 225
(コメント:何をか言わん。)

少し前後するが、
「必然性とは同一性すなわち一者の様相にほかならない。偶然性は一者と他者の二元性のあるところに初めて存するのである。・・・
個物の起源は一者に対する他者の二元的措定に遡る。邂逅は独立なる二元の邂逅にほかならない。無いことの可能性は一または他の選択に基づくものとして二元を予想している。」p. 221
(コメント:これは、正に、差異論であり、他者的差異論である。)

p.s. 文体が端正で、明快であり、美しい。論理的かつ芸術的な文体である。

★参考★
九鬼周造の『「いき」の構造』(1930)について
この貴重な日本文化論・文芸論は、芸術の在り処を探る重要な視座を与えてるものであるが、PS理論の視点から最も、その高い価値を示しうる。
この書物も、海舌は高校時代に読んだが、江戸期の日本文化文芸の中心的モチーフの最重要なものの一つである『粋』という概念を、「肉体的な男が精神的な方向性として女性へ傾斜する』、或いは、『肉体的に女性である者が精神的な方向性として男性に傾斜する』様子、というような定義であったと思う。
これをもう少し敷衍すると、異性への精神的傾斜は、一旦、同姓・自己への深い自己撞着・諦め(所詮、男は男、女は女)から、まるで、弓を引き絞って放つように、異性への一瞬の傾斜(異性への無制限の憧れ、異性への自己投機、イルージョンの世界に踏み込む)へと向かう様なのであり、しかし、絶対的な断絶があることを了解している点で、無限の諦め、諦観、『いさぎよさ』をも内包するのである。
気風の良い女性、着物の裾を捲くって走る女性、しかし、弱さ、太腿の女性的美も、同時に男の目を引くのである。
大男が情けに弱くて、不憫な話に貰い泣きしつつも、勧善懲悪のために、刀を抜くなどの様が、これに当たるだろう。(情に流され、情を断つ。)
こうした状態を、PS理論では、メディア・ポイントと言う『概念』を用いて説明する。

⇒参照: Media Point

つまり、「粋」という状態は、PS理論上のメディア・ポイントの状態を指すのである。
九鬼周造氏は、この男女の相克を、不連続で、絶対的な差異であることを認めながら、しかし、対立・共存・相克する、という観点から説明されている。ここに、卓越した先見性を見るのである。

http://blog.kaisetsu.org/?eid=523662

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 『New Platonic Synergy Theory』