光の投影・反射像の連続的同一性と闇の差異的同一性:前者の選択と後

光の投影・反射像の連続的同一性と闇の差異的同一性:前者の選択と後者の排除としての近代的自我秩序


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


なぜ、主体は、自己投影して、他者を否定し、自己優越化するのか


先に、考察を行ったが、自己優越化については、説明が足りないと考えられるので、ここで、検討したい。
 i*(-i)という即非様相を根源として考察しよう。これは、零度であり、動的には、デュナミスであると考えられる。即ち、プラス・エネルゲイアとマイナス・エネルゲイアが対生成するような零度のデュナミスである。とまれ、ここは、零度無限の様相である。
 問題は、エネルゲイアの生成である。これにより、零度無限対性が失われて、連続的同一性化が生起すると考えられるだろう。即ち、i→(-i)が生起するのである。明日野氏は、この→を支配性と見ている。これは首肯できる考えである。思うに、この→は、主体iの連続的同一性の志向性・エネルゲイアである。これは、差異である他者-iを否定するのである。主体・連続的同一性ヴィジョンを肯定して、他者・差異ヴィジョンを否定するのである。この肯定と否定の力学は、当然ながら、優位と劣位、優越と劣等の力学と言えるだろう。
 ここで、発想を先のものと変えて考えると、連続的同一性の志向性とは、他者否定であるから、マイナスのエネルゲイアとしよう。即ち、i*-(-i)⇒−1である。私は、これを自己投影と考えているのであるから、これは、主体像iを他者-iに押し付けていることと考えてもいいだろう。つまり、ここに圧力・暴力があるのである。問題は、主体iが、連続的同一性のヴィジョンをもっていることである。つまり、ここには、即非・対極関係を否定する二元論が生起していると考えられることである。つまり、即非を否定した力が主体iに生起していることである。つまり、他者-iの否定とは、即非*の否定である。だから、 i*(-i)は、i(~*)-iであろう。即非の否定としての連続的同一性のエネルギーないし力の発生があるということになるのである。
 ここで、さらに発想を変えよう。(本稿は思考実験である。)主体iが、他者-iへの志向性をもつ。i⇒-iである。この⇒を光の投影としよう。すると、終端の-iとの接点において、投影像が発現するだろう。これは、光の投影像であり、この像に主体iは同一化するのではないだろうか。この自己投影像 self-reflection imageと呼ぼう。これが、いわゆる、ナルシシズムの発生であると考えられる。そして、この像は、i*-(-i)⇒−1であると考えられる。とまれ、この自己投影像ないし自己反射像(簡単に、投影像ないし反射像とする)が、連続的同一性の基礎となると言えよう。そして、ここをベースに言語形成が為されるのである。結局、この反射像において、差異である他者が否定されているのである。他者は、隠蔽されるのである。カントで言えば、物自体となるのである。これが自我形成であり、近代的自我の起源であると考えられる。
 では、主体の投影・反射とは正反対に、他者の投影・反射があるのではないのか。iを光にすると、-iは当然、闇である。闇の投影・反射である。あるいは、前者を心にすれば、後者は身体である。身体の投影・反射である。両者の相反する投影・反射があるのだろう。
 しかし、主体は、光の投影・反射像と連続的同一性化した自我は、闇の投影・反射像を否定・排除・隠蔽するだろう。この力学が問題なのである。本来、光と闇ないし光と影の二重性が生起しているはずである。換言すると、連続的同一性と差異(差異的同一性?)との二重性が生じているはずである。しかし、闇の同一性は、光の主体ないし自我には感知されないはずである。おそらく、漠然とは感じられるはずである。それは、身体における生動性であろう。そう、情動と言っていいのではないだろうか。闇の同一性は、光の自我にとっては、情動となるのではないだろうか。とまれ、闇、影である。光の投影・反射像が明晰なものであるのに対して、闇の投影・反射像は、当然、漠然、あいまい、不可視的なものである。後者は、光のもつ、いわば、影である。シャドウである。
 問題は、近代合理主義ないし近代的自我である。光の投影・反射像としての自我があり、闇の投影・反射像としての影・シャドウがある。いわば、自己・個の二重性(二重人格)がある。しかし、近代合理主義、近代的自我は、後者を明らかに排除・排斥するのである。確かに、光の投影・反射像において、連続的同一性化する主体=自我は、闇の投影・反射像をいわば、脇にやるだろう。排除というよりは、脇を置いておき、並存させるのである。光と闇との並存である。おそらく、これが、近代主義以前の心身の様相である。おそらく、宗教、神話、民話等は、闇から生まれたのである。
 問題は、近代主義における闇の排除である。そう、光と闇の並存は、メディア空間の即非性ないし対極性を保持していると言えよう。しかし、これが、近代において、崩れたのである。この光の極限化ないし絶対化は何か。これは、これまで、ずっと追求してきた問題でもある。
 これは、簡単に言えば、コギトの問題であろう。ポスト中世という状況があるのである。中世的キリスト教的秩序の崩壊、「神の死」の状況である。それまで、光の連続的同一性の価値観としてキリスト教会があった。しかし、それが、破壊されたのである。秩序の崩壊である。つまり、個体において、光の投影・反射像である連続的同一性の価値観・秩序観として、中世キリスト教会の世界観があったが、それが、崩壊して、光の同一性価値観が喪失した状況が、ポスト中世・初期近代であったと言えよう。これが、デカルトの哲学を探求した精神的環境と言えよう。つまり、新たな光の秩序を構築する必要があったのである。このとき、デカルトは、iと-i、光と闇との並存する、メディア空間的状況(実存状況?)にあったと言えよう。いわば、剥き出しの個の様態である。つまり、i の光と-iの闇との並存様態である。そして、これは、差異即非様相である。ここにおいて、つまり、差異即非様相において、デカルトは、光の連続的同一性を選択して、闇の差異を排除したのである。これが、近代合理主義、近代的自我の誕生・発生の力学であろう。デカルトは、コギトにおいては、差異をもっていたが、合理性を選択したときに、連続的同一性の合理主義を絶対的に選択したのである。ここに、近代的二元論が生起したと考えられるのである。
 これで、本稿の問題を解決したこととしよう。


p.s. 闇を排除する傾斜は、キリスト教的善悪の観念に拠るのだろう。