「同行二人(どうぎょうににん)」・「同伴者の愛」とは何か:虚次元

「同行二人(どうぎょうににん)」・「同伴者の愛」とは何か:虚次元・虚空間の方へ


テーマ:一神教多神教


以下の東京新聞の、最近では珍しい宗教的趣旨をもった社説に【永観も空海も、偉人だが超人ではありません。しかし、無力だからこそ尊い愛、「同伴者の愛」を知っています。

 君たちに今、目を凝らし、耳を傾けるいとまがあれば、道ばたや空や海にも、あなたを見守り、あなたとともにあろうと願う無数のいのちが生きています。君たちは、決して一人ではありません。】と書かれている。

 「無力」とは何か。それは、自我としての「無力」であろう。しかし、自己における「有力」の湧出を感じたであろう。永観も空海も、虚空間(=コスモスないしプロト・コスモス:空海の「五大に響きあり」)を悟達したのだと思う。「尊い愛」とは、虚空間の零度差異共振シナジーエネルゲイアのことであろう。キリスト教で言えば、「神の愛」に当たるものである。そして、「同伴者の愛」も同じことである。

 「道ばたや空や海にも、あなたを見守り、あなたとともにあろうと願う無数のいのち」とは、日本の伝統宗教アニミズム(日本の地霊)であるが、これも、差異共振シナジーエネルゲイアで説明できるのである。おそらく、現象空間には、本来、虚空間(メディア空間)が染み込んでいるのである。だから、差異共振化するのである。しかし、ここで、倒錯が起こるのである。日本アニミズム多神教的倒錯である。虚空間が染み込む、流出するという考えは、内在連続的である。しかし、内在超越が正確なのである。単に内在化すると、ベルクソンハイデガードゥルーズと同じである。そして、これは、全体主義ファシズムになるのである。ここにおいて、一神教の意義があるのである。虚空間・虚次元を一神教は確保したのである。おそらく、自然宗教多神教の、連続化の堕落があったのであり、それに対して、一神教が、虚次元を復活させたのである。こう考えると日本文化の問題があきらかになるだろう。虚次元・虚空間を復活させなくてならないのである。

 「同行二人」・「同伴者の愛」を得るには、虚次元・虚空間を獲得しなくてならないのである。そう、鈴木大拙が述べた、鎌倉仏教の勃興に等しいような日本文化復興が必要である。日本ルネサンスである。日本の地霊復活である。
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君たちを一人にしない

 木漏れ日を揺らす風のそよぎや瀬音の乱調に、いのちの気配を感じることはないですか。人生に同伴者は付き物です。私たちもそうなりたいと願っています。

 カエデがようやく色づきました。

 京都東山の銀閣寺から熊野若王子神社まで約二キロ、琵琶湖疎水の側道は、「哲学の道」と呼ばれる桜と紅葉の名所です。

 戦前、哲学者の西田幾多郎が、この道を散策しながら思索を重ね、深めたことからその名がついたとされています。
■ともに歩いてくれるもの
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sha/20061119/col_____sha_____001.shtml