プラス・エネルギー「遺伝子」と零度「遺伝子」:サル人類の彼岸

プラス・エネルギー「遺伝子」と零度「遺伝子」:サル人類の彼岸


以前、劣弱な差異と高貴な差異の二元論を提起したが、これは、それほどおかしい考えではないと思える。
 とまれ、問題は、父権主義と母権主義の問題である。神話学的に、人類学的に、考古学的に、明らかに、人類は、母権主義から父権主義へと移行したと仮説できる。(もっとも、批判する人はいるが。)
 この移行に関しては、これまで、ps理論から、私なりに、検討してきて、結局、メディア界の極性エネルギーの交替運動によると考えたのである。(勿論、この交替運動は、イデア界の1/4回転に変化によってもたらされると考えている。)即ち、母権主義から父権主義への変換は、メディア界零度からプラス・エネルギーへの変動によると考えられる。
 私が今、思っているのは、このプラス・エネルギーが、人間の「遺伝子」ないしDNAに影響するのではないのかということである。プラス・エネルギーが、メディア原型化されるのではないかということである。(「遺伝子」をメディア原型と考えたい。)このプラス・エネルギー「遺伝子」があると、差異のエネルギー、つまり、マイナス・エネルギーが発生しても、構造的に、無感覚・無知覚になると思うのである。これは、善悪を超えた、理、言わば、超理の問題である。そう、構造主義の問題である。プラス・エネルギー「遺伝子」構造をもつ人間は、マイナス・エネルギーの発動を感覚・意識・認識できないのである。
 もしそうなら、これが、私がサル人類と呼ぶものである。換言すれば、悪魔である。
 では、「遺伝子」的に、プラス・エネルギー以前の零度(ゼロ度)の「遺伝子」を潜在させていることがあるだろう。そして、実際に、メディア界が、マイナス・エネルギーに転じたとき、それは、差異共振性を顕在化させるだろう。ここに、ポスト・サル人類の可能性があるのである。
 私見では、日本人には、「縄文時代」が一万年以上も続いたので、零度「遺伝子」が潜在していると思えるのである。しかし、父権主義の「遺伝子」に支配されて、それが、埋没しているように思えるのである。今日、危機的に、プラス・エネルギー「遺伝子」が、日本にはたらいていると思えるのである。ほぼ、アメリカ合衆国と同質の問題があるとも言えよう。ネイティブ・アメリカンの零度「遺伝子」とアングロ・サクソンのプラス・エネルギー「遺伝子」の二元性と同等のものがあると思うのである。日本のプラス・エネルギー「遺伝子」は、一つは、国学イデオロギーと関係していると思う。また、以前、述べた父権的部族主義がこれと関係しているだろう。そう、より的確に言えば、豪族主義だと思う。豪族的父権主義が日本の古代からあると思う。これが、天皇制を隠れみのとして実権を握るのだ。「院政」である。平安の藤原氏がこの原型ではないだろうか。豪族的父権主義が、日本の根源的な理念的な母権主義を利用して支配するのではないだろう。(そう、天皇制とは、本来、母権主義であろう。イシス・オシリス宗教神話と同型であるから。)
 だから、この豪族的父権主義のプラス・エネルギー「遺伝子」と零度「遺伝子」が、日本人の「遺伝子」には、混合していることになるだろう。そして、近代主義は、前者が主体となり、現代も小泉政権でわかるように前者的である。日本人の後者の「遺伝子」が埋れているのだ。
 さて、思うに、この二元論、二重性であるが、これは、個人差があるだろう。前者が優性であり、後者が劣性である人、また、逆の人、そして、均衡的な人。また、一般に、これは、男性と女性の差異でもあろう。
 以上の仮説から見ると、現代は、前者が中心となり、覇権をとり、零度「遺伝子」型を破壊しているのである。つまり、前者が、これが、サル人類であるが、支配して、正反対の後者を否定・排除・破壊しようとしているのではないだろうか。なぜなら、欧米近代主義は、そのような方向性をもっているからである。ただし、日本の問題は、欧米近代主義が、ルネサンスへの反動性をもっているのに対して、そのようなものがなく、集団的、中世的であることである。ここに日本の特殊な問題があると考えられるのである。
 とまれ、問題は、零度「遺伝子」ないしマイナス・エネルギーによる差異共振シナジー・エネルギーの開花の実現である。これは、考えると、単にポスト父権主義だけでなく、ポスト母権主義でもある。即非の論理が出現するのである。