第四の視線=C^4とは何か:「第三形而上革命」とメディア界の開花

2006-06-10 第四の視線=C^4とは何か:「第三形而上革命」とメディア界の開花

第四の視線=C^4とは何か:「第三形而上革命」とメディア界の開花

テーマ:不連続的差異論とヌース理論

ヌース理論の半田広宣氏は、以下のように、いつもの意味深長さを含めて述べている。

《さて、問題はこの視線だ。たとえバーチャルとは言え、今まで単に想像上のものだったC^4の視線が、一般大衆のもとに、これほどまであからさまに到来してきたこと。。無意識の進化はノエシス(観察軸)を絶えず新たなノエマ(被観察軸)へと変換していくことによって進んで行く。今まで虚数軸として作用していた宇宙空間からの視線をあたかも実軸へと換えてしまうようなこのgoogle earthの登場は第四の視線の活動開始を告げている。

グローバル化を手放しで喜んでいる場合じゃない。デジタルの体制は、今、文化なんてレベルじゃなく、文明の在り方そのものを変えようとしているのだ。原始土地機械から専制君主機械の登場が第一次形而上革命だとすれば、専制君主機械から資本主義機械の登場は第二次形而上革命と呼べるものだったと思う。そして、今、世界に訪れようとしているのは、第三の形而上革命なのである。しかし、この第三の無意識の革命は確実に二つの道への分岐を持っているはずだ。一方は、鉛直に垂上し、かたや他方は鉛直に落下する。そういう感覚がひしひしと伝わってきてならない。とりあえず、視線の遷移を観察子番号に対応させておく。。

●第一の虚軸(ψ7)………現実の視線/主客一体(現実界の視線)

●第二の虚軸(ψ9)………一神教の視線/主客を分離させる視線(象徴界想像界の視線)

●第三の虚軸(ψ11)………コギトの視線。神の視線を人間に同化させる視線(想像界象徴界を生殖する視線)

●第四の虚軸(ψ13)………コギトを現実界へと導く視線、そして、その一方でコギトの境界を破壊し闇の現実界そのものに破棄する視線

巨人の目の次なる進化が始まっている。これからあらゆるもののボーターが破壊されていくだろう。コギトも例外ではない。心してかかるべし。

「第四の視線の到来」 Cave Syndrome

http://noos.cocolog-nifty.com/cavesyndrome/2006/06/post_ad86.html

「この第三の無意識の革命は確実に二つの道への分岐を持っているはずだ。一方は、鉛直に垂上し、かたや他方は鉛直に落下する。」という言葉は何を述べているのか。これは、その後で、「第四の虚軸」(Ψ13)で、説明されている通りのものだろう。「コギトを現実界へと導く視線」が「鉛直に垂上」するのであり、「コギトの境界を破壊し闇の現実界そのものに破棄する視線」が「鉛直に落下する」のだろう。あるいは、「垂上」と「落下」は、同時に、「第四の虚軸」なのだろう。

 思うに、これは、かつて、19世紀末から20世紀初期・前半にかけて、生起した「視線」の革命の進展と言えるだろう。この先駆は、地球規模のものであったと思う。言わば、コスモスの風、聖霊の風が、地球に接近した時代であり、美術、文学、哲学、自然科学等で、コスモスに導かれた革命が起こったエポックである。

 そして、21世紀は、「第三の形而上革命」が、より一般化する、パラダイム・シフトの転換期であり、新しいアイオーンに入るエポックなのであろう。

 コギトの変容の生起があり、近代自我・近代合理主義が解体するということであり、対極性のコスモス的主客「即非」(一体であると同時に、分離しているという東洋哲学を概念を表す鈴木大拙の用語)へと進展するということである。ドゥルーズガタリが、前個体と呼んでいた領域の開闢である。これは、不連続的差異論的に言うと、ポスト・ポストモダンである。何故ならば、フランスのポスト・モダンは、ドゥルーズ哲学に見られるように、差異の特異性と差異の連続性の区別が不十分であったからである。前個体・ポスト自我(道元の身心脱落に相当しよう)へと明晰に、透明に、進展するには、差異を不連続化して、いったん連続性を切断する必要があるのである。さもないと、アイロニカルな没入で、ないし、近代自我の同一性によって、反動化するのである。政治的には、20世紀初期・前半にあったように、ファシズムないし全体主義となる。

 しかし、不連続的差異論やヌース理論のような、いったん、感性的連続性ないし自我連続性を断ち切った、理念知性(叡智)化によって、もはや、理論的には、ファシズム全体主義化は成立しないのである。(因みに、D.H.ロレンスは、一時、連続性から、ファシズムに近づいたが、ハイデガーのようにファシズムに加担することはなく、ファシズムを否定して、文学芸術的に、不連続的差異の共立を表現したのであり、その基盤の上で、コスモス(暗い宇宙の薔薇)を暗視したのである。)

 思うに、「第三形而上革命」とは、政治・経済的には、聖霊政治的資本主義となるのではないかと考えている。

p.s. 少し、読みが浅かったようだ。垂上への視線(コスモスへの視線だろう)が、第3次形而上革命を指し、鉛直の落下の視線が、google earthの巨人の目の視線なのだろう。(p.s. これも、読みが浅い。そうではなくて、google earthは、第3次形而上革命の現象界的契機ということだろう。)

p.p.s. また、梵我一如(ブラフマンアートマン)の螺旋的回帰する宇宙的エポックなのだろう。ただし、違いは、不連続性の有無である。即ち、以前は、自我と宇宙=神(メディア界の神)は連続していて、いわば、未分化であった。「主客一体」であった。しかし、近代主義によって、客体から分離された主体が成立したのであり、この分離を前提に新たな主客合一が形成されるということである。これは、新しいアジア的意識と言える。考古学的には、巨石文化・女神文化の螺旋的回帰である。しかし、ジェンダー的には、一種両性具有と言えよう。しかし、これは、もっと、多元生成的な両極的なジェンダーである、ドゥルーズが述べているように。そして、これは、結局、超ジェンダーないし非ジェンダーとなるだろう。女性でも、男性でもない、ジェンダー(非ジェンダー)である。勿論、中性でもない。

 簡単にまとめると、近代主義ないしコギト主義による主客分離によって、絶対的個体化が形成された。これが、以前からの決定・絶対的切断契機である。そして、コギトを基盤として、新しい主客合一が生起・形成するということである。だから、ポスト・コギトと言えるのだろう(デカルト哲学からスピノザ哲学へ)。コギトが、コスモスと合一するのである。(この点を、精緻に説明する必要がある。別稿で、検討したい。)
2006-06-09 メディア界《コスモス》の幾何学とは何か

以下は、「検討問題:新しい螺旋的回帰の意味:新しい主客合一・一体化の意味:コギトとポスト・コギトの関係」の第四の項を独立させたものです。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10013453062.html

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4)メディア界《コスモス》の幾何学とは何か

(思うに、簡単に言えば、多様体である。あるいは、フラクタルな宇宙であろう。ここでは、知と存在、ないし、心と身体が両極的に共振結合しているだろう。

 この両極共振結合とは、原生命を意味するだろう。また、当然ながら、森羅万象の母型(マトリックス)である。ついでに言えば、質料とは、ここ、メディア界を指しているだろう。そして、これは、アリストテレスのデュナミスである。そして、プラトンのコーラである。そして、同時に、アリストテレスエネルゲイアである。

 これまで、デュナミスをイデア界に置いていたが、微妙なところである。デュナミス⇒エネルゲイアであるが、デュナミス「即非エネルゲイアとすることができる。こういうことだろう。メディア界において、差異と差異とが共振する。それは、ノエシス(知性)がノエマ(感覚・身体)の交信を介して、他のノエシス(知性)と連結するということである。この差異共振は、多様な可能態であり、同時に、現実態(エネルギー態)である。即ち、可能態(デュナミス)「即」現実態(エネルゲイア)である。

 こう考えると、デュナミスは、イデア界に置かない方がいいように思える。しかし、潜在性を言うならば、デュナミスは、イデア界に置いた方がいいだろう。すると、問題は、可能態と潜在態をどう考えるのかということである。アリストテレスは、質料と形相との結合で、個物が形成されると考えたのである。しかし、メディア界においては、質料は、ノエマ的共振「身体」性と考えることができるし、また、形相は、ノエマ的共振的原形態で説明できるだろう。だから、アリストテレスは、プラトンを補完したに過ぎないように思えるのである。

 そうならば、可能態はメディア界の半面のノエマ的身体(ノエマ的質料)であり、潜在態をイデア界と区別するのが適切のように思える。結局、私のデュナミス/エネルゲイア/エンテレケイアという三層論を訂正して、

イデア潜在性/メディア界(デュナミス・エネルゲイア)/現象界(エンテレケイア)

となる。

 さて、ここで、Kaisetsu氏のラディカルなイデア界のイデア不在論に少し言及すると、方向性とは、不連続的差異の《力》(=虚力?)のことと考えられる。これは、前メディア界の領域であり、まだ、まったくの無形と考えられる。「絶対無」とも言えるだろう。ここで、想起するのは、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』で、エイハブ船長が白鯨を探求している最中に、存在の究極を知りたいと言い、そして、結局、段ボールのように、向う側には何もないかもしれないが、それでも、いいと言っていることである。段ボールをメディア界とすれば、メディア界の彼岸に何もないというのは、イデアの不在に通じるように思えるのである。これは、ニーチェでは、力の意志であり、ヌース理論では、NOOS・NOSA&NOOS*・NOSA*であろう。これは、おそらく、潜在イデアと呼べるだろう。あるいは、前イデアである。

 さらに問題は、これは、何を意味するのかということである。私はだいぶ以前に、イデア界史というようなことを言った。イデア/メディア界的螺旋的「歴史」=進化史のことである。第一の1/4回転、第二の1/4回転、第三のそれ、・・・はそれぞれ、異なる進化的意味があると思えるのである。ニーチェ流に言えば、生成の無垢であるが、この無垢は、進展的無垢だと思うのである。第一の1/4回転で、ゼロ度共振が発生する。これは、宇宙の誕生である。そして、第二の1/4回転で、それが消滅するのではないだろうか。そして、第三のでは、新たに、宇宙が生成する。それは、最初の宇宙とは正反対となるだろう。第一の1/4回転は+虚軸への回転であり、第三のは、−虚軸への回転である。これは、いわば、負の回転とも言えるだろう。これは、作業仮説として、分離からの再統一を意味すると言えないだろうか。ヌース理論から言うと、等化であったろうか? とまれ、+虚軸回転を対化(二元論化)として、−虚軸回転を一元論化としよう。この点については、後で、検討したい。
2006-06-08 聖霊資本主義、差異共立資本主義、メディア界的資本主義とは何か

聖霊資本主義、差異共立資本主義、メディア界的資本主義とは何か

資本主義は、何らかの価値(物質、精神、情報、他)を創り、それを、市場を仲介して、競争して、消費者に販売して得た利益で、展開・進展する経済システムである。ここでは、現象界の同一性である貨幣による利益が目的であると言っていいだろう。食品、家電製品、住宅、情報、福祉、教育、等々、多様な価値が資本主義生産の目標となる。

 私は以前、価値を差異と見てきた。差異価値である。これは、個々の価値は、差異であるということである。あるいは、個々の価値は特異性であると見てきた。例えば、わたしの目前に、コーヒーカップがあり、コーヒーが入れてあるとしよう。このコーヒーは差異であり、特異性であると私は思う。また、同一性である。同一性とは一般性である。コーヒーという一般観念である。(ここでは、以前の私見を展開することにして、新しい考えは入れないことにする。)

 このコーヒーをc1としよう。c1は、私が所有しているものであり、他の誰のものでもない。誰かが、c1を取れば、私は怒る。ここは、c1か、否かの、二律背反の世界である。これが現象界のあり方の基本の一つである。

 ところで、私がオフィスにいて、オフィスで全体で、コーヒー豆を買い、そのコーヒーを社員が飲むとしよう。この場合、私の目の前の、コーヒーc1は、誰の所有だろう。とりあえず、私がポットからついで、飲もうとしたのであるから、私にいちおう占有権がある。しかし、これを、仲間が横取りしたとする。いちおう、いぶかしがるが、また、カップにつげばいいのだから、とりたてて、腹を立てないという場合が考えられる。

 ここでは、c1は、私のものであり、且つ、私のものではないのである。矛盾同一が成立するのである。これは、矛盾共立とも言えよう。メディア界の事象である。

 私が、聖霊資本主義(差異共立資本主義、メディア界資本主義)で考えるのは、後者のような場合である。これは、社会主義ではない。社会主義は、生産手段を集合化するものであるから。コーヒーは、集合化された権力が所有し、支配するのである。聖霊資本主義は、あくまで、資本主義である。コーヒーは、私のものであり、且つ、私のものではない。ここには、余剰の必要がある。もし、コーヒーが多量になければ、共立は成り立たない。

 では、多量に、豊富にコーヒーがあったとしよう。では、これは、誰が生産し、買い、管理するのか。コーヒー農場で働いている人Aが生産するのであるし、お金を持っている人Bが、売店で買うのであり、また、オフィスのコーヒー係Cが管理するのである。A,B,Cが共立しなければ、この連鎖は成立しない。誰かが欠けても、切断される。

 ともかく、A,B,Cが存立する必要がある。これが、簡単な聖霊資本主義である。Aに賃金が足りなければ、崩壊するし、消費者にお金がなければ、同様であるし、Cが、管理をいい加減にすれば、また、同様である。この差異の共立のバランスが必要なのである。

 しかし、グローバル資本主義は、弱肉強食で、少数者が勝利し、多数者が敗者となる。どこに問題があるのだろう。なにが、聖霊資本主義を阻害しているのだろうか。民主主義は、本来、聖霊主義である。差異共立主義である。どうして、民主主義が機能しないのか。それは、簡単に言うと、聖霊知が欠如しているからだと思う。聖霊知性があれば、バランス作用がはたらき、政治が聖霊化するはずである。そして、聖霊資本主義となるはずである。

 近代は、反聖霊主義である。それは、同一性による二項対立の世界である。二項対立的に、一般概念の同一性が、差異を支配するのである。近代自我、近代合理主義から脱却して、聖霊知性を獲得することが必要なのである。これで、聖霊資本主義が近づくはずである。

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■補足:豊かな自然も必要だ

コーヒー農園のためには、それなりの、土地が必要である。だから、自然へのケアも必要なのである。これも、バランス知性、聖霊知である。

 自然(宇宙)と都市との循環を目指す聖霊知性が必要である。

renshi (2006-06-08 00:39:51)
2006-06-07 半田広宣氏の「独自の生殖機械」へのコメント:聖霊資本主義へ向けて

半田広宣氏の「独自の生殖機械」へのコメント:聖霊資本主義へ向けて

テーマ:不連続的差異論とヌース理論

半田広宣氏のコメント「独自の生殖機械(1)〜(3)」

http://ameblo.jp/renshi/entry-10013180233.html

を《  》で括り、赤色文字にします。

《■独自の生殖領域(1)

>同一性(父権制)が、差異(母権制)を支配する領域が、「独自の生殖領域」だろう。共振差異を否定する暴力的同一性の生殖である。火星(マルス、軍神)ないし白羊宮的と言えるのではないだろうか。

 《renshi 氏のおっしゃる通りだと思います。「独自の生殖領域」というのは、象徴界想像界の間で性倒錯が起こる場所という意味で書きました。神話的に言えばオゴ(ドゴン神話)や蛭子(古事記)が生まれてくる領域に当たります。オイディプスの父殺しの現場ですね。子が愚かにも母と交わってしまう。父と子のユダヤ的契約が行き過ぎて、父殺しが起こり、何を勘違いしたのか、子が王の座へと着いてしまうわけです。ここで、無意識の欲望回路の逆転が起こります。宇宙的エロスであった享楽の力がウォルプタスへと反転し、いわゆる快感原則の回路がセットされてくることになります。その変わりに、享楽(死への欲望)への回路は完全にシャットアウトされ、死者隠しの近代、宗教嫌いの近代、オカルティズム侮蔑の近代が出現してくる。

 その意味で、この倒錯した生殖機械は反転した闇の現実界である、とも言えるでしょう。こうした仄暗い生殖が起こる領域のことをカバラはクリフォト(殻)と呼んでいます。これは、近代自我が居座っているニセの容器とも言えます。おっしゃる通り、この容器の本質はディーン(火星)の闇の中にあります。シュタイナーが「ソラト」と呼んだものではないかと思います。》

ドゴン族のオゴについては、残念ながら、知りません。蛭子ですが、私は、逆説的に肯定的にとっています。聖母マリアに対するマグダラのマリアユダヤ神秘主義リリスと似ているのではないかと思います。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/lilith.html

つまり、蛭子こそ、本当の「卑弥呼」ではないかと思います。また、「ソラト」ですが、これは、怖いですね。確か、ヨハネの黙示録の悪魔の名前ではなかったでしょうか。

 「宇宙的エロスであった享楽の力がウォルプタスへと反転し、いわゆる快感原則の回路がセットされてくる」に関しては、まったく同感です。D.H.ロレンスは、宇宙的エロスを説いていたのですが、俗物凡人たちは、理解できるはずはなく、それを猥褻ととりました。

 「享楽(死への欲望)」に関連してですが、バタイユを否定的に言いましたが、彼を、ヘーゲルニーチェの折衷と考えると、彼の暴力には、「享楽(死への欲望)」への志向があると思います。しかし、「死への欲望」とは、スピノザ歓喜だと思います。あるいは、ニーチェ永劫回帰だと思います。フロイトは、これを唯物論的にしか捉えられませんでしたし、ユングは、反動的に、観念論的に、集合的無意識にしてしまったのでしょう。ラカンは、ほとんど、正確に捉えていたとは思います。ただし、アンチ・オイディプス化させて捉えるべきと思っています。そう、ルドルフ・シュタイナーの「霊」とは、これに近いと思っています。

 《ただ、クリフォトが唾棄すべき無用な存在かというと、そうではないと思います。ここでは、哀れながらも繊細で美しい有機体の生命活動が営まれているはずです。ドゥルーズが「バロック(襞)」として表現したものも、こうしたクリフォトにおける生殖の営みの連鎖性・連続性についての事柄だと思います。神ではなく、コギトとして光と影を操り、それら両者のコントラストを交互に織り混ぜながら、個体に託されたエロスの活動を行って行く。それがバロック的運動というものでしょう。

半田広宣 (2006-06-03 16:12:25)》

ここが、私にとって、とても新鮮な叙述です。ドゥルーズの「バロック(襞)」は、難解で、私には、二元論的にしか思えなかったのですが、確かに、メディア/現象境界の差異と同一性との弁証法として見ることができるよに思えます。おそらく、近代における、優れた作家・芸術家は、「バロック」的だと思います。「バロック」的ではない、作家は、凡庸だと思います。

 でも、小泉首相は、ここから見ると、「バロック」的だと思います。彼ののらりくらり・いい加減精神と魔女狩り的精神の併存は、ある意味で、驚嘆すべきものです。

《■独自の生殖領域(2)

さて、オイディプスによるこの父殺しの構図をヌース理論的にトポロジーとして見ると、三次元球面(人間における主体統合)の時空的一点への同一化として解釈することができます。ペンローズのいうツイスターファイブレーションです(実際、ツイスターファイブレーションは資本主義機械が生まれてくるとしたC^4上で起こります)。これは内在であったものが超越側へと接続するときの位置の幾何学的表現と言っていいと思います。カント風に言うならば、主観形式と客観形式の結節点です。ここで、点概念に強大な霊力が宿ることになります。

 この点概念の突然変異により、数学的に構築された理念性の世界が延長空間に張り巡らされて行くことになります。ドゥーズのいう公理系。つまり、デカルトガリレオ的思考による近代科学思考の勃興ですね。科学は変質した点を「物体の質点」として語り、それがなぞる幾何学的法則性によって僕らの世界が営まれているかのような言説を生み出してきます。しかし、ご存知のように、そこではフッサールのいうところの「数学的に構築された理念性の世界と、現実に知覚的に経験された世界(日常的世界)とのすり替え」が起こっています。要は、科学が扱う世界はモノを扱っているようで、モノなどどこにも存在していないわけですね。モノが存在しないということは、光との連結を失っているということです。光とは、存在の出力と入力の橋渡し役そのものですから、コギトの科学王国はこうした存在の生成回路とは不連続の領土を形成しているわけです(ヌースでは不連続質と呼びます)。バロックの字義通り、生活空間と、この不連続の領土の間に「歪んだ真珠」、つまり、光と闇との間の拮抗で歪曲させられた人間の魂、のリトルネロが流れていくことになります。

半田広宣 (2006-06-03 16:13:53)》

ペンローズに関しては、よくわかりませんが、この箇所は、私の直観が納得します。すばらしい叙述だと思います。現代の科学者に読ませたい説明だと思います。「科学が扱う世界はモノを扱っているようで、モノなどどこにも存在していない」というのは、正鵠を射ています。その通りです。結局、延長空間をモノとしているに過ぎないのです。でも、ここは、驚異的な叙述だと思います。昔の、唯物論に囚われていた私に読ませたい叙述です。

 フッサールに言及されていますが、フッサールは、ある意味で変な人ですね。「民衆」ですが、大天才です。生活世界は、「民衆」の世界だと私は思っています。もっとも、「民衆」は大衆の正反対ですが。

《■独自の生殖領域(3)

こうしたバロック的な反復運動の中でコギトの自己同一性をかたくなに保証していくものが、紙幣の行使、つまり、経済活動(資本主義機械)なのでしょう。真の現実界ではモノを通して主体の交換が行われていくのですが、闇の現実界の空間では主体を通してモノの交換が行われるようになってしまう。宇宙エネルギーの交換関係が丸ごと反転してしまっているわけです。聖霊の力がウォルプタス(人間的な悦楽・喜び)へと変質し、貨幣(紙幣)となって巡回し、悪夢のように周り続ける。誰でも紙幣をつかんだときにこみ上げてくる、あの得体の知れない薄気味悪い笑みを思い浮かべて見れば分かるでしょう。そこで笑わせているのがウォルプタスそのものです(わたしも例外ではありません)。

 紙幣は神(国家)の名において脱コード化の能力を与えられます。売買という行為を通して相対的差異を持ったものすべてがこの貨幣を媒介として同一性の空間に叩き込まれて行く。芸術、セックス、愛はいうまでもなく、哲学や宗教までもが。。何と言うコギトのどん欲さ。貨幣とは、こうした反転した主体による反転した現実界で暗躍する反転した聖霊群とも言えますね。銀行や証券会社はこれらの聖霊力を狩り集め、都市の中心部に物神崇拝の教会・寺院として君臨している。世界は中世とさほど変わっていない。。。質こそ変われ、まだまだ暗黒時代なのでしょうね。

半田広宣 (2006-06-03 16:14:42)》

「反転した現実界で暗躍する反転した聖霊群」はその通りです。裏返しの聖霊群としての貨幣・紙幣・資本です。ここを、どうやって、さらに反転させるのか、これを、ずっと私は考えてきました。現代は、確かに、黙示録的時代ですが、逆黙示録的ではないかと思っています。反転した聖霊群は、自分を、神側と思っています。しかし、本当は、悪魔側です。

 とまれ、この反転の反転の契機が何であるのか、それを探求しています。直観では、本当の聖霊の時代になりつつあるとは感じますが、決定的なものは何なのか。ヌース理論や不連続的差異論が、その意味をもつと信じていますが、もっと、直截な何かがあるような感じがしています。

 ルドルフ・シュタイナーは、現代は、新しい霊的太陽(p.s. 霊的キリスト)を見る時代であるというような予言をしていたと思います。この点で言えば、『死んだ男』で、D.H.ロレンスは、それを表現していると思います。復活したオシリスとしての「イエス」です。でも、彼は、天才です。私は、もっと、普通の人にもわかる聖霊があるような気がしています。貨幣を裏返せば、聖霊ですよね。つまり、聖霊資本主義ではないかと思います。聖霊としての資本です。現代の倒錯聖霊資本主義から、正道聖霊資本主義への転換です。換言すれば、現象界的資本主義からメディア界的資本主義へのパラダイム・チェインジです。明治維新を創出した人たちは、聖霊資本主義だったと思いますが、すぐ、反動化して、倒錯・反動聖霊資本主義になり、太平洋戦争という奈落に転落し、世界に多大な被害を与えました。そして、戦後は一時、正道聖霊資本主義でしたが、すぐ、反動化してしまったと思っています。アメリカ人を巻き込むようにしないと、世界は正道聖霊資本主義にはなりませんね。アメリカ人は意外に、これを理解できると思っています。もっともやっかいなのが、日本人かもしれません。

 とまれ、すばらしい論考をありがとうございました。