感覚と知覚の差異:「蛙」の鳴き声とその表現

感覚と知覚の差異:「蛙」の鳴き声とその表現


今、千葉の九十九里平野の実家にいて、「蛙たちの声」を耳にしている。
I hear frogs croaking right now.
私は、感覚と知覚・認識の差異を問題にしたい。耳にしている音は、直截には、音自体であり、蛙の鳴き声以前である。とにかく、音である。擬音語で言えば、こりこり、きりきり、ぎりぎり、かりかり、ぎろぎろ、ころころ、等、している音どもである。これを、蛙の鳴き声というと、もう文化・社会の分節にはめ込めているのである。今聞いている音声は、ほんとうは、蛙の鳴き声ではないのである。フッサール現象学的還元、判断停止とは、感覚を、知覚・認識・言語に変えないことを意味しているのである。
 こう考えて、私が若い頃、海の波を見て、とまどったことを想起するのである。寄せては返す波、多様に砕ける白い波たちがいる。これを、かつての、私は、言語・知覚・把握しようとしたが、その不可能性に、苛立ったのである。そう、感覚と知覚には、差異があるのである。カントの物自体の意味やフッサールの還元の問題は、ここにあるだろう。即ち、今聞いている、音(複数)の感覚と知覚(蛙の声たち)の間には、絶対的な差異があるのである。そう、前者は、メディア界の事象であるし、後者は、現象界の知覚・認識である。
 とまれ、これで、長年の困惑に終止符を打てたのである。メディア界的感覚と現象界的知覚・認識は不連続であるということである。今耳にする音と、蛙の声という認識との間には、絶対的な差異があるということである。また、様々に砕ける白い波の感覚とその認識との間にも、それがあるということである。カントは、正しかったのである。しかし、後人は、感覚を無視したのである。感覚は差異である。他者である。共振するが、同一化していないのである。近代主義は、これを忘失したのである。言語認識で、感覚を排除・隠蔽したのである。
 そう、ここで、大江健三郎の文学を想起した。彼の前半生の文学は、感覚の文学であったが、後半生は、認識の文学になってしまっただろう。認識は、必要なものであるが、差異がなければ、観念遊戯となるだろう。そう、古池や蛙飛び込む水の音、これを、芭蕉は見て聞いたのだろうか。それとも、聞いただけなのか。今の私としては、これは、聞いただけのように思うのである。何故ならば、水の音が主体であるからだ。おそらく、芭蕉の聞いたのは、水の音ではなくて、物自体としての「水の音」である。それは、蛙の飛び込む以前の音である。ちょうど、今、私が聞いている、かりかりした音と同様だと思うのである。

p.s. カントは正しかったと述べたが、疑問が浮かんだ。カントは、超越論的形式としての感覚形式を述べていて、この形式と超えたものとして物自体を提起しているのである。しかし、私が述べたのは、感覚と知覚・認識との絶対的差異である。カントの形式とは、知覚・認識の形式であり、感覚そのものの形式ではない。カントの感覚論は間違っているのではないだろうか。感覚は、ヒュームが捉えたように、多元的であり、いわば、不連続である。しかし、カントは、感覚を、知覚形式にしているのである。直観を、知覚形式にしているのである。ならば、カントは、近代的合理主義であり、感覚に不誠実なのである。感覚に虚偽的なのである。感覚にいかがわしいのである。カントは、感覚=差異=メディア界を恐れ、排除したのである。先に述べたが、カントの超越論的形式は、メディア/現象境界に存しているのであり、同一性構造であり、物自体はメディア差異である。ある意味では、カントは、ヘーゲルマルクスよりも、いかがわしいと思う。胡散臭いのである。

p.p.s. カントに関して判断を保留しておきたい。カントは、先験的感性形式として、空間や時間を提示しているのである。

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感覚とメディア界と時空間認識


先に、感覚と知覚・認識の差異を述べたが、感覚知覚と知覚認識・言語認識と分けることもできるだろう。鳴き声が聞こえる。にぎやかに、ピチピチ、せわしげに、鳴いている、だから、ヒバリのさえずりであると認識するのである。最初の鳴き声が、感覚知覚である。そして、ヒバリのさえずりと判断するのは、知覚認識である。感覚と認識である。そして、ウグイス、キジ、スズメ、ヒヨドリ、ツバメ、カエル、等々の鳴き声ではないことになる。だから、ヒバリの囀りとは、その他を、排除しているのである。これが、同一性言語構造である。しかし、直截の囀りは、ただ、それ自体として存している。それは、特異性であり、他の特異性である音どもを排除していない。特異性が併存・共立しているのである。この特異性は、根源はイデア界であるが、感覚ということで、メディア界にあると考えることができるだろう。感覚とは、身体の作用なのだろうか。私は、心身だと思う。感覚器官は、心身器官ではないだろうか。とまれ、感覚差異があり、それが、メディア/現象境界において、同一性構造に転写されて、言語同一性認識に転換されるのである。カントの言う先験的形式とは、同一性言語形式ないし同一性言語構造のことのように思うのである。
 ここで、メディア界の感覚差異を考えると、これは、聴覚差異があり、これは、囀りという差異を受容するのである。即ち、聴覚差異1と囀り差異2がある。即ち、差異1→差異2であるが、メディア界であるから、差異1☯差異2である。聴覚差異1☯囀り差異2である。聴覚差異1は、囀り差異2と共振しているのである。この共振が、囀り差異2として、聴覚化されるのである。この共振囀り差異2は、言語知覚認識以前の経験を形成する。
 ここで、カントのいう時間・空間形式を考えると、メディア界の感覚差異においては、時間・空間形式は発生しないだろう。それは、やはり、同一性言語形式が必要だと思う。即ち、メディア/現象境界における同一性構造の存在が必要だろう。つまり、以前述べたように、差異1・同一性・差異2のメディア/現象境界の構造である(これは、正しくは、弁証法・同一性構造と呼べるだろう)。聴覚/囀りで言えば、聴覚差異1・同一性・囀り差異2である。これが、《ウグイスの囀りを聴く》ないし《ウグイスの囀りが聞こえる》となるのである。I listen to a bush warbler singing. I hear a bush warbler singing. 
 この場合、聴覚差異1が、I listen to になり、囀り差異2が、 a bush warblerに分化されると言えるだろう。しかし、もともと、聴覚差異1と囀り差異2は共振していて、一如的ではある。差異の即非状態にあるのである。これが、同一性構造によって、言語・文法に分化されるのである。主客分化、主客二元論化されるのである。【ここで、日本語を考えると、それは、明確に主客分化していないのではないだろうか。つまり、上記のように、《ウグイスの囀りを聴く》であり、取り分けて、《私はウグイスの囀りを聴く》とは言わないのである。《私》と《ウグイスの囀り》とが、未分化状態にあると言えるのではないだろうか。つまり、日本語は、メディア界を英語より強く残していると言えるだろう。メディア界の言語としての日本語、現象界の言語として、英語や西欧語があるだろう。また、これは、いわゆる、主語/述語という分化以前の言語と言えるだろう。時枝誠記は、日本語の述語主義を言ったが、それは、違うのではないだろうか。日本語は、主語/述語分化以前の言語構造をもっているだろう。いわば、主語即非述語文法、即非文法構造ではないだろうか。】
 ここでは、英語の論理に沿って考えると、同一性によって、聴覚差異1が、同一性自我に、囀り差異2が、ウグイスの囀りに転換されるのである。これは、思惟と延長との分化・分離と言ってもいいだろう。同一性によって距離が生まれるのである。即ち、空間の発生である。(だから、やはり、カントの先験的感性形式(空間)とは、同一性構造である。)感覚対象化から空間対象化への転換がここにあるだろう。同一性が、差異を否定・排除・隠蔽しているのである。同一性構造が空間構造と言えるのではないだろうか。
 では、時間はどこから発生するのだろうか。本来あるのは、永遠の現在である。というか、今である。I hear a bush warbler singing.
I don't hear a bush warbler singing right now. I hear a bush warbler singing again. という今の事象が起こるのであり、時間はないだろう。過去や未来はどこから生まれるのか。これは、思うに、空間認識から、時間認識を派生させたのではないだろうか。私と杉の木の距離は、例えば、10mあるとする。歩いて、杉の木に触れる。即ち、10mの徒歩が必要である。また、別の杉の木に触れるには、その倍が必要である。20m徒歩である。この距離と運動によって、時間が派生するのではないだろうか。運動はまた感覚である。私の前・正面と私の後・背後という空間が、時間に転化されるのではないのか。英語ならば、前・正面は、before, in front of であり、beforeは、時間としては、以前となる。後・背後は、back, behindであり、両者、時間にも使用される。
 とりあえず、空間認識から時間認識が派生したとしよう。(不連続的差異論から言うと、XYZの立体座標において、Z軸の方向が、時間の経過となるのではないだろうか。時間は、メディア界から現象界への転化のときに、派生するのだろう。つまり、捩れによって、メディア界のエネルギーから、現象界の力へと転化する際に空間から時間が派生するのだろう。つまり、三次元空間の発出が、時間形式を内包すると言えるだろう。つまり、動的な三次元空間であり、この動態性が、空間発出となり、時間派生となるのだろう。E=mc^2であるが、光速c=±√E/mであり、時間は、空間認識であることがわかるだろう。イデア界の1/4回転による、垂直の捩れから、同一性=空間認識=光速が発生するのだろう。境界ゼロから境界無への転化において、この式が形成されるのだろう。相対性理論とは、この同一性空間・時間の理論であろう。そして、量子力学とは、同一性以前のメディア界の差異の共振の世界を対象としているのだろう。しかし、現象界の同一性認識から観測するために、非局所性の問題が生じると考えられるのである。不連続的差異論から見ると、量子力学は、メディア界を本来対象としているのであり、それは共振する差異の領域である。それは、先のウグイスの囀りの聴覚事象からわかるように、主客未分化の事象であり、量子とは、粒子/波動の未分化の事象であり、現象界時空間におけるように、粒子と波動を分化するのは誤りである。だから、非局所性の問題は、問い方が間違っているのである。悪い問題なのである。差異の世界に同一性の論理を適用しているのである。量子・素粒子は、粒子且つ波動である。粒子自体ではないし、波動自体でもないのである。(以前、波粒子wavicleという言葉を使用しているのを見たことがあるが、この方が、適切であろう。)
 以上、思考実験的ではあるが、本件の問題への一応の解明がされたこととして、ここで、閉じよう。別の稿で、メディア界の差異の意味する事象を、自然科学的に考察しよう。