近代とは何であったのか:ポスト・モダン革命から見た近代革命の意味

近代とは何であったのか:ポスト・モダン革命から見た近代革命の意味

今や、近代主義は、ポスト・モダン理論の完成であると考えられる不連続的差異論の誕生・発見によって、完全に超克されたと言えるのであり、今や反動化した近代主義に対する闘争があるのであるが、ここで、近代の精神の革命的意義を確認しつつ、ポスト・モダン革命の意味を再確認したい。
 近代革命は、きわめて重大な革命であった。それは、中世までの、なんらかの集合的精神を切断したのである。端的に言えば、それは、コスモスと人間との集合的精神を断ち切ったのである。周知のように、人間は、絶対的自我に収縮したのである。あらゆる繋がりから切り離されて、単独的個体としての自我となったのである。この自我が、デカルトのコギト・エルゴ・スムに表現されていると言えよう。そして、同時に、デカルトは、コギトに客観的合理主義(近代的合理主義)を与えたのである。これが、デカルト革命であり、同時に、近代革命である。これは、二重の意義をもっている。一つは、単独的個体としての自我と、一つは、主客二元論的な合理主義である。近代革命とは二重革命であったのである。
 しかしながら、後者がいわゆる近代的合理主義として、過度に発展して、前者の意義が、例外的な少数者を除いて、忘失されたのである。そして、単独的な自我は、主客二元論的合理主義と同一化して、単独性(=特異性)が抑圧・排除されるのである。即ち、近代的自我の形成である。近代革命の反動として、近代主義があるのである。また、単独的自我の進展として、スピノザ哲学は、考えられるのであり、それは、単独的心身性の哲学である。だから、本来の近代革命は、デカルトスピノザの路線に本来あると言えよう。それは、不連続的差異論から言えば、メディア界の知の形成である。
 ここで、ポスト・モダン革命の視点から見ると、近代革命とは、何であろうか。一方では、単独性があり、他方では、近代的合理主義がある。問題は、前者の意義である。私は、単独性=特異性を、イデア界の特性であると考えているから、近代革命とは、一種の、イデア界の発露であると言えよう。そして、同時に、現象界の発露である。この、いわば、矛盾が近代革命である。換言すれば、一方では、イデア/メディア境界の特性があり、他方では、メディア/現象界の特性があるのである。この両極化をどう見るべきなのか。これこそは、近代文明・文化の二分化と見るべきだ。前者を、いわゆる、文系が担い、後者を理系が担ったのである。C.P.スノウのいう二つの文化である。簡単に言えば、近代主義とは、デカルト哲学のもっていた二重性の分裂化と言えよう。
 この視点から見れば、ポスト・モダン革命とは何であるのか見やすいだろう。それは、前者の追究・探究による、後者の乗り越えだったのである。そして、後者は、それ自身の発展から、後者自身の乗り越えへと進んだのである。相対性理論量子力学である。結局、ポスト・モダン革命とは、近代的合理主義の乗り越えだったのである。近代革命がもっていた単独性・特異性の進展であったのである。
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近代革命の力学構造はどういうものであったか:不連続的差異論の視点から


先に、近代革命を、単独性と主客二元論的合理主義の二重革命であると述べた。http://ameblo.jp/renshi/entry-10011899367.html
簡単に言えば、イデア界と現象界の二重性をもつ。
 問題は、このような二元的な発露をもつ力学とは何であるのかということである。集合的精神から切り離された単独的自我を発露させる力学とは何か。あるいは、主客二元論的合理主義を生む力学とは何かである。
 集合的精神は、素朴なメディア界の精神に拠ると考えられる。何故なら、ここにおいて、差異が共鳴して、連結しているからである。しかるに、同一性構造の発生によって、それらが、否定されるのである。だから、近代革命の根因として、同一性構造の発生が考えられるのである。しかしながら、同一性構造は、通常、あらゆるところで、発生すると考えられるので、なぜ、西欧において、近代革命が起きたかの十分な理由とはならない。
 ここで、持論を言えば、ルネサンスとは、差異の発動であったのであり、それを、デカルト哲学は、理論的に継承しているということになる。つまり、近代革命において、ルネサンス文化が基盤にあるということである。そして、後のプロテスタンティズム宗教改革)は、これに対する父権的反動であり、当然、前提は、ルネサンスである。
 差異の発動がルネサンス・近代の基盤にあるということは、新たなイデア界からの賦活があったということと考えられる。だから、ルネッサンスにおいて、イデア/メディア境界からの発動があり、それが、メディア界を賦活し、そして、さらに、メディア/現象境界を活性化させたと言えるだろう。先の中世の集合的精神のメディア界性について言えば、それは、いわば、枯渇した、硬直した、形式主義となったメディア界と言うべきである。
 問題は、この差異の賦活が、自我の問題を中心にしていることである。単独的自我、単独性・特異性と関係していることである。ここで、私説を少し修正する必要がある。デカルト哲学は、ルネサンスを理論的に継承するものと述べたが、それは、不十分であると思う。ルネサンス且つプロテスタンティズムを継承していると見るべきであり、その方が、時代の流れから見て、説得力がある。つまり、こういうことである。ルネサンスは、イデア/メディア境界からのダイナミズムをもち、芸術・文化を創造した。これは、メディア界的である。それに対して、プロテスタンティズムは、超越神の下の個を説いたのであり、それは、メディア界を欠いていた。換言すると、ルネサンスは、イデア界→メディア界→現象界という、いわば、流出的な展開であったが、プロテスタンティズムは、この展開のメディア界を排除して、イデア界と現象界の二元論としたのである。プロテスタンティズムは、ルネサンス母権制)に対する父権的反動と言うこともできる。これは、メディア/現象境界における同一性構造による差異の排除・隠蔽と結びついていると言えよう。つまり、プロテスタンティズムは、メディア界ないしメディア差異に対する同一性の反動的排除・隠蔽である。しかしながら、注意すべきは、デカルトにおいては、単純な反動ではなくて、ルネサンスイデア界ないしイデア/メディア境界が生動していたことである。正に、そのように取るべきである。プロテスタンティズムにおける超越神は、イデア界的ではあるが、それは、正しく言えば、超越化されたイデア界なのである。(本来のイデア界は、超越論的である。超越性と超越論性との区別に、ここで、明確に注意しないといけない。前者は、絶対的超越性であり、後者は、内在的超越性である。)
 デカルトの場合、ルネサンスプロテスタンティズムの内面的闘争があったと考えられるのである。そして、メディア界を否定するように懐疑して(懐疑主義)、イデア界(単独性・特異性)と現象界(同一性)とを結合させたと考えられるのである。デカルトのコギトとは、単独性・特異性の自我と同一性の自我との結合と考えられるのである。そして、これが、近代革命の力学構造の意味である。つまり、この二重構造は、パラドクシカルな、分裂(精神分裂)的な二重構造である。有り体に言えば、近代精神とは、精神分裂症なのである。病理的精神、狂気なのである。そして、想像を絶する災厄を人類と自然にもたらし続けているのである。
 先にも述べたが、ポスト・モダン革命は、この二重構造の近代革命の超克である。同一性構造、弁証法構造を解体して、単独性・特異性に基づく差異的自我を説くのである。それは、不連続的差異としての自我である。
 最後に付加すると、ポスト・モダン革命において、同一性はどうなるのかということである。同一性構造は、もはや、反動的ではなくなる。それは、言語を形成する必要な構造となるだろう。つまり、差異に基づく、同一性言語構造となるだろう。即ち、差異に従属する同一性構造となるだろう。差異が主人であり、同一性は従者である。しかし、この従者は、単なる従者ではなくて、差異知覚・認識の主要な方法となるだろう。差異的知性の技術である。同一性はここでは、イデア界的普遍性に仕えているのである。不連続的差異・イデア的認識のための知性技術としての同一性・言語構造となっているのである。因みに、ロゴスとは、イデア界の言語認識と言っていいだろう。だから、イデア・ロゴス・ソフィア・般若である。

p.s. 以上の考察では、自我を前提にしているが、果たして、自我は、根源的なのか。この後の考察で、私は耳にする音と蛙の声との差異が述べたことから考えると、自我は、蛙の声と同じではないのかと思ったのである。自我というよりは、特異性、単独性の「わたし」、「自我」が存しているのである。それは、自我のような同一性ではない。そのとき、考えている「わたし」である。これは、ヒュームの問題である。そう、メディア界の「わたし」である。これは、「わたし」というよりは、特異性であろう。特異性としての「わたし」は存するだろうが、自我自体としての「わたし」は存するのか。特異性・単独性が存するが、自我同一性は存しない。同一性自我は存しないが、単独性・特異性自我は存すると言えるのではないだろうか。