同一性自我から差異自我への変革の方法の一考察

同一性自我とは、通俗に言えば、我が侭であり、自己中心主義である。しかし、これは、狂気であると私は考える。現象界においては、近代において、同一性自我が形成されるので、世人は、多かれ少なかれ、狂人である。ただ、問題は、この度合いである。同一性自我の度合いが高いと、同一性構造狂気に囚われ、暴力的になるのである。これは、また、政治的には、権力の問題であるから、本テーマは、最高度の重要性をもつものの一つであると考えられる。
 ここでは、個人の問題に限定して考えたい。人間は、自然のある必然性から、同一性構造をもたされる。しかし、直観、叡知教養、経験・体験知によって、人間は、差異であることを自覚して、差異的認識・知性・「科学」を深める。これは、人格的知性と言ってもいい。(因に、近代主義は、とりわけ、近代科学、近代的合理主義は、人格的知性を否定していると言えるだろう。物質主義的合理主義・唯物論だからである。感覚・感情・欲望・知性は認めるが、心性、精神性、叡知性、共感性、心魂性等は、認めない。)
 しかしながら、同一性自我から差異自我へと変容する人は、稀であるように思う。一般には、差異自我が未成熟のまま、同一性自我の生活・人生を送っているだろう。また、ある人は、差異自我を抑圧・排除して、同一性自我中心主義となってしまっている。暴力・反動・狂気の状態に陥っているのであり、社会的に害悪である。とまれ、どうやったら、差異自我(コギト/スム自我)へと転換できるのだろうか。そう、現代社会は、同一性自我的人間の社会であるから、それは困難なのであり、多くの人は、苦悩し、脱出口を見出せないでいる。また、多くの人は、同一性自我の軽薄な生き方を、選んでしまうのである。
 近代という時代は、人類の叡知の伝統が切断された時代と見ないといけない。そして、新しい自我の誕生した時代である。それは、デカルトのコギト/スム哲学である。近代とは、人類史において、全く新しい時代なのだろう。それは、同時に、まったく恐怖すべき時代である。暗黒の時代であるのだ。カリ・ユガの時代である。近代以前の叡知は、宗教や神秘学の形を取っていたと言えよう。それが、近代において、否定されたと言えよう。個人・自我の「知」が、主導的になったのである。コギトの時代である。しかし、同時に、近代的主客二元論の時代である。前者は差異自我を、後者は同一性自我を意味する。この分裂が近代の混乱・カオスを生んだのである。つまり、前者は、後者によって覆われてしまい、差異自我に基づくべき叡知の探求が特殊なものとされたからである。また、後者の探求は、天才的哲学者等によって、為されたが、内容や表現の難解さ・晦渋さによって、一般に理解されがたいものであったのである(とりわけ、フッサール現象学である)。差異自我の叡知が、難解な叙述表現をまとったのである。そして、同一性自我の人間からは、見向きもされないのである。つまり、差異自我の叡知と同一性自我の知識との大分裂が近代において生じたのである。そして、これは、現代、ポスト近代のエポックにおいても、変わらない。
 しかし、ポスト近代とは、差異自我のエポックであり、差異自我の叡知の時代である。そして、近代の同一性自我が反動・暴力・狂気化する時代である。だから、同一性自我から差異自我への変革は重大な根本的意義をもっている。そして、不連続的差異論は、ポスト構造主義の不備を解消した、新しい十全な差異理論と考えられ、また、きわめて簡潔な、シンプルな理論なのであるが、実感的に理解されるのが難しいのかもしれない。このようなことを含めて、本件を考えたい。
 テーマ自体は単純である。同一性から差異への転換である。しかし、これは、一見、抽象的なので難解なのである。フッサール現象学は、エポケー(判断停止)による現象学的還元を説くのであるが、用語や叙述が難しいので、一般の人は避けてしまうのである。(一般の方には、フッサールではなくて、D.H.ロレンスの『無意識の幻想』を読むことを奨めたい。それも、原文で読むことを奨めたい。無意識の心身をロレンス一流に表現しているのである。)だから、私は、平明に、具体的に言いたい。
 同一性から差異への変革とは、日常思考からの脱出であり、脱日常意識・思考の形成である。それは、非日常という特殊な事象ではない。脱日常である。フッサール現象学も脱日常の哲学と言える。そこで、私は説く。通常、思考は頭による思われている。頭で考える。それは正しい。しかし、人間は、「からだ・身体」でも考えると言いたい。しかし、正確に言えば、心身である。心身思考があるのである。これが、差異への変革を意味するのである。頭で考えるとは、言語で考えるということである。そして、心身思考も頭で、言語で考えるが、それに留まらず、頭と身体を対話させて思考するのである。即ち、私の皮膚で考え、胸で考え、腹で考え、眼で考え、耳で考え、手で考え、足で考え、内臓で考える。全身で考えるのである。いわば、全身全霊思考である。つまり、心身他者・差異・多元性(多神教)で思考するということである。いかがであろうか。通常、頭で、言語で思考すると考えられている。それは、一元論である。一神教である。そうではなくて、心身多元論・多神教で思考すること、それが、差異自我のあり方なのである。つまり、心身という差異・特異性において思考するということである。これによって、同一性自我から脱却できるのである。意識、注意を単に頭ではなくて、心身に行き渡らすことである。心身二元論から心身相補性・特異性論への転換である。心身交流である。心身対話である。これが、差異自我を形成するのである。即ち、心身コギト主義である。そして、これは、スピノザ哲学に結びつくのである。また、フッサール現象学に結びつくのである。ポスト近代主義とは、心身差異多元論である。同一性自我意識から心身差異特異性意識(差異自我意識)へと変革するのである。同一性自我構造二項対立論から心身差異多元論への変換である。さらに言えば、自我は、心身に限定されるものではなくて、コスモスに関係しているのである。心身差異的コスモス自我意識である。そして、これは、また、不連続的差異・絶対的差異なのである。