モーツァルト、コスモスの響き、イデア界の音楽

今年は、生誕250周年ということである。生没年1756年〜1791年。
 最近、また、モーツァルトを聴くようになった。学生の頃、それなりに聴いたが、モーツァルトの音楽のイメージを捉えるのが難しかったが、今でも、何だろうか思うのである。他の作曲家は、イメージしやすいが、モーツァルトは難しい。飛翔する鳥のイメージ、コスモスのイメージ等がかつて浮かんだ。あるいは、血の躍動というイメージ。
 一番不可解な作曲家だ。確かに、浮世離れした、典雅・高雅な感覚はある。でも、それなら、シューベルトにもある。この世を越えたような響き。そう、確かに、コスモスの響きというものかもしれない。いわゆる、揺らぎはないのである。α波が出ていると言われるが、それは、一面だ。思うに、イデア界の音楽というのが適切なのかもしれない。碧空のイメージ。紺碧の空。そして、深い形而上学的な空。やはり、コスモスである。人知を越えた音楽なのかもしれない。だから、イメージ化が難しいのだろう。円空の言う法の御音に近いように思える。
「木にだにも 御形移すありがたや 法の御音は 谷のひびきか」
http://www.vill.tenkawa.nara.jp/sightsee/tenkikawa/yukari.html  
 もし、イデア界の音楽とするなら、どういうことなのか。それは、不連続的差異の共立調和ということでなくてはならないだろう。具体的にどうなのかである。一つ言えることは、コントラストの妙があることだと思う。陰影があるのである。光と影。歓喜と悲哀。 
 後で、もう少し考えたい。


p.s. 鳥のさえずりのパターンに似ているのではないだろうか。例えば、A, B, C, Dというフレーズがあるとすると、この4つの中から、順列を作るのが、モーツァルトの音楽の特徴なのではないか。即ち、この場合、4×4×4×・・・の順列である。また、Aも、A1, A2, A3, ・・・になる。変異がある。


p.p.s. A, B, C, Dのフレーズを不連続的差異としよう。だから、差異1,差異2,差異3,差異4と変換できる。モーツァルトの音楽は、例えば、この差異1と差異2とのつなぎ(媒介・メディア・連結nexus)が、絶妙なのではないだろうか。シューベルトの未完成交響曲の冒頭の部分は、はっきりと、不連続的差異性がわかるが、モーツァルトは、不連続的差異と不連続的差異との連関が、《自然》に聴こえるように、作ってあるのではないだろうか。有名な『レクィエム』の冒頭も、考えれば、不連続的差異1と不連続的差異2との連接ではないだろうか。また、交響曲第40番の有名な出だしだが、最初にリズミカルな刻みあり、すぐ有名な悲愁のメロディが出る。そして、しばらくして、ザッザッザッザッという感じの律動的フレーズとなる。一見、すべては、連続的に聴こえるが、実は、不連続的差異のフレーズで精妙に構成されている音楽であるように思う。これが、誰にも真似のできない天才性なのだろう。シューベルトシューマンははっきり不連続的差異性がわかる。特に後者は分裂的である。バッハもよくわかる。しかし、モーツァルトは、つなぎ・媒介の部分が絶妙なのだと思う。自然に聴こえるのである。おそろしい音楽だ。神業である。
 これを形式化したらどうなるのか。

dd1/∞/dd2/∞/dd3/∞・・・∞/ddn

ではないだろうか。(ddは、不連続的差異のことである。∞は、連続化の記号である。)というか、

dd1idd2idd3i・・・iddn

ではないだろうか。これは、正にイデア界である。1/4回転である。そう、イデア/メディア境界の音楽ではないのか。否、それでは、ロマン主義的だろう。そうではなくて、イデア界の不連続的差異が1/4回転した音楽であり、主体はイデア界にある音楽と言うべきだろう。
 また、有名な交響曲第41番ジュピターは一見(一聴)連続的調和そのものの音楽に聴こえるが、しかし、不連続的差異の共立調和の視点から聴くと、正に、不連続的差異の共立調和結晶であることがわかる凄い音楽であることがわかるだろう。結論を言おう。モーツァルト音楽は、イデア界の音楽、イデア界コスモスの音楽である。永遠不滅の音楽である。


3p.s. ゆらぎがないと言ったが、それは、訂正しないといけない。不連続的差異の共立調和結晶の音楽なのだから、当然、ゆらぎが発生しているのである。不連続的差異の共立において、ゆらぎが正に発生するのである。ゆらぎの宇宙である。これが、α波を産み出すのだ。イデア界コスモスの表現である。不連続的差異論のイデア界はどういうものであるかと聞かれたら、Listen to Mozart.と言おう。


4p.s. 演奏の質に拠って、違ってくるだろう。共立性が存在したり、存在しなかったりするだろう。


参考1:
http://ameblo.jp/renshi/entry-10004968981.html
http://ameblo.jp/renshi/entry-10007381240.html


参考2:
「一つはフェリックス・ガタリ『カオスモーズ』(河出書房新社) 。相変わらず晦渋。二項対立などの図式化で括ってしまう安易な分析を批判するのは結構だが、その代わりに出してくる「詩的」キーワードには、どのようなコノテーションが付されているのか、捉えにくい。明示的な定義を避けているからだけれど(明示的定義は、上の図式化の最たるものというわけだ)、それだけに読むのは大変だ。例えばリトルネロ(リトルネッロの方がよいと思うけど)概念。本来のリトルネッロはイタリア語でいうリフレイン。それが転じて、「独奏部を挟んで反復される総奏部」の意味になったわけだけれど、ガタリはそれを一つの機械的反復に見立てている。鳥の歌が性行動の誘惑や闖入者の追い出しなど「特定の機能空間を確立する」のと同様に、人の原始的な儀式の踊りや歌は「集合的実存の領土」を画定した、という一節からもわかるように、これは人の身体表現にまつわる反復作用のことのようだ。こういう感じで、別の文脈に組み入れられた用語の理解を、本文から寄り集めて作り上げなくてはならないところに、現代思想のある種の書籍の、読者に対する高い要求がある(そういえば、現代思想でいう「ポリフォニー」も「テキストの文面から隠された別の声を聞く」みたいな意味で使われるけれど、音楽でいう多声音楽(ポリフォニー)は、複数の声部が構造的に曲の全体を織りなすわけで、別の声を聞くというようなものでは到底ないのだけれど(笑))。そうした読者の関わり方の要求も、つきつめていけばスコラ哲学あたりに端を発するような気がするけれども(検証が必要だが)、もう一つのその末裔であるジャーナリズム(特に知識人的な文脈での)にも、同じように読み手や視聴者にそれなりの応力を求める傾向があるような気がする。」
「2004年06月14日
ジャーナリズムと用語と」
『メディオ(+エヴォ)ログ −− 媒介学&中世関連の省察の部屋』
http://www.medieviste.org/mediolog/archives/2004_06.html#000178