《イデア》とは何か:《理念》とは心(倫理)と知性との統一である:

イデア》とは何か:《理念》とは心(倫理)と知性との統一である:イデアポストモダンへ向けて

イデア》あるいは《理念》というと、抽象的で、冷たいものと考えられるだろう。しかし、不連続的差異論において、《イデア》あるいは不連続的差異とは、冷たいものではなくて、暖かいものである。しかし、同時に冷徹なのである。真善美を志向しているのであるから、そうなるのである。ただ、哲学・数学的、知的に表現するから、その点で、情緒・情感は乏しくなると言えよう。しかし、内包されている感情は、暖かな、優しいものである。私が共立共創性というのは、それを内包しているのである。
 つまり、《イデア》とは、共感性(倫理性)と知性・合理性との包摂したものなのであり、感情と知性との統一なのである。ここでは、パラドクシカルな両者が、共立しているのである。問題は、《メディア》との違いである。《メディア》の場合、感情と知性とは相補性を形成して、いわば、揺らいでいるのである。ある時は、感情性が強かったり、ある時は知性が強かったりするのである。ある意味で、感情の起伏の烈しさを意味しよう。(マーラーの音楽がそうである。)これに対して、《イデア》は安定しているのである。揺らぐことがあっても、バランスを回復する志向をもっているので、均衡性を保持するだろう。結局、《イデア》(《理念》・不連続的差異)は、《メディア》を包摂しているのである。(ここで、この包摂を、止揚揚棄aufhebenと言えるかということが考えられる。ヘーゲルマルクス弁証法の術語であるが、それは、正反合であるが、弁証法は、基本的には一元論であり、ジンテーゼが反復されることになるだろう。しかし、《イデア》の包摂は、それとは、異なるのである。それは、《メディア》の対極相補性とに二元論をベースにしているのであり、両者を上位・高位的に統一するということであるから、弁証法ではないのである。だから、止揚等の用語が使用できないのである。)
 結局、《イデア》は、《メディア》を包摂し、また、《現象》を包摂しているだろう。(西田幾多郎が、「叡智的世界」で述べていることは、これと同じことではないだろうか。)結局、
イデア》⊇《メディア》⊇《現象》ではないだろうか。(思うに、《イデア》⊃《メディア》⊃《現象》ではないだろう。)これを書き換えると、
イデアポストモダン》⊇《メディア・ポストモダン》⊇《現象・モダン》
となるのではないだろうか。今や、小泉『偽装改革』が、解体しつつあるが、結局、『構造改革』とは、イデアポストモダンを目指すべきである。それは、差異共立共創経済社会である。それは、差異共立共創政治ということである。新自由主義は、経済主義であり、社会性を無視している欠陥のある経済理論である。自由主義とは差異自由主義として捉え直す必要があるだろう。差異自由主義とは、差異共立共創主義と同値である。


p.s. 差異自由主義 とは差異自由共立主義、差異自由共民主義である。民主主義 を共民主義と読み替えよう。