生命と不連続的差異論:±エネルギーとゼロ度差異共立エネルギー

生命を不連続的差異論から見たらどう説明できるだろうか。思うに、生命とは《メディア》化ではないだろうか。不連続的差異がゼロ度で連結・連続化される。n個の不連続的差異がゼロ度連結・連続化する。ここで、差異等分割法則が作用するだろう。正n角形の《構造》が発生する。そして、この《構造》は複数あるのだから、これが、さらに連結して、《構造》の《構造》が発生するだろう。これは、さらに進展して、《構造》の入れ子構造が発生するだろう。そう、これは、フラクタル的だろう。この《構造》の多重化が生命の《構造》、原生命ではないのだろうか。そして、これが、現象化して、生成消滅運動を行なう。
 《メディア》化によって、相反的な、+のエネルギーと−のエネルギーが発生する。前者が生のエネルギー、後者が死のエネルギーだろう。(因みに、フロイトが晩年、死の欲動という概念を説いたが、それは、死のエネルギーによって説明できるだろう。)前者が、構築エネルギーであり、後者が破壊・解体エネルギーであろう。(ここで、想起するのは、厄年であるが、それは、この二つのエネルギーの交替する時期を指しているのではないだろうか。また、ユングが説いた中年の危機もこれと関係するのではないか。)
 このように見ると、生命の構造が実に簡潔に説明できる。さらに考察すべき点は、
1.病気とは何かということ
2.死のエネルギーとは何を意味するのか
3.生命である《メディア》と根源の《イデア》はどう関係するのか
等である。
 病気であるが、それは、生命の多重《構造》が、異質の《構造》に対して、排斥できない状態、あるいは、同化できない、又は、共存的に変容できない状態のことではないだろうか。換言すると、生命の《差異》が他者の《差異》を排除できない場合、同化できない場合、あるいは、共存のために、自己変容するか、相互変容できない場合であろう。これは、《差異)と《差異》との関係の問題で、不連続的差異論的であるが、医学的には免疫系の機能と言えよう。つまり、免疫系が《メディア》として機能するということである。この免疫系としての《メディア》、免疫《メディア》であるが、これは、多種多様な他者・異物に対応しないといけないから、差異の順列化の創造が必要である。だから、免疫《メディア》とは、固定した構造であってはならず、生成変化するものである。この生成変化をもたらす動因は、ゼロ度の力ではないだろうか。新しい差異・異物に対して、ゼロ度の力で、新たな差異の連結を発生させて、それらに対処するのが免疫《メディア》ではないだろうか。ならば、ここには、イデア/メディア境界の《力》が作用していると考えられよう。
 そうすると、生命体において、+エネルギー(生のエネルギー)と−エネルギー(死のエネルギー)とが作用しているだけではなくて、イデア/メディア境界のゼロ度の力が作用しているということになるのではないだろうか。また、このゼロ度の力が、自然治癒力ではないだろうか。+のエネルギーが衰退して、−エネルギー(おそらく、エントロピー)が作用するようになる。しかし、これでは、すべての生命体が、病気になり、死ぬよりないだろう。健康を維持する力として、ゼロ度の力が作用しているのではないだろうか。ここで、《気》を想起するのである。これは、一種生命力と考えられている。これは、ゼロ度の力のことではないだろうか。
 さて、ここで、スピノザの心身平行論を想起するのだが、それは、それは、歓喜の力の哲学であるが、力という面で、生命体と関係するだろう。スピノザ歓喜に基づく能動的観念をその哲学の基礎とする。この能動的観念は、いわば、免疫力を増加させるものと考えられよう。これは、歓喜的能動観念(積極的知性)が、ゼロ度の力、ゼロ度の構成エネルギーと通じると考えることができるだろう。しかし、直観では、歓喜的能動観念とは、差異共立的観念である。つまり、イデア界的な観念である。ということは、スピノザ哲学の場合、イデア界的観念が入っているのである。つまり、イデア界的力が入っているのである。これとゼロ度の構成エネルギーとどう関係するのだろうか。ここでも直観で言うと、ゼロ度の構成エネルギーとは、不連続的差異共立のエネルギーであるということである。だから、イデア/メディア境界エネルギーとも言える。
 ここでまとめると、結局、3つの力が生命体に作用していることになる。

1.+エネルギー(生のエネルギー)
2.−エネルギー(死のエネルギー)
3.ゼロ度の構成エネルギー=差異共立エネルギー=イデア/メディア境界エネルギー=『気』?

西洋医学では、3を認めていないのだ。オルタナティブな医療は、3を肯定していると言えよう。
 さて、以上からわかることは、今日の健康観は、物質主義的であり、1と2のレベルのものであり、3を認識していないこととなるだろう。食物繊維、ビタミン、ミネラル云々である。これは、これで、正しいが、しかし、極めて、不十分である。《知》が欠落しているからである。能動的積極的知性によっても、健康は維持されるのである。また、3は、社会性、民主主義に通じるのである。つまり、社会の健康・健全さにも通じるのである。3は、また、《魂》の領域でもあるだろう。心身領域である。
 その視点から、現代日本社会を見ると、3がまったく欠落していると考えられる。《イデア》界的生命が欠落しているのである。これでは、エントロピーによって、死につつある社会である。さらに敷延すれば、資本主義も、3のレベルが必要である。これは、私がこれまで言っている差異共立共創的資本主義である。この3のレベルと貨幣価値の問題をどう結びつけるのかということになる。
 貨幣は《メディア》である。そして、3は、《イデア》的《メディア》である。つまり、貨幣の《イデア》化が必要と言えよう。貨幣の《イデア》化とは何か。貨幣の差異共立化であろう。「新自由主義」は、貨幣を現象化しているのである。主客二元論化、近代的自我主義=利己主義化しているのである。そうではなくて、貨幣を《イデア》化しないといけない。これは具体的には何を意味しているのだろうか。《イデア》化された企業・産業・会社? 不連続的差異共立化された企業? それは、何か。今即答できないが、toxandoria氏があげている優秀企業が参考になるだろう。
p.s.  貨幣の《イデア》化とは、差異共立資本を意味するのか。差異共立経済を意味しよう。また、差異共立企業ということになるのではないか。例えば、農業経営する人がいるとしよう。この場合、差異共立農業とは、土地と経営との共立でであり、消費者との共立であり、地域との共立であり、他の生産者との共立であり、等々であろう。この時、貨幣・資本は、差異共立の《イデア》に則す必要があるということか。
 問題は、利益である。当然、利益をあげないわけにはいかない。利益とは、差異共立における自己保存性に関係するだろう。つまり、差異の垂直性である。だから、貨幣の《イデア》化とは、差異の垂直性と水平性との配分の問題ではないだろうか。貨幣の《イデア》的配分である。多元的な貨幣の《イデア》的配分となるだろう。そして、このような企業が、投資家や消費者等に支持・支援されなくてはならないのではないだろうか。とまれ、多元的差異共立資本経済ということになるだろう。

参照:
「小泉擬装改革」の対極にある日本 の「優秀企業の条件」(総集編)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060211/p1
toxandriaの日記