『夏の夜の夢』の世界構造

『夏の夜の夢』の世界構造

小田島雄志訳 白水uブックス(やはり、日本語の達人福田恆存訳の新潮文庫のものが好ましいと思う。)
 
 アテネの町(現象界)

1)シーシュース(アテネ公爵) 
 ヒポリタ(公爵の婚約者、アマゾンの女王) 
 イージーアス(ヘレナの父)

2)恋人たち
 ハーミア==ライサンダー
    \
     \
 ヘレナ⇒⇒ディーミートリアス

3)職人たち
 クインス(大工)、スナッグ(指物師)、ボトム(機屋) 
 フルート(ふいごなおし)、スナウト(鋳掛け屋)
 スターヴリング(仕立屋)

・・・・・↑↑↑↑↑↑↑↑↑・・・・・・・・・・・・・・

 妖精界(メディア界)

オーベロン(妖精の王)==タイテーニア(妖精の女王)
パック(ロビン・グッドフェロー)・・・キューピッドに相当する
豆の花、蜘蛛、蛾の羽根、芥子の種

________________________________
テーマ:
ヴィーナス(&キューピッド)の愛欲からダイアナ(月の女神・処女王エリザベス女王)の貞潔(結婚)へ

________________________________
粗筋:
第1幕:
第1場
シーシュースとヒポリタの結婚が、四日後に迫っている。
イージーアスは、娘ハーミアを、ディミートリアスと結婚させたがっているが、ハーミアと相思相愛のライサンダーは、森へと駆け落ちする。
そのことを、ヘレナは、片思いのディーミートリアスへ伝える。
第2場
職人たちが、公爵の結婚式のために、芝居をすることになり、配役を決める。

第2幕:
第1場:アテネ近郊の森
オーベロンとタイテーニアの仲たがい:自然現象の異変
タイテーニアの可愛い小姓を、オーベロンが欲しがるが、タイテーニアは渡さない。オーベロンはこれへの仕返しを考える。
オーベロン:
おい、おとなしいパック、ここにきてくれ。
おまえも覚えているだろう、いつだったかおれは
岬の出ばなに腰をおろし、人魚がイルカの骨で
歌うのを聞いていた、その美しいなごやかな歌声に
さしもの荒海もおだやかに静まりかえり、
星も海の乙女の音楽に心をひかれ、狂おしく
天から流れおちたものだった。
パック:
 ええ、覚えていますとも。
オーベロン:
そのときおれは見たのだ、おまえは知るまいが、
冷たい月と地球のあいだに、弓を手にした
キューピッドの姿を。その必中の矢が狙うのは、
西方の玉座につかれている美しい処女王であった。
いきおいよく弓弦より放たれたその恋の矢は、
千万の心も一気につらぬき通すかと見えたが、
さすがのキューピッドの火と燃える矢も、
水と呼ぶ月の清らかな光にうち消され、そのまま
独身を誓った女王は立ち去ったのだ、つつましい
乙女の思いに包まれて、痛ましい恋する心も抱かずに。
だがおれはキューピッドの矢が落ちた場所を
目にとめておいた。それは西方の小さな花に落ち、
純白であった花びらも恋の傷にいまは深紅に染まった、
乙女たちはその花を「恋の三色スミレ」と呼んでいる。
それを摘んでこい、いつか教えてやった花だ、
その汁[惚れ薬]をしぼって眠るものの瞼に注いでおくと、
男であろうと女であろうと、目が覚めて
最初に見たものを夢中に恋してしまうのだ。
あの花を摘みとって、すぐにもどってこい、
鯨が一マイルと泳ぎ進まぬうちにだぞ。
パック:
はい、地球を一まわりするのに四十分とかからぬ私です。
オーベロン:
あの花の汁を手に入れたら、
タイテーニアが眠るときをうかがっていて、
その両の瞼にしたたらせてやろう。そうすれば、
目を覚ましていちばん最初にみるものを、それがかりに
ライオンであれ、熊であれ、狼であれ、牛であれ、
いたずら好きの山猿であれ、おせっかいな尾なし猿であれ、
あいつは恋心に駆り立てられ追いまわすだろう。
そのまじないをあいつの目から解いてやる前にーー
それは別の花の汁を使えばできることだがーー
なにがなんでもあの小姓を引き渡させるのだ。
(第二幕第一場)

ディーミートリアスとへレナが現れる。へレナは、ディーミートリアスに夢中であるが、彼はへレナをひどく嫌っている。
それを見たオーベロンは、パックに惚れ薬をディーミートリアスにつけさせ、へレナに夢中になるようにさせる。

第二場:森の別の場所
タイテーニアはお供の妖精たちを連れて来て、眠る。オーベロンは、花の汁(惚れ薬)をタイテーニアの瞼に滴らせる。
ライサンダーとハーミアがやってきて、眠る。
パックは、ディーミートリアスにつけるように言われた花の汁(惚れ薬)を、間違って、ライサンダーにつけてしまう。そして、そこへ、へレナとディーミートリアスがやって来ると、ライサンダーは目を覚まして、そのとき見たへレナに夢中になってしまう。
へレナは侮辱されたと感じる。

第三幕
第一場:森
タイテーニアが眠っている。そこへ、職人たちが芝居の練習に来る。
かれらは、ピラマスとシスビーの劇を演じることにする。機屋のボトムがピラマスを、大工のクインスがシスビーを演じる。パックがいたずらをして(トリックスター)、ボトムにロバの頭をつける。タイテーニアが目を覚まし、ロバの頭をしたボトムに惚れる。「豆の花」、「蜘蛛の糸」、「蛾の羽根」、「芥子の種」が登場して、ボトムをタイテーニアの四阿(あずまや)に案内する。

第二幕:森の別の場所
ディーミートリアスとハーミアがやってくる。
ディーミートリアス
このぼくの顔は人殺しにやられた顔なのだ、
きみの残酷な目に心臓を刺しつらねかれたのだ。
それなのに人殺しのきみの顔は光り輝いている、
あの空の金星(ヴィーナス)のようにあかるく澄んでいる。
p.74

オーベロンは、パックが間違って花の汁(惚れ薬)をつけたのに気づく。
ライサンダーとへレナがやってくる。
ライサンダーは、へレナに夢中になっている。
ディーミートリアスが目を覚まし、へレナに夢中になる。
へレナとハーミアは仲たがいする。そして、ライサンダーとディーミートリアスもへレナのために喧嘩して、決闘で決着をつけようとする。

シェイクスピア特有の暴力のテーマ。文化人類学者のルネ・ジラールは、模倣欲望暴力と呼んでいる。そして、また、これもシェイクスピア特有の和解のテーマが存する。暴力から和解のテーマ。争いから平和へのテーマ。思うに、このテーマも、アレゴリー次元、超越論的次元にあるだろう。フッサールの言う間主観性・相互主観性に当たるだろう。
思うに、シェイクスピアは、構造主義者である。アレゴリーは、構造主義だと思う。ヴァルター・ベンヤミンアレゴリー論であるが、それは、当然、構造主義であるが、さらに、差異論である。そして、不連続的差異論に接近しているが、「星座」論というライプニッツの予定調和論(おそらく、ホワイトヘッド有機体論にも通じる)という連続論に染まってしまい、不連続性を放棄していると考えられる。思うに、ベンヤミンアレゴリー論は、メディア界を指しているだろう。「星座」とは、メディア界の擬制である連続性と考えることができる。つまり、ベンヤミンは、プラトンイデアの不連続性をいったん肯定しながらも、連続的な「星座」論に帰結しているのである。これは、正に、メディア界的である。メディア界の連続性の擬制を真理と取っているのだ。これは連続・連合性の罠である。そう、ところで、社会主義の連帯や連合も、このメディア界の連続・連合性の擬制に陥っているだろう。では、なぜ、連続・連合性が問題かと言うと、これは、一元論的全体主義になるからである。つまり、権力・独裁になるからである。社会主義共産主義の権力・独裁主義は連続性による必然なのである。
 シェイクスピアにもどると、構造主義シェイクスピアは、連続論者であろうか。シェイクスピアの和解主義であるが、それは、いわば、差異共存志向である。それは、構造次元における差異共存志向であるから、シェイクスピアは、フッサールに似て、不連続論者だと思う。シェイクスピアも不連続的差異論の先駆である。そう、シェイクスピアのイギリス・ルネサンスの作家であることを想起すべきだろう。ルネサンスとは、差異の発動である。そして、哲学では、デカルトに開花した。スピノザは、デカルトと併せないと、連続論になるだろう。ところで、デカルトニーチェの関係が実に興味深い。逆説に聞こえるかもしれないが、ニーチェは、合理主義者なのである。ドイツ的鈍重さ・非合理性を憎み、フランスないしラテン的明晰性を愛したのである。思うに、ニーチェの特異性の哲学とは、デカルトのコギトに発しているだろう。だから、ニーチェフッサールはとても近いのだ。また、思うに、ドゥルーズ哲学の分裂性であるが、それは何だろうか。ある意味で、あまりにも痛ましい。一種の弱さである。ロマン主義である。ドゥルーズが評価したD.H.ロレンスは、最後は、不連続的差異に帰結したのに、ドゥルーズは、連続論に囚われていた。二重人格的とも言える。そう、ガタリとの共作によって、不連続性のイメージが現れたのであり、ドゥルーズ自身は、思うに、連続性と不連続性とに揺れ動いていたと思う。やはり、ベンヤミンのように、メディア界に囚われているのだろう。真にイデア界に達したは、フッサールであろうし、ニーチェもほぼ達していた。(ニーチェは西洋哲学の信長だ。)ロレンスや折口もほとんど達していた。)

この危険に対処するため、オーベロンは、パックに夜の闇を広げさせ、ライサンダーとディーミートリアスを別々にさせ、別の草(ダイアナの花・蕾)の汁をライサンダーの目にしぼりかけさせて、迷いから覚まさせるのである。

第四幕
第一場:前場と同じ、森の別の場所
タイテーニアとロバの頭のボトムが戯れている。
オーベロンは、タイテーニアの不名誉な惚れ込み様に哀れを催し、また、所望していた小姓を手に入れたので、タイテーニアを許そうと決める。

オーベロン:
こうして子供を手に入れたからには、これ(タイテーニア)の目の
忌まわしい迷いを解いてやりたいと思う。
だから、パック、おまえもこのお化け顔を
アテネの下町男[ボトム]の首からはずしてやるがいい。
そしてほかの連中といっしょにこいつも
目を覚ましたら、みんなでアテネにもどり、
今夜の出来事はすべて夢のなかで起こった
荒唐無稽な騒動としか思えないようにしてやれ。
まずおれがタイテーニアのまじないを解いてやろう。
もとのおまえにもどるがいい、
もとの目をとりもどすがいい、
キューピッドの花の魔力より、
ダイアナの花に恵みあり。
さあ、いとしい妃、開くがいい、その目を。
タイテーニア:
まあ、オーベロン! 夢を見ていたのね、変な夢を。
私、恋こがれていたような気がするわ、ロバかなにかに。
オーベロン:
そこに恋人が寝ているぞ。
タイテーニア:
 どうしてこんなことに?
ああ、いまはもう見るのもいやだというのに。
オーベロン:
まあ、待て。パック、その頭をはずしてやれ。
タイテーニア、すまないが音楽を奏でさせてくれ、
そしてこの五人を深い眠りに沈めてくれ。
タイテーニア:
さあ、音楽を! 眠りへいざなうように!

静かな音楽。

パック:
(ロバ頭をはずして)目を覚ましたらもとのばかな目で見るように。
オーベロン:
音楽をもっと高く! さあ、妃、手をとろう、
そして五人が眠る大地を揺り籠のようにゆすろう。
こうしておれたちもめでたく仲なおりだ、
明日の夜はシーシュース公の邸で婚礼だ、
いっしょに出かけて踊ってやるとしよう、
そして子孫の繁栄を祝ってやるとしよう。
この二組の恋人たちも、シーシュースとともに
結婚式をあげさせてやろう、このうえなく盛大に。
pp.106〜109

シーシュース、ヒポリタ等登場

シーシュース:
・ ・・
いとしいヒポリタに猟犬どもの音楽を聴かせたい。
・ ・・
ヒポリタ:
私も昔ヘレクレスとカドマスに連れられて、
クレタ島の森でスパルタの猟犬を解き放ち、
熊狩りをしたことがあります。
・ ・・
 あれほどの
美しい不協和音、心地よい雷鳴ははじめてでした。
pp.110〜111

シーシュースは、森で、ハーミア、へレナ、ライサンダー、ディーミートリアスの四人を見つける。そして、自分の結婚を含めて三組の披露宴を催すことにする。

ボトム:
世にも珍しいものを見たもんだ。おれの見た夢は、そいつがどんな夢かはとうてい人間の知恵じゃ思いもよらん。 ・・・前代未聞の夢だったよ、おれが見たのは。

第二場:省略

第5幕:
第一場:シーシュースの宮殿
ヒポリタ:ほんとに不思議ね、シーシュース、あの恋人たちの話は。
シーシュース:不思議すぎてほんとうとは思えぬ。私には
あのような珍問奇談はとうてい信じることはできぬ。
恋するものと気ちがいはともに頭が煮えたぎり、
ありもしない幻を創り出すのだ、そのために
冷静な理性では思いもよらぬことを考えつく。
狂人、恋人、それに詩人といった連中は、
すべてこれ想像力のかたまりと言っていい。
・ ・・
そして想像力がいまだ人に知られざるものを
思い描くままに、詩人のペンはそれらのものに
たしかな形を与え、ありもせぬ空(くう)なる無に
それぞれの存在の場と名前を授けるのだ。
・ ・・
ヒポリタ:
それにしてもゆうべの話をすっかり聞いて、
みんなの心がそろっておかしくてなったことを知ると、
想像力が生み出す幻とは言えない、それ以上の、
大きな現実の力が働いているように思われるけど。
とにかく驚くべき不思議な話と言うほかないわ。
pp.120〜122

饗宴係のフィロストレートが呼ばれる。そして、職人たちの拙劣な芝居『ピラマスとシスビー』が演じられる。そして、芝居が終わり、一同去る。パック、オーベロン、タイテーニア、妖精たちが現れる。

オーベロン:
妖精たいよ、夜明けまで
踊れ、邸のすみずみまで。
われら二人は新床を
訪い、授けよう、祝福を。
そこで生まれる子供らに
永遠(とわ)のしあわせあるように。
三組の夫婦ともどもに
永遠の愛情あるように。
・・・






2005/10/02のBlog
資本主義とは何か:それは、構造主義的であり、差異構造主義に転換する。

資本主義は、差異から発していると思う。差異とは、超越論的、構造主義的である。そして、必然的に、脱近代的資本主義、不連続的差異的資本主義となるだろう。

p.s.  持論を繰り返すが、イタリア・ルネサンスとは、差異の勃発である。そして、プロテスタンティズムとは、差異への反動である。そして、グローバリゼーション、新自由主義は、差異への反動である。しかし、アメリカの多極主義への転換とは、差異への回帰であり、新たなルネサンスである。不連続的差異のエポックである。不連続的差異的グローバル・ワールド・エポックである。






アレゴリーとシンボル:構造主義と経験主義

アレゴリー:視覚理性形象(アポロ的なもの)の表現:イデア
シンボル:音楽感情的形象(ディオニュソス的なもの)の表現:身体性

ここから考えると、両面をもった形象、即ち、アレゴリー/シンボル相補的表現が、もっとも優れた表現であると言えるだろう。思うに、D.H.ロレンスの作品、たとえば、『死んだ男』は、そのような表現ではないだろうか。また、ロレンスの「コスモス」とは、イデアであろう。(不連続的差異論から言えば、メディア界であるが。)結局、現代作家というか、現代文学近代文学ではない。だから、ポスト近代文学と言ってもいいだろう。)は、再び、アレゴリーを発見した、ないし発見しようとしたと言えるだろう。つまり、イデアの再発見である。換言すると、超越論的次元、構造主義的次元の発見である。(セザンヌピカソを初めとする美術革命も、やはり、この次元の発見だと考えられるが、美術界は、このことを真に理解しているだろうか。
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cezanne/bath/
http://docentes.uacj.mx/fgomez/museoglobal/carpetas/C/Cezanne.htm
http://www.sts.tu-harburg.de/projects/WEL/0911/images/Weinende%20Frau%20(Picasso).jpg
http://www.georgetown.edu/faculty/irvinem/visualarts/Image-Library/Picasso/picasso.house-garden-1908.jpg
抽象表現主義も、その継承であろう。また、たとえば、ジョージア・オキーフの絵画も、この次元の発見を意味しよう。
http://www.angelfire.com/art/favoritewomenartists/georgia_o_27keefe.htm
http://www.shepherd.edu/englweb/artworks/A14.jpg
カンディンスキーも、シャガールも、そうだろう。
http://www.harley.com/art/abstract-art/kandinsky.html
http://home.comcast.net/~sean.day/html/pseudoartists.htm#aKandinsky
http://www.galerie-obrazy.cz/galerie/chagal1.php
http://www.staratel.com/pictures/shagal/shagal2/main.htm
http://www.guggenheimcollection.org/site/artist_work_lg_75_38.html
シュールレアリスムも、本来、この次元の発見であると考えられる。
http://www.consciencia.org/imagens/banco/Dali/dali1.htm
そう、美術における超越論・構造主義革命である。しかし、美術界は、これを真に理解せずに、行き詰まっているのではないか。これは、他の芸術領域にも当てはまる。文学界は、これを理解しているのか。音楽界もこれを理解しているのか。考えるに、芸術界は、これを理解せずに、いわばこの余韻の中で、混迷迷走堕落衰退しているのだ。さて、ドゥルーズが言った超越論的経験論という言葉が気になる。超越論的経験とは、当然、現象的経験(リアリズム)とは異なる。現象的経験とは、いわば、利己主義、自我主義的経験であり、フッサール的に言えば、自然的態度である。超越論・構造主義革命とは、超越論的経験論(フッサールの超越論的現象学と等しいだろう)を意味するだろう。そして、それが、美術・絵画に明瞭に現れているだろう。そして、この超越論的経験論とは、不連続的差異論によって、今や、不連続的差異的超越論的経験論になったと言えよう。そして、資本主義も今や、そのように変質しているように思えるのである。だから、不連続的差異的超越論的経験論的資本主義である。
p.s. 換言すると、差異資本共存共創主義である。これは、フッサール間主観性・相互主観性の経済的対応である。)
 つまり、こういうことではないだろうか。近代西欧(近代主義)とは、ロゴスを言語と解釈(誤読)して、アレゴリーイデア次元を喪失した(この場合、ロゴス=イデアである)。そして、この喪失された次元が、いわゆる現代学術革命として復権したと言えよう。ただし、超越論・構造主義とは、信仰、神秘、非合理性として復権したのではなくて、知・差異として復権したのである。イデア・ロゴスの復権である。超越論的イデア・ロゴスと言えよう。それは、正しく言えば、差異イデア・ロゴスである。あるいは、差異知性・差異理性である。差異叡知である。もっとも正確に言えば、不連続的差異知性・理性・叡知である。






ポスト神秘主義神秘主義脱構築する

文学、芸術、宗教、心理学、思想等において、神秘主義ないし神秘思想が頻出するが、これは、不連続的差異論から見ると、実は、超越論的領域の不十分な認識であると考えられる。現実を超えたような万物との一体感の「感じ」、「感情」が生じる。しかし、これは、不連続的差異論から見ると、メディア界(超越論的領域)から発生していると考えることができるのである。
 さらに言えば、宗教もメディア界から発生していると見ることができる。だから、理論・知的に、メディア界を肯定するならば、必然的に、脱神秘主義、脱宗教となるだろう。仏教は、もともと、宗教批判から発した脱宗教である。空とは、メディア界のことである。
 また、さらに、オカルティズムも、同様である。たとえば、占星術であるが、それは、メディア界における差異の連続的連結から発生する擬制である。ほんとうは、メディア界の差異の「複雑系」を問題にしないといけないのであるが、それが、連続表象化されて、星座、惑星等々になっていると考えられる。メディア界の解明が、万物・万有・森羅万象の解明となるであろう。