差異と個 その3:差異と現象的個体の関係

差異と個、あるいは、差異と現象的個体との関係の検討を反復する。
 メディア界がいわば現象界の卵である。原型、形相・エネルゲイア、「イデア」・コーラ、構造である。
 さて、ここで、イデア界の座標、ガウス平面(複素平面)を考えよう。x軸(実軸)とy軸(虚軸)がある。そして、x軸に差異1/差異2/差異3/・・・/差異nが布置されているとしよう。そして、90度回転して、y軸に差異1・差異2・差異3・・・・差異nと連結・擬制連続化する。このy軸上の事態・事象をメディア界としよう。そして、ここから現象化するのであるが、具体化するために、球を考えよう。メディア界を擬制的に「ゼロ」として、点ないし原点としよう。そして、ここからの現象化を球化としよう。そして、地球のように考えて、経線・緯線という座標を考えよう。差異連結が差異連続化となるのであるが、差異の強度のいわば度合が多種多様な原型・構造を形成すると考えよう。つまり、差異・強度nが、鉱物・植物・動物・人間、あるいは、太陽系、銀河系、さらに大宇宙の原型・構造を形成する。人間の原型・構造を差異・強度hとしよう。そして、これが万人に共通の基盤である。そして、これが、いわば、球面上に現象化するのである。「私1」が「経緯度1」であり、「私2」が「経緯度2」、「私n」が「経緯度n」の座標をもつ。これで、現象的個体としての人間を表記できるだろう。そう、現象界である球面上では、「私n」は相互に区別される。しかし、「深層構造」は、メディア界、y軸、虚軸、差異・強度hにある。そう、人間のコアと言ってもいいだろう。そして、地球の比喩から、マグマであるとしてもいいだろう。ニーチェディオニュソスである。ヘラクレイトスの火である。しかし、本体は、イデア界であり、現象界からはまったく不可視である。それは、異次元であるのである。
 さて、ここで、差異と現象個体ないし個・特異性を問題にしたいのだが、現象個体である「私k」と「私k」の特異性ないし差異との違いは何であろうか。現象個体「私k」は、肉体があり、意識があり、生活をして、何かを所有している等々である。これは一般的個体性である。しかし、「私k」にはコギト(我思う)があり、これが「私k」の個・差異・特異性の基礎である。特異な「私」とは何なのであろうか。これまでの検討から、それは、根源の差異であると言えるだろう。そして、今の検討からは、差異・強度hが特異な「私k」ではないだろうか。つまり、メディア界の原型が「私k」の特異性となる。これは、しかしながら、特異性=普遍性である。人類的普遍性である。しかし、果たしてそうなのかという疑問が浮かぶ。そう、正にここで不連続的差異論の決定的創造的意義がある。このメディア界的普遍性とは、連続的普遍性であり、特異性ではないのだ。これまで、ほとんどの宗教、思想、国家は、ここが基盤・原基・根拠であったのだ。そして、それは、人間の自由、個の自由を束縛してきたのだ。そう、ここにある普遍性は同一性の普遍性、一般的普遍性であり、特異性ではないのだ。だから、特異性=普遍性という考えを破棄しないといけない。
 特異性とは、イデア界の不連続的差異にあるとしないといけないだろう。特異点として不連続的差異があるのである。「私k」の特異性とはイデア界の不連続的差異性にあると言えるだろう。では、これは、また万人に普遍的ではないか。そう、確かに普遍的である。しかし、もはや、同一性、統一性、一者性、一性は存在しない。複数・多数・無数の不連続な差異が共立しているだけである。この多数の不連続な差異が特異性であり普遍性である。そう、ここでは境界が差異を隔てているが、この境界を無限速の「光」が移動しているのだろう。このイデア界をプラトンは善のイデアと呼び、また太陽のイデアで比喩したと考えられる。また、宗教・神話の太陽神・光とは、メディア界の強度であろう。
 ついでに、宗教について触れると、神、神々とはメディア界を指すだろう。そして、仏教は例外的に、イデア界に関わっているだろう。すなわち、空や無とはイデア界である。つまり、超宗教として仏教があるのである。 
 さらに付加すれば、ニーチェの積極的ニヒリズムとは、ほぼここに近づいていたと言えるだろう。また、ドゥルーズガタリの内在平面は、メディア界とイデア界との混淆であると思う。D.H.ロレンス折口信夫は、思うに、メディア界とイデア界の境界、縁、界面を表現したと思う。そう、これまで、イデア界を認識していたのは、プラトンアリストテレス(デュナミスによって)であろう。神秘学では、グノーシス主義が、ほぼイデア界を捉えていたと思う。
 これで、いちおう、この問題を終えたこととしよう。