二律背反・二項対立について

音声形式が、相互に排除することを述べたが、なぜそうなのだろうか。「ア」と「イ」とは相互排除する。しかし、併存・共存という方法もあるわけである。そう、確かに、音声形式の併存・共存が可能である。だから、音声形式に、二律背反性の原因を求めるわけにはいかない。その真因を探さないといけないだろう。ただし、音声形式はそのきっかけとしてあるだろう。
 二項対立を生むもの、これについては説明し尽くした。すなわち、連続的同一性の反動暴力によるということである。すわなち、連続的同一性の強度、マイナス強度による。そして、これは、差異の90度回転によって必然的に生じることを述べた。だから、音声形式は、その手段であったと考えることができる。ここで、言語に関して言うと、言語は二様となる。一つは、同一性の言語と差異の言語である。しかし、一般に、前者が中心となる。何故かといえば、それが、一般形式という共通性をもつからである。それに対して、差異の言語は、特異性の言語であり、特異性の耳をもたないと聴こえないものである。そう、それは、メディア界の言語と言ってもいいだろう。ある意味で、アニミズムの言語である。ここで、神話を考えると、それは最初の構造主義であるが、どういうことだろう。それは、差異の言語を同一性の言語へと取り込んだものだろう。たとえば、『ギルガメシュ叙事詩』を見よう。ギルガメシュとイシュタルの対立は、差異の同一性への取り込みと言えよう。また、山口昌男が述べた両義性という概念であるが、それは、同一性、二項対立の神話における「差異性」(正しくは、メディア界の差異)を取り出したものであり、神話の構造主義を説明するものである。つまり、神話の構造主義性とは、差異性、正しくは、メディア界の差異性を同一性へと取り込んだものである。つまり、神話は、ほとんど父権神話になるということである。つまり、文字言語として神話とは、同一性の神話となるということである。つまり、文字という同一性形式が正当性をもつのは、同一性の支配すなわち連続的同一性=父権制を必要とするということであるからである。
 ここで、文字言語と音声言語とイメージ「言語」について触れたほうがいいだろう。差異の90度回転によって連続的同一性が生まれる。これが、音声言語と文字言語を生むと言っていいだろう。たぶん、その基盤には、人間間の直観があったろう。すなわち、原分節という直観があり、それが共通であったろう。この原分節という直観をベースに言語が生まれただろう。それは、音声であり文字であろう。しかし、それ以前に、イメージ「言語」、シンボルないしアレゴリーがあったろう。それは、メディア界を直裁に表現しただろう。(あとで、シンボルとアレゴリーの違いを考察しよう。)それが表現・コミュニケーションの原点であり、それをベースに音声・文字言語が生まれたといえよう。そう、メディア界の表現としてのイメージ「言語」、そして現象界の表現として音声・文字言語と考えていいだろう。
 では、シンボルとアレゴリーの相違点は何か。これは、芸術概念の相違として研究されてきた。簡単に言えば、シンボルとは、メディア界における連続的同一性の傾向をイメージ化したものであり、アレゴリーはメディア界における差異性の傾向をイメージしたものであろう。換言すれば、前者は現象極であり、後者はイデア極である。連続的イメージと不連続的イメージ化の違いと言ってもいいだろう。きっと、作家において、この2つの傾向があるだろう。なぜならば、作家とは、メディア界の強度を創作衝動としているからであり、そこは両義的なのである。一般に、作家は連続/不連続性の両義性をもって創作しているのである。(このように見ると、ドゥルーズはこのような傾向をもつ哲学者と言えよう。)とまれ、以上で、本件の問題を終えたこととしよう。