「魂」・差異と同一性構造:差異の眼と同一性の目

観る・視る・見るとはどういう行為であろうか。心眼で観るとは何か。魂の目のとは何か。直裁に観るとは何か。リアルな眼とは何か。カント哲学を敷延すると、感覚的対象は見えるが、物自体は見えないことになる。テーブルの上にリンゴがあるとしよう。セザンヌの観たリンゴ、ジョージア・オキーフの観たリンゴ、・・・あなたの観たリンゴ、私の観たリンゴ。そう、優れた画家は、物自体を観ているのだ。凡庸な人は、感覚のリンゴを見ているだけだ。すなわち、同一性のリンゴである。特異性としてのリンゴを観ていない。同一性的個物としてのリンゴである。唯名論実念論的リンゴである。
 さて、私は、「魂」・「心」と差異・特異性との関係を問題にしたい。これは、「わたし」、コギトの問題である。コギト(我思う)は特異性・差異である。では、それと「魂」・「心」とどう関係するのか。思うに、コギトは精神と身体との差異である。また、自己と他者との差異である。差異の境界をコギトと言ってもいいだろう。ここから、「魂」や「心」、共感性や倫理が生まれると思う。差異から「魂」、「心」、共感性、倫理が生まれるのである。あるいは、差異と同時存在と言うべきかもしれない。精神と身体との差異がないと、淫猥、グロテスクとなるだろう。また、自己と他者との差異がないと、自己中心主義、傲慢、暴力的となるだろう。結局、差異が原点である。資本主義は、差異を消して、同一性にすべてを転化する。これは、野蛮化である。差異経済文化とならないといけない。
 ここで、芸術の問題に触れると、芸術が死んだのは、やはり、差異を喪失して、同一性=貨幣になってしまったからだろう。これは、連続化ということである。マスコミはそのようなメディアとなっている。メディアは本来、差異でなくてはならないが、それが、連続的同一性になっている(フジサンケイ、NHK他)。差異をむき出しにすること、これこそ、メディアのはたらきであり、また、真正の理性である。ヘーゲルの理性は似非理性で、連続的同一性の観念である。差異を無化した観念である。

初めに差異ありき、そして差異は境界とともにあった。

ロゴスとは差異であり、神とは境界である。

差異であることが、一切合切である。

差異のない、癒着したメディアは、ホリエモンでないが、破壊せよ。ニーチェが言うように、なにとぞ破壊せよ。

日本における差異喪失の歴史、それは、三島由紀夫が言った「断絃の時」(もっとも、その反動性を差し引いてだが)である。それは、神仏分離にあると思う。神仏習合とは、日本の多神教・多元論性であり、多神教・多元論性とは、差異性である。だから、1868年の神仏分離令は、日本の多神教・多元論=差異性を破壊して、天皇制=国民国家主義という連続的同一性を形成した元凶である。ここが、第一の「断絃の時」であり、戦後が第二の「断絃の時」であろう。そして、バブルへ向けての「断絃の時」等々。フジサンケイは、この帰結である。そして、小泉/竹中路線もこれである。日本の差異へ還れ。リターン・トゥ・ディファランス。差異爆発、差異地震、差異噴火せよ。連続的同一性の絆を断裁しないといけない。アメリカの縛を断ち切るのだ。日本独立へ。ポスト日本。脱日本。新邪馬台国