精神性と心身性との関係について:不連続的差異論から見る

スピノザの『エチカ』で説かれている精神と身体との区別がわかりにくいように思われる。もっとも、身体への外界からの影響が感覚され、感情・欲望が喚起されて、それが精神内容となるというように読むことができるだろう。これはこれでいいこととしよう。
 さて、不連続的差異論から、精神と心身性を見るとどうだろうか。差異が身体であり、差異強度が精神としよう。マイナス強度は連続的同一性の精神である自我であり、プラス強度が不連続的差異の精神の特異性となる。精神は自我と特異性に分けられる。父権と母権と言ってもいい。あるいは、現象界とメディア界と言ってもいい。
 では、心身性とはどのようなものだろうか。それは、メディア界的なものだろう。すなわち、メディア界には、差異=身体があり、また同時に差異強度である精神が存している。この両義性が心身性と言えよう。「こころ」、「たましい」、「心魂」等と呼ばれるものは、メディア界=心身性を指していると考えられる。ついでに言うと、神秘主義とは、このメディア界の総合性や個体性のゆらぎを意味していると言えよう。コスモスもカオスモスも、このメディア界を指していると言えよう。また、当然、ロマン主義も、ここを指向していると言えよう。
 以上から、精神と心身性との違いがわかるだろう。前者は差異強度に関わるもので、後者はメディア界全体にかかわるものである。ここで、スピノザの心身平行論を考えると、それは、精神と身体の平行論ということで、二元論である。そして、ドゥルーズの説明では、スピノザは心身性である「たましい」を排していたとのことである。ここで、冒頭の私の疑問にもどることになるのだが、身体感覚から精神的感情の発生であるが、それをスピノザは明示していないのである。それをただ並行論で処理しているのである。しかし、私見では、身体と精神との連絡が並行論ではなくてあると思う。それは、メディア界そのものである。精神の感情である歓びと身体の活動力の増加をスピノザは平行させているのであるが、実は、メディア界を見れば、明瞭そのものであろう。すなわち、精神は差異強度であり、それは、差異=身体へ関与するのであり、差異強度がプラス(共感的歓び等)ならば、それは、差異を積極的に連結・共立させて差異=身体の活動力を活発にすると考えられるのである。
 ということで、スピノザの心身平行論は、第三の「属性」として、メディア界=心身性=「心魂」を内在していると言えよう。だから、冒頭の私の疑問はこれで解決解明されたであろう。近代二元論ではなくて、脱近代三元論、ディーモダン三元論が生起するのだ。