不連続的差異論と技術

中沢新一氏のピュシス/モノ的技術の説明は今一つわからないので、おいておくこととして、自然の認識の問題を提起したい。自然を不連続的差異論から見るならば、不連続的差異の共立体として自然があるが、連続的科学から見ると、連続的差異の結合体であろう。たとえば、森林とは、不連続的差異論から見ると、不連続的差異の集合体であり、連続的差異の同一性の集合体にはない、割り切れなさをもっている。カント哲学で言えば、物自体としての森林があるのであり、それは、連続・同一性の差異では説明できない。先験的形式で森林を見ているのであり、森林自体を見ているのではない。つまり、不連続的差異の集合体としての森林ではない。つまり、そこには、連続的同一性の森林にはない過剰さ、超過さ、余剰があるのであり、それは、特定できないだろう。つまり、自然科学で見れば、森林は、伐採して、紙の原料にすれば、パルプとしての量計算ができる。つまり、森林=パルプ量=交換価値である。しかし、不連続的差異論からは、それらの等号は成立しない。森林≠パルプ量≠交換価値である。森林が使用価値になったり、交換価値になったりしないのである。つまり、森林の不連続的差異価値(略して、差異価値)とそれの連続価値は当然異なり、不共役である。おそらく、差異価値には強度、イデア界の強度があり、連続価値には、物理量や貨幣量がある。ここには、絶対的な差異がある。思うに、近代/現代の科学・技術は、後者的であり、連続的森林を見ているに過ぎず、不連続的森林、強度の森林を見ていない。中沢新一氏的に言えば、モノとしての森林を見ていないのである。物質として森林を見ているだけである。ここには、死んだモノしかないだろう。もののけ姫の森林はないのである。ここに環境破壊の根因があると思う。『ギルガメシュ叙事詩』で言えば、英雄ギルガメシュと盟友エンキドゥーによる森の怪獣フンババ(正体はおそらく女神である)殺戮とパラレルである。つまり、森の怪獣フンババが、いわば森林の不連続的差異であり、強度であろう。この不連続的差異、強度の否定が、近代/現代の科学・技術にあると言えよう。(ジェンダー的に言えば、父権的科学・技術であり、母権的なそれではないのである。)結局、以上から、近代/現代科学・技術批判が生じるのである。自然を連続同一化して科学・技術であり、それは、「物自体」、不連続的差異、強度としての自然を、つまり、本体、本源としての自然を取り逃がしていて、それは、いわば疑似自然科学・技術と言えるほどである。あるいは、連続的概念・知性でのみ自然を捉えているというきわめて一面的な思考・実践的システムに過ぎず、本体・本源である不連続的差異を看過しているので、自然の本体に無認識となり、予測の出来ない自然破壊やフランケンシュタイン化を行っていると考えられるのである。そう、自然のカオス化と言ってもいいだろう。ここから、怪物が生まれるだろう。とまれ、不連続的差異科学・技術がありうるだろうし、それが、新しい社会・経済と、すなわち、コミュニティズムと連携するだろう。