父権文化の意味:資本主義の積極的意義、その他

[叡智学] 父権文化の意味:資本主義の積極的意義

これまで、超越性、父権制キリスト教、資本主義を執拗に批判し続けてきた。しかし、単に否定的なものならば、存在の意味がない。しかし、これらの成立には秘密があるのだろう。簡単に問うてみよう。なぜ、母権制から父権制にチェンジしたのか。これは、結局、自然の差異によるだろう。恵まれた気候や風土をもつ地域と過酷な気候や風土の地域がある。これが、母権制父権制の発生の根源だろう。受動と能動である。
http://blog.goo.ne.jp/aromadew/e/1c884e0853ffe618a423a784cb04fa18
だから、父権制とは、人間の能動性、積極性、主体性等を生むための文化であると言えようし、資本主義もそのような意味をもつ。だから、この側面を高く評価しないといけない。社会主義の失敗はこの点にあると言っても過言ではないだろう。とまれ、現代はこれが行き過ぎているのだ。バランスをとらないといけない。母権的なものと父権的なものとの共存、創造的共存、共創存、共創生が必要である。共創共生主義とは、このようなものであろう。資本主義のダイナミズムと社会主義の共存主義の両側面をもつのである。それは、基本的には、不連続的生成差異イデアの共創共存性によると言えよう。ある意味で、弁証法が成立するだろう。母権制父権制→新母権制父権制を包摂している)。とまれ、ここでは、父権制母権制とがゆらいでいるだろう。資本主義的あったり、社会主義的であったりするだろう。しかし、本体はどちらでもない。資本主義的社会主義社会主義的資本主義、非資本主義・非社会主義。とまれ、共創共生主義経済である。これこそ、本当にダイナミックな経済である。

p.s. ゆとり教育の大失敗もここにあるだろう。しかし、また、反動で、競争主義となるのであろう。このような、愚劣な教育体制は、度し難い、日本滅亡である。能動的受動、受動的能動の教育が必要である。共創共生主義的教育論である。

p.p.s. 母父権主義である。母父主義である。母父経済である。


[言語] 言語と生成差異イデア論

チョムスキー生成文法論であるが、これはいわば構造主義である。これは、不連続的差異論から簡単に批判できるが、乗り越える必要があるだろう。つまり、構造ではなくて、不連続的生成差異イデア(略して、生成差異ないし生成イデア)を本源におけばいいのである。生成差異が本源にあれば、これは、現実の言語行為・発話行為において、特異性を連結させて創造的に表現することができるのである。たとえば、「机」とは、固定したイデアではなくて、生成差異としてのイデアであり、それは、生成変化するものである。「机」が、「台」になるし、「ベッド」にもなる。トポロジー的であるが。そう、ダイナミックな生成差異イデアを言語の根源に見るべきだろう。言語は、その影であろう。また、強度としての生成差異イデアである。イデアの強度が、生成変形、生成変化の動力である。理念=強度=生成差異。


[叡智学] 二つの「超越性」:超越性と転超性

超越性とは、本来、絶対的超越である。しかし、不連続的差異論やドゥルーズの差異論は、いわば内在的な超越論である。だから、内在的超越論性と言えばいいのかもしれない。超越性と区別された内在的超越論性だ。わぎらわしいから、別の命名がほしいところだ。ある意味で、水平超越なのだ。横超である。なにか、気の利いた表現はないだろうか。内在本源性? 内包超越? これは、置いておこう。

p.s. 差異が回転して、現象となるのである。だから、転越性と言えるのではないか。あるいは、転超性、あるいは、転超越性。いちおう、転超性としよう。これで、超越性と転超性という区別ができた。超越神とは前者的であり、多神教とは後者的である。ただし、イスラーム教の場合が複雑である。一見、アッラーは超越神であるが、違うと思う。唯一神であるが、超越神ではない。それは、タウヒード(存在一性)の神であり、転超性を一神教化したものだと思う。

p.p.s. ハイデッガー存在論であるが、それは、転超性をもっていると思う。しかし、存在と存在者とが上下垂直的な位階をもつと思う。これを批判したい。つまり、それだと、オカルト主義、精神主義になると思う。ドゥルーズもこの気味があると思う。

3p.s. ハイデッガードゥルーズ哲学の差異の問題点であるが、二元論の問題だと思う。つまり、前者は存在を存在者より、後者は差異を現象よりも、いわば高位に置くだろう。つまり、位階・ヒエラルキーが生じているのである。この上下・高低性によって、両者の哲学はオカルト主義、精神主義性をもっているのだ。これは、反動でなくて何であろうか。

4p.s. 不連続的差異論は、差異・イデア界即現象界とするのである。これがプラトンイデア論の真意であり、大乗仏教と通じるのである。


[歴史] 超近代主義・超時代主義:ポスト・ポストモダニズム

supermodernism
supramodernism
transmodernism
paramodernism
metamodernism
ultramodernism
superagism

p.s. 超時代主義が正しい。今や、イデア界が再発見(または、再仮説、新仮説)されたのだから、永遠界、叡智界、不滅界から見ることになるのである(不連続的差異論)。スピノザの「永遠の相の下に」
http://www.google.co.jp/search?num=30&hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&q=%83X%83s%83m%83U%81@%89i%89%93%82%CC%91%8A&lr=

p.p.s. もっとも、固定したイデア界でなく、差異による永遠生成のイデア界である。不連続的差異/イデア界である。

3p.s. 思うに、ヘラクレイトスは、万物流転(パンタ・レイ)説で、ほぼこの差異的イデア界を指示しているようだ。そして、彼のロゴスとは、差異=イデアであろう。しかし、対立物の闘争説、一種アンチノミー説は、どうであろうか。闘争とは、現象界的、父権的反動暴力である。この点で、ヘラクレイトスは反動化しているように思う。確かに、闘争は必要であるが、自己闘争であろう。平和のための闘争でなくてはならない。それは、非暴力主義的闘争である。

4p.s. ヘラクレイトスは、不連続的差異論から見ると、その生成論は、特異性の思想であり、差異/イデア界的である。そして、対立物の闘争論、火としてのロゴス論は、イデア界の強度性をもっているが、反動性も感じる。つまり、ヘラクレイトスは、イデア界の強度を感じているが、しかし、それを、超越・反動暴力的に対立物の闘争論に形成している。だから、反動期のD.H.ロレンスに似ているし、晩年の狂気のニーチェに似ている。つまり、内在性と超越性とを混成・混合させているのだ。あるいは、前者を後者に内包させているのだ。つまり、反動的なのだ。だから、結局、ヘラクレイトスは、メディア界の両極を混成させて思索しているということになろう。

5p.s. 不連続的差異論は、不連続的差異/イデア論である。

6p.s. 不連続的差異/イデア論の「叡智」性とは、オルテガの「生・理性」(原語はrazon vital)に似ていると思う。
http://homepage2.nifty.com/fuji-teivo/hyoron/none-category/today-orudiga.html

7p.s. オルテガの生成論は、不連続的差異/イデア論と重なるだろう。そう、後者は生成イデア論、生成差異イデア論でもある。引用しよう。

「ウナムーノとオルテガ

 さて近代にあって理性がその指導理念としてあらゆる領域にわたってその力を誇示したとはいえ、スペイン以外の国で「生」の理念がまったく消滅したわけではない。それは休火山のように、時おり地下深くから「生」のマグマを吹き上げた。十九世紀末のニーチェ(一八四四―一九〇〇)、二十世紀初頭のディルタイ(一八三三―一九一一)、ジンメル(一八五八ー一九一八) 、そしてベルクソン(一八五九―一九四一)などいわゆる「生の哲学」者たちの思想がその一例である。しかしオルテガもウナムーノも、これら生の哲学者たちとは微妙な、そして時には本質的な違いを見せる。ここでその違いを考察する紙幅も (いや白状すれば私自身未だにその用意が)ないので、オルテガ理解のためにも、彼と常に並び称されるウナムーノとの違いを簡単に指摘しておきたい。ウナムーノとオルテガ、この二人は実に好対照をなす思想家である。というより、彼らは盾の両面のように相互補完的な関係を保っているとさえ言える。青年時代にオルテガがこの先輩思想家ウナムーノに抱いた共感と憧れと、またそれゆえの後の反発と幻滅を探るだけでも優に現代スペイン思想の大要をたどる旅になってしまうほど、両者は現代スペインの思想界を代表し、そして常に親和と反発の関係を保ってきた。簡単に言ってしまえば、ウナムーノにおいて理性と生は常に対立と排除の関係にあるのに対し、オルテガにあって両者は、まさに相互補完的な関係にあるのだ。つまりウナムーノは、理性があまりにも強大で、また専横をほしいままにしてきたことに真っ向からの対決姿勢を示したのに対し、オルテガは理性の横暴を批判しながらも理性を全面否定するのではなく、むしろそれをしかるべき位置に戻す方策を探ったのである。それが彼の言う「生・理性」(原語は razon vital だが、まだ日本語として定訳がない。「生ける理性」と訳されることもある)である。たとえて言うなら、理性をこれまで君臨してきた王位から追放するのではなく、人間にとってもっとも有能かつ忠実な家臣の位置に就けること(一応の降格)である。ここにもオルテガ哲学の一大特徴とも言うべき絶妙な平衡感覚を読み取ることができる。つまりオルテガは、一方的に理性か生かという二者択一の立場をとるのではなく、両者を可能なかぎり融和させようとしたのである。

 したがってウナムーノの立場が「生的なものはすべて反理性的であり、理性的なものはすべて反生的である」とするなら(事実彼はそう言った)、オルテガのそれは「生的なものはすべて理性的であり、理性的なものはすべて生的である」というわけだ。この意味でも両者は実に好対照をなしていると言える。しかし本書を注意深く読んでいけば、オルテガがたんに理性と生の「良いとこ取り」をしているのでないことも分かってくる。つまり彼は究極的には生の側に立っているのだ。ウナムーノはスペインの本質をめぐる初期作品『生粋主義をめぐって』で、彼の終生の方法論ともなった考え方を次のように述べた。「完全な真理はふつう除去法(via remotionis)によって、すなわち極端なものを排除することによって中庸の中に求められる。ところで極端なものとはその相互的機能と働きによって生のリズムを産み出すものであるが、そうした除去法によっては、ただ真理の影にしか、冷たく陰気な影にしか到達しない。私が思うに、それよりも好ましいのは、別の方法、つまり矛盾を交互に肯定する方法であり、読者の魂の中に極端なものの力をきわ立たせることによって中庸のものが魂の中に活気を帯びることである。生とは闘いの合成運動なのだ」。確かにオルテガには、このウナムーノのような矛盾を交互に肯定する際の激しさはない。しかしオルテガも彼の終生の方法論とも言うべき姿勢を次のように表現している。「われわれの生、人間的生は…あることについてのわれわれの認識のすべてをこれの厳密な観照に究極的に基礎づけ確認しなければならぬ根本実在である」(『個人と社会』)。

 だが前述したように、この生の視点に立つとき、すべてはとたんに曖昧さを増し混沌とし、割り切れなさを増幅してくる。「われわれは、本質的に曖昧な一つの状況――今日の状況――にメスを入れている…」(同四四三ページ)「この形而上的ためらいが、生と関係のあるすべてのものに、不安と戦慄という、まぎれもない特徴を与える…」(同ページ)。近代合理主義的視点あるいは数学・科学的理性の視点に立つ場合とはまったく違うのだ。本書を読み進める際に時として感じられる難解性あるいは不透明性は、実はオルテガの思想が手ごたえ確かな対象を探り当てていることの逆証明なのかも知れない。なぜなら、「生は引きとめることも、捕らえることも、跳び越えることもゆるさない一つの手に負えぬ流れである。成りつつあると同時に、手のほどこしようもなく存在することをやめてゆくものである。…中略…それはちょうど、それ自体はとらえることのできない風が、やわらかな雲のからだの上に身をおどらせ、それを引き延ばし、よじり、波打たせ、とがらせるようなものである。われわれは視線を上げて、綿毛の形をした雲の中に、風の襲った跡を、その激しくも軽やかなこぶしの跡を見るだけなのだ」(「ロマン主義美術館のために」、『全集』第二巻所収)。ともあれオルテガがすべてを「生の相の下に」(sub specie vitae)、もっと正確にはすべてを「生の根源において」(in radice vitae)、あるいはすべてを「生成の状態において」(in fieri)見ようとしていたことは間違いない。つまり絶対者でない限り、スピノザ流に「永遠の相の下に(sub specie aeternitatis)」諸現象を見ることは許されない。すべては流動的であり、その時々の歴史的現実を定点観測することは望むべくもないのだ。なぜなら変幻する現象だけでなく、観測者自身も絶えず変化しているからだ。したがって定点観測はすべからく神話化という危険な傾斜をすべり落ちていくことになる。だからたとえば一国の歴史を永遠の相の下に見ることには、唯我独尊的かつ排他的な国粋主義の陥穽が待ち受けているのだ。」

佐々木孝著
http://homepage2.nifty.com/fuji-teivo/hyoron/none-category/today-orudiga.html
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