日本の精神・霊的伝統(霊統・法統)には、秘儀・秘智・ソフィアの本

日本の精神・霊的伝統(霊統・法統)には、秘儀・秘智・ソフィアの本格正統的な伝統が喪失している?


テーマ:シュタイナー高次元・霊的哲理学(霊学)


直近に以下(参照)のように述べた。
 日本母権文化の衰退の原因を単に、こころ・精神の衰退だけでなく、哲学の欠乏症候群に見たのである。
 しかし、もっと的確に言えば、西洋、その他の文化の底流にあるような秘儀文化、秘智・隠秘文化(「オカルト」文化)、ソフィア(叡知)の文化の衰退・衰弱・頽落・堕落にあるのではないだろうか。あるいは、それらが明確に伝播(でんぱ)伝承されなかったということかもしれない。
 西洋には、多様な秘智文化の伝統が底流にあり、それが、危機的な時代において、大地肚綿奥底から噴出し、形象と結合し、芸術創造が為されるのである。。
 その点でわかりやすい文学芸術は、シェイクスピアの演劇であり、ゲーテの『ファウスト』であり、フランスならボードレールの『悪の華』だろう。
 秘智文化が主要な芸術(この場合は文学)と結合するのである。
 しかし、日本において、先に述べたように、父権精神と母権精神との乖離があったと考えられる。
 日本における秘智文化は、芸術とは結びつかなく、宗教や神秘学に結びついただろう。例えば、大本教日月神示のようなものである。(そう、シャーマニズムの復興である。しかし、シャーマニズムはあまりにも非合理な面が強いので、シュタイナー霊学のような理智学化、理智的瞑想主義への転換が必要と考えられる。)
 空海密教も秘智学であるが、それの創造的後継者はいないのではないか。ただ反動的な仏教界があるだけではないか。
 そう、今想起したが、折口信夫の『死者の書』(『死者の書』 あらすじ・登場人物・章別あらすじ・系図 )、これは、日本文化における最高度に稀有な秘智の文学である。


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彼 ( か ) の人の眠りは、 徐 ( しず ) かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの 澱 ( よど ) んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。 した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、 ...

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 しかし、この秘智小説の、後継者はいるのか。
 思うに、三島由紀夫が暴発しなければ、このような後継者にはなれた資質はもっていたと思う。(追記:うっかり失念していたが、『豊饒の海』は、近現代日本における秘智小説の一つである。しかし、ニヒリズムに浸透されている。三島の闇である。三島には、光が失われていた。霊の光である。)
 澁澤龍彦のエッセイは、啓蒙的ではあったが、流行に終わってしまったと思う。
 結局、日本において、秘智学の発展は、ルドルフ・シュタイナーの霊学・霊的哲理学の本格的紹介(高橋巌、西川隆範、他に拠る)を俟つことになったと言えよう。

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追記:大皇室は、百済大女神文化(太陽大女神王制:「天皇制」)を今でも引き継いでいると考えられる。大母権文化なのである。

追記2:ふと思ったが、沖縄・琉球文化とは土着的な縄文文化に、百済太陽大女神王制文化(渡来人も含めて)が伝播して、誕生したものではないだろうか。(追記:海洋民族文化もあるだろう。)

追記3:百済大女神文化=太陽大女神天皇王制母権文化とは、父権文明以前の、秘儀文化以前の世界史的稀有な国政文化ではないだろうか。

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参照:
近代日本における高次元・超越性・精神-霊-スピリット性の欠落は国学イデオロギーに起因する?
テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史
先に以下のことを述べたが、背景には、なぜ、超越性が、メジャーな近代日本文化からほぼ消えているのかという疑問がある。
 私が若い頃悩んだ理論的問題は、唯物論と内在的心情論の分離と結合の問題であった。
 この解決は、氣の存在の認識に因るのが大きい。身体を超えて存在する氣の認識である。
 しかし、事は簡単には済まなかった。
 結局、時間、時熟が解決したようなものである。
 さて、超越性の喪失の原因であるが、これは、本居宣長の「もののあはれを知る」に存するのではないかと思えるのである。
もののあはれ」はいわば、心情、情感、リリシズムである。
 これは、内在的個体に留まり、超越性が欠落すると思われるのである。
 そう、有名な
「敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」という宣長の和歌があるが、この場合、「もののあはれ」を「山桜花」という現象に同一化しているのである。つまり、内在と現象を結合しているのである。
 ここには、超越性はない。きわめて、感覚的である。あえて言えば、即物的である。
 西洋ロマン主義の場合は、たとえば、山桜花の背景に超越界ないし精神界のようなものが現われるのである。
 どうして、宣長の場合、超越性が欠落するのかと言えば、それは、父権的自我の発現があるからだと考えるのである。
 父権的自我は、物質的傾向が強いのである。
 これが、「もののあはれ」から超越性を抑圧しているもののように思えるのである。
 そして、敗戦後は、この父権的自我に唯物科学が結びつくことになったと言えよう。
 今はここで留める。


追記:勿論、近代日本において、超越性を説いたものは多くいるが、それは、神秘学・霊学者、宗教家、民俗学者である。
 芸術においては、稀少であったと思う。勿論、宮沢賢治等には、あるが、明確ではない。
 つまり、近代日本文化において、感覚知覚認識とこころ・精神の乖離があったということになる。
 これは、端的に、父権文化と母権文化の乖離と言えるのではないだろうか。そして、主流は前者であり、後者はマイナーである。
 近代日本人は父権文化に染まり、本来基盤の文化である母権文化を喪失してしまったということのように思えるのである。


追記2:母権文化の喪失であるが、それは、母権文化の基層が衰退したということではないだろうか。
 制度的には、神仏分離令・排仏毀釈で日本伝統精神文化が破壊されたという側面があるが、それとは別に、母権文化の衰退という事態があったのではないだろうか。
 意外に思われるかもしれないが、西洋には、母権文化が残っているのである。イタリアには強く感じるし、英国のケルト文化圏もそうである。
 日本では、沖縄・琉球文化がそうであろう。
 でも、日本では、母権文化は衰弱していると思う。何が原因なのか。
 一つは父権的自我と唯物性が強いことであるが、何か本質的な問題がありはしないだろうか。
 今は一つの可能性を提起するが、それは、肚の文化の衰退が原因である。


追記3:より明快に言えば、こころの文化の衰退があるということである。純心の喪失である。
 そう、こころ、純心を維持するには、集団的ではなく、個的であることが必要である。個的自己を保持する強い姿勢が必要である。
 父権的集団主義が優勢であり、それに、個的自己保持力がないと、こころ・純心が屈しやすいということが考えられる。
 こころ、純心をもって、個的自己を保持すること、これが新母権文化である。


追記4:「こころ、純心をもって、個的自己を保持する」には、思うに、哲学が必要である。
 一般に哲学は難解な抽象的な論理のように思われているが、それは完全な間違いである。
 哲学とは、精神的思考である。だから、誰でもできることなのである。
 自分のこころと知性をもって思考すれば、哲学になるのである。
 そう、自然科学と違う点は、知性だけでなく、こころをもって思考する点であろう。もっとも正しい科学には、こころ・精神、つまり、哲学が必要であるが。
 デカルトの「我思う(コギト)」の自己・主体思考も、単に知性だけでなく、こころ・精神を含めれば、正解である。ただ、デカルト主知主義である。
 以上から、近代日本において、母権文化が衰弱したのは、単に、こころ・精神が衰退しただけでなく、哲学の欠乏に因ると考えられる。
 そうすると、教育の貧困・貧弱・貧乏に突き当たる。
 思うに、どうして、哲学の授業が義務教育にはないのか。支配者は、自主・独創的思考を恐れるのである。
 思考するには、哲学するには、個的になる必要があるのである。集団では、思考・哲学はできないのである。
 ということで、日本母権文化の衰退は、哲学の欠乏にあるということになった。哲学は、精神・知性・感性の栄養・滋養・養分である。


追記5:単に知性だけでなく、こころ・精神でも思考するということは、ヴィジョン的に思考するということでもある。イメージ的思考である。直観的思考である。ここで、哲学は芸術と結びつくのである。
 また、こころ・精神は超越性をもつので、宗教・霊学に結びつくである。
 また、知性を特化すれば、科学と結びつくのである。
 そして、実践的になれば、技術と結びつくのである。
今でも、哲学は学問の王者である。



 
検討課題:本居宣長国学イデオロギー力学問題


テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史


今日は疲れて、眠いので十分検討できないが、一言問題点を述べておく。
 本居宣長の「もののあはれを知る」であるが、これは、先に述べたように父権主義的枠内に収められた母権主義ではないか。
 つまり、国学はこれまで批判してきたような父権イデオロギーだけではないということになる。
 母権主義を取り込んだ新父権主義ということになる。
 そして、この思考パターンが近代日本人の思考パターンを形成したのではないか。
 つまり、母権主義は利用されているのである。情感が父権主義に利用されて、情感本来の超越性が抑圧されているのではないだろうか。
 西洋において、ロマン主義は、超越性を包摂していたのである。
 つまり、日本ロマン主義になるべき母権的情感が、父権的枠組みに閉塞されたのではないだろうか。つまり、超越性の否定である。単なる情感に閉じて、超越的感性を否定したのではないだろうか。
 しかし、平田篤胤になると、神道キリスト教的に一神教化されるのである。
 父権的超越性である。これが、尊王攘夷イデオロギーになったのではないだろうか。
 某国ナニガシ首相の好戦的イデオロギーはここに由来するのではないだろうか。
 とまれ、江戸時代後期に発動したと今の段階で作業仮説する新母権主義が、宣長によって、父権的ナショナリズムに枠に嵌められたのではないだろうか。
 つまり、母権的精神・霊・スピリットを奪われたのではないのか。
 今は問題提起に留める。


追記:宣長ー篤胤ラインによって、尊王攘夷イデオロギー明治維新イデオロギーが形成されたのではないか。
 つまり、情感を父権的一神教明治天皇制へと展開させたのではないだろうか。
 宣長では、情感は内在的に留まるが、篤胤によって、一神教化されたのではないだろうか。
 シュタイナー霊学から言えば、情感(アストラル体)は、霊・精神へと繋がるものである。それが、篤胤イデオロギーによって、天皇制へと導かれたのではないか。
 そう、江戸時代後期、新父権主義はあったが、同時に、新母権主義もあったが、それが、前者に抑圧されたということではないだろうか。
 本来、新母権主義は、霊・精神へと発展すべきであったのが、明治天皇制へと展開したのではなかったか。
 つまり、父権的集団主義へと取り込まれたということである。