故陳舜臣氏の『桃源郷』読了:宗教的叙事詩的小説:ユートピア小説で

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陳舜臣氏の『桃源郷』読了:宗教的叙事詩的小説:ユートピア小説ではない


テーマ:こころ教共同網:「まことの教え」共同体


印象ではあっという間、文庫本で上下で750頁弱の本書を読了してしまった。
 これまで読んだことのない、独創的な小説である。
先に、ユートピア小説と呼んだが間違いである。ユートピアは何処にもない理想郷を意味するが、この小説の桃源郷はフィクション上であれ、存在するからである。詳細は言わない。
 また、文学というより歴史を読んでいるようだとも言ったが、これも訂正する。
 登場人物の内面が生きている。
 宗教を扱った文学は多いが、マニ教とそのマニ教の自己超克をテーマにした作品は空前ではないだろうか。
 とまれ、マニの名を捨てた「まことの教え」、「まことの信仰」が中心的主題であるが、内容的に魅かれる。
 思うに、マニ教本来の意義から言って、名を捨てることは、マニ教の完成成就のように考えられる。
 つまり、マニ教とは、いわば、純粋宗教で、何々が神、仏ということはないのである。つまり、本質は、名なき宗教なのである。
 でも、哲学的に、名をなくすことの意味は何だろうか。
 たとえば、こころに感ずるなんらかの形而上学的なものを、
国之常立神 (くにのとこたちのかみ)
と呼ぶのと、なにも名をもたない存在とするのとでは、どう違うのか。
 当然、名をつければ、その存在は限定される。特定される。哲学用語があったが忘れた。(追記:言葉は現実、物質界を指すことが大半である。だから、言葉の分節化は、いわば、物質的実体化である。だから、宗教の次元における、言語化、特に、固有名化は、物質化なのである。これは、当然、排他的になるのである。形而上学的次元に形而下的次元を持ち込んで、前者の秩序を破壊すると言えよう。)
 有神化と一応言えようが、名をもたない場合は、無神ではなく、非神である。非神非仏的前宗教である。そう、プレ宗教である。
 そう、どうやら、このプレ宗教という視点が大事ではないだろうか。
 陳舜臣氏は、思うに、既成の宗教を超えて、いわば、先祖返り的に、プレ宗教を小説芸術化したのではないだろうか。
 しかし、それは、ポスト宗教ないし超宗教(トランス宗教)ということになる。プレ宗教を今日的に復活させたポスト宗教、トランス宗教がマニの名を捨てた「まことの教え」、「まことの信仰」ということではないだろうか。
 これは、実に水瓶座エポックに相応しい精神・霊のあり方ではないだろうか。
 そのように考えると、本作品はたいへんな傑作であることがわかる。
 とまれ、マニ教⇒マニの名を捨てた「まことの教え」
である。しかし、マニ教=「まことの教え」とも言えよう。
あるいは、真マニ教とも言えよう。ママニ教である。


追記:単純に固有名をもつ宗教と固有名を捨てた「宗教」を比べてみよう。
 X神と言えば、非X神があり、対立が生じるのである。
実は、啓典の宗教は一神教で本来、同じ神を崇拝するのであるが、歴史的に対立していることが多い。(オスマン・トルコの場合、諸宗教は共存していたのであるが。)
 一方ではヤハウェであり、他方では、アッラーである。
 本来、同じ神なのである。
つまり、ヤハウェと非ヤハウェが存在することになり、ヤハウェは非ヤハウェを排除しよう。これは、アッラーの場合も同じである。
 つまり、これは、宗教というより、言葉の概念の力学に由るのではないだろうか。
 例えば、目の前に、デスクがあるとする。そうすると、デスクと非デスクの対立が生じるのである。これは、言語概念力学である。たとえば、その存在をチェアと呼べば、否定されるだろう。
 これは二元論ないし二項対立である。
 これは、知性(悟性)の精神力学である。
(それに対して、陰陽対極・両極性は、知性の力学ではなく、精神・霊の力学ないし、こころ、理性の力学である。つまり、デスク=非デスクという即非の力学【鈴木大拙】、絶対矛盾的自己同一【西田幾多郎】という力学がはたらくのである。)
 だから、固有名を宗教においてもつことは、一種の知性化であり、それは、宗教本来の精神性から逸脱することということになろう。
 だから、『桃源郷』で、主要人物たちが、隠れマニを止めて、マニの名を捨てて「まことの教え」に到達したのは、宗教的見地から、本来・本質的であると考えられる。
 だから、宗教戦争とは、知性戦争なのである。特に、父権宗教は自我が強固なので、宗教戦争となるのである。
 そう、宗教から固有名を捨てて、こころ教になるのは、今日的である。それは、戦争宗教から平和宗教への進化である。


追記2:ここで、千争邪について考えると、それは、明らかに、二項対立主義である。自分は正しく、他者は間違っている。だから、自分たちの生存のために、他者から略奪したり、他者を湮滅させることは正しいということになろう。
 父権主義の極大化である。


追記3:今日の日本が息苦しいのは、上述したような、知性=悟性的自我が主導化しているからである。特に、若い世代に見受けられる。
 完全に二項対立であり、容赦がないのである。これは、知性(悟性)的自我(父権的自我)はあるが、精神・こころ的自我(母権的自我)が欠落しているということと言えよう。
 そう、唯物化である。氣・精神-霊・こころの次元・領域・世界が欠落しているのである。これは、悪魔化である。

陳舜臣 長い長い旅の話: SilverFish Files
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2008年3月23日 ... 桃源郷(上・下)/陳舜臣集英社,2001) 陳舜臣の歴史説の主人公は旅をすることが
多いが、この作品の移動距離はこれまでの最長記録ではないだろうか。 時代は12世紀
前半、新興王朝「金」が「北宋」と「遼」を滅ぼし、中国の北半分を占領 ...

桃源郷〈上〉 (集英社文庫)/集英社
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桃源郷 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/桃源郷

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創作されてから約1600年経った現在でも『桃花源記』が鑑賞されているのは、既に人々
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...

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桃源郷ってどういう意味ですか? - 国語 | 教えて!goo
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2005年8月1日 ... 桃源郷って、どういう意味ですか? 楽園、、、という意味のような気がするのですが、も
うすくし詳しく、語源も(たしか中国の話だったような気がするんですが)教えてください。
手持ちの辞書や検索で意外と見つからなかったので、桃源郷の意味、 .




有機農耕基盤新共同体社会のイメージ:小家族、独居人、子供老人、障害者、等々のマニ共同体へ
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有機農耕基盤新共同体社会のイメージ:小家族、独居人、子供老人、障害者、等々のマニ共同体へ


テーマ:新共同体・マニ共同体:減価通貨マニ


新母権共同体を唱えているが、具体的なイメージが湧かなかったが、陳舜臣氏の『桃源郷』(下)も残り、60頁強となり、そこに活写されるマニの名を捨てた「まことの信仰」による共同生活から、そのイメージが浮んだ。
 隠れマニであった夫婦あり、単独者あり、商人あり、学者あり、武人あり、等々が集まる共同生活である。
 これから、放射能汚染や貧困等の地獄社会がやってくるが、それに対抗するには、単独では無力であり、共同するのがサバイバルであると思う。血縁地縁を超えた共同体社会である。
 有機農法が基盤となるだろう。
精神的基盤は「まことの教え」、「まことの信仰」がいいだろう。
 これは、私なりに云うと、氣身体(氣身)の教えである。氣だけというより、氣身体という方が、現実的、実際的である。
 これは、特に宗教ではない。もちろん、宗教性へ展開はできるのであるが。
 氣身体の教えとは、個人を中核とする教えであり、集団主義ではない。あえて言えば、「私だけの宗教、神」であり、他の誰にも適用できないものである。
 とまれ、そのような、氣身体の個人と個人が共同する社会である。
 とまれ、出発点は、宗教を超えた「まことの教え」、「まことの信仰」である。神なき宗教である。無神論的宗教、無神論的信仰、無神論的精神・霊である。

追記:共同体というより、共同ネットワーク、あるいは、ネットワーク協同社会とでも言う方が移動性、ノマッド性があっていいだろう。

追記2:神なき宗教では不十分だ。仏教がそうだからだ。だから、神仏なき宗教・信仰・教えである。氣的身体の哲理学である。

追記3:タイトルからもわかるように、これはユートピア文学である。それにしても、作者の博覧強記には驚かされる。

追記4:共同体の営為において、通貨や銀行をどうするかである。これは、「まことの通貨」、「まことの貨幣」を使用し、「まことの銀行」、「まことの金融」を設計すべきである。
 「まこと通貨」、「まこと貨幣」は、減価貨幣がいいだろう。
蓄財させないためである。自然経済にするためである。
 そして、起業するに当たり、「まこと銀行」、「まこと金融」を活用できるようにしないといけない。
 通貨の単位はマニにしようか。1マニ、10マニ、千マニ、等々である。
 思うに、スーパー等でやっているようなポイントにすればいいだろう。1マニ・ポイント、千マニ・ポイント、1万マニ・ポイント、等々。
 これは、現行の資本主義と併存できる。現在の通貨をまこと共同体のマニ・ポイントに変換すれば、いいのだ。
 まこと共同体の成員は、そのマニ・ポイントを使用して、売買すればいいのである。マニ・ポイントをマニ・バンクに貯蓄すればいいのである。
 思うに、マニ共同体(追記:スーパー・マニぐらいでもいいかもしれない)でもいいような気がしてきた。
 マニ教というより、マニ精神、マニ智、マニ・ソフィア、マニ哲理である。
 今はざっと指摘するに留める。

追記5:考えたら、『桃源郷』では、マニ教本来の教えを説いていないのである。マニ教の教えは実に意義深いものがあるのである。いったい、このなにか排除のような省略は何なのか。

追記6:スーパー・マニ・ネットワークにおいて、マニ・ポイントは、スーパー・マニでの営業もあるし、また、現行の貨幣を獲得できるので、その点、現実的である。
 いわば、通貨両制である。マネー両制である。マニのマネー?
 マニーと言おうか。マニ・ポイント=マニーと現行通貨(マネー)の通貨両制である。


参考:
第二章 四 マニ教と薔薇十字会のクリスティアンローゼンクロイツ ? ...
blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/63365673.html