二神のアマテラス:『日本書紀』に日本民族の秘密が:『聖書』とホメ

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二神のアマテラス:『日本書紀』に日本民族の秘密が:『聖書』とホメロス叙事詩と並ぶだろう


テーマ:『日本書紀』解読:日本民族の根源書


今や、『日本書紀』に魅せられ、虜になっている(今風に言えば、ハマっている)。
 とまれ、主観的な修辞は止めて、端的に、真夜中過ぎに思いついたことを備忘録しよう。
 イザナキノミコト(伊弉諾尊)とイザナミノミコト(伊弉冉尊)は、創造する対極的根源神である。そして、彼らは、天神族(以下、天族)に属する。
 しかしながら、私は先に、イザナキを父権民族、イザナミを母権民族に配した。
 こう定置することは、実は、視点(パースペクティブ)の革命なのである。
 天族を実は、異質な二つのものに分化するからである。これは、いわば、脱構築である。
 つまり、天族は、地族とは本来別である。しかし、イザナキを父権民族、イザナミを母権民族とすることは、天族を天族と地族に分化することであり、天族はその時点で解体しているのである。
 つまり、天族はフィクションなのである。
 また、冥界から帰還したイザナキは、「みそぎ」によって多様な神々を生むが、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲも生み出すのである。(追記:この箇所を引用する。「〔主語はイザナキである〕 然(しかう)して後に、左の眼を洗ひたまふ。因(よ)りて生める神を、号(なづ)けて天照大神(あまてらすおほみかみ)と曰(まう)す。復(また)右の眼を洗ひたまふ。因りて生める神を、号けて月読尊(つくよみのみこと)と曰す。復鼻(みはな)を洗ひたまふ。因りて生める神を、号けて素戔鳴尊(すさのをのみこと)と曰す。『日本書紀』(第1巻)48頁)
 しかしながら、ジョーゼフ・キャンベル的神話的解釈では、この神を産み出す、イザナキは、実は、母神的なのである。つまり、この場合、イザナミ的要素を帯びているということである。
 とまれ、天族と地族の結合によって、神々が誕生すると言えよう。
 問題は、アマテラスである。
 アマテラスは天族の主宰神である。しかるに、実は、地族的なものを背景にしているのである。
 とまれ、アマテラスは天族の代表、つまり、父権民族の代表の神である。これが、私の考える父権的天皇に通じるのである。
 しかるに、母権的天皇はどう考えたらいいのだろうか。
 その前に整理すると、PS陰陽哲理学から見ると、凹i=陰に当たるのは、イザナミであり、凸i=陽に当たるのはイザナキである。
 そして、両者の結合からある造化が起るのである。
 PS陰陽方程式凹i*凸i⇒±1から見ると、⇒+1は光であり、⇒−1が重力である。



        陽凸i
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地−1___________MP_______________天+1
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        陰凹i

     
      陰陽ガウス平面

 
だから、太陽は⇒+1と関係する。そして、大地は⇒−1と関係する。私見では、前者は陰主導であり、後者は陽主導である。
 そして、前者は母権主義であり、後者は父権主義である。
 だから、天族的アマテラスは後者であると思うのである。
 そして、地族的アマテラスは前者である。地族=母権的アマテラスとは、いわば、陰主導の太陽である。
 それは、陰陽ガウス平面のMP=原点=交点に存するのである。(追記:この点は以下の考察から否定される。)
 『日本書紀』の天族・父権的アマテラスではない、地族・母権的アマテラスは『日本書紀』の何なのだろうか。
 今、思いつきで留めるが、それは、国生みの説話以後の山川草木、月日などを産む説話にある「日の神」、「大日孁貴(オオヒルメノムチ)」ではないだろうか。それは一書では、天照大神と、ある一書では、天照大日孁尊(アマテラスオオヒルメノミコト)と呼んでいる。
 しかし、私はこの「日の神」、「大日孁貴」、こそ、地族・母権的アマテラスだと思う。
 そして、これが、母権的天皇制に通じると思うのである。
 本文を引用したい。


《既にして、伊弉諾尊(イザナキノミコト)・伊弉冉尊イザナミノミコト)、共に議(はか)りて、曰(のたま)はく、
「我已(われすで)に大八洲国(オオヤシマノクニ)及び山川草木(ヤマカワクサキ)を生めリ。何(いかに)ぞ天下(あめした)の主者(きみたるもの)を生まざらむ」とのたまふ。是(ここ)に、共に日の神を生みまつります。大日孁貴(オオヒルメノムチ)と号(まう)す。・・・ 一書に云はく、天照大神といふ。一書云はく、天照大日孁尊といふ。此の子、光華明彩(ひかりうるは)しくして、六合(くに)の内に照り徹る。故(かれ)、二(ふたはしら)の神喜びて曰(のたま)はく、「吾が息(こ)多(さわ)あれと雖(いへど)も、未だ若此霊(かくくしび)に異(あや)しき児有らず。久しく此の国に留めてまつるべからず。自づから当(まさ)に早(すみやか)に天(あめ)に送(おくりまつ)りて、授(さづ)くるに天上(あめ)の事を以(も)てすべし」とのたまふ。》 『日本書紀』(第1巻)34頁


(追記:この箇所の「日の神」、大日孁貴(オオヒルメノムチ)である「アマテラス」がある一方、上記(上述の青色の追記を参照)にあるように、明らかに、イザナギの居る黄泉の国から帰還して、穢れを濯ぐイザナキの身体から、ツクヨミ、スサノヲとともに「アマテラス」が生まれるのである。
 この二つの事柄は明らかに矛盾である。一方において、イザナキとイザナミが協力して、「天照大神」である「日の神」、大日孁貴を生んでいるのに対して、他方では、イザナキの「ミソギ」によって、「天照大神」が生まれているのである。)


さて、最後に陰陽ガウス平面を本文に合わせて変形すると、以下のようになる。


            陽凸i(イザナキ)
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               |
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父権天照−1______________MP_____________日の神+1(母権天照)
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               |
            陰凹i(イザナミ

        
         陰陽ガウス平面(『日本書紀』版)


追記:思うに、本当のアマテラスは、霊的アマテラスでなくてはならないだろう。しかし、『日本書紀』のアマテラスは霊的というよりも、物質的な太陽光である。
 しかし、日の神、大日孁貴は、霊的意味合いが感じられるのである。
 思うに、征服民族である父権民族は、霊的太陽であるアマテラスを利用して、父権的太陽=物質的太陽としてのアマテラス像を構築したのではなかったろうか。
 それは、権力的太陽神像である。


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5つ星のうち 4.0 なぜ神話は広範に日本をカバーしているのでしょう, 2007/10/5
投稿者
DJ LINDSAY (山口県周南市) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: 日本書紀〈1〉 (岩波文庫) (文庫)
 日本書紀にはなぞがいくらかあります。日本の国生み神話が、島を生むこと自体大陸を意識しています。そこでまずスサノオがなぜ出雲に降り立ったのか、ヤマト中心の世界観とは反します。出雲に一大勢力があったことが神話上証明されたことになるのではないでしょうか。神無月には神々が出雲に集まります。
 天孫降臨はなぜ高千穂なんでしょう。天岩戸も高千穂にあるとされています。九州が神話に取り込まれています。九州にも勢力があったのでしょう。神武天皇の日向の国からヤマトへの東征は何を表しているのでしょうか。ヤマトが日本という国、日本という国号自体音読みで、訓読みに直せばヒノモトですが、これ自体、中国、朝鮮を意識した名称なんですが、を統合する過程を表しているのではないでしょうか。古事記ではヤタガラスが天つ神を導いて国つ神に引き合わせるという場面がありますが、なぜからすなんでしょう。そういう日本の国の成り立ちを神話から想像すること自体楽しいのではないでしょうか。
 途中で突然海幸彦と山幸彦の逸話が出てきますが、古事記日本書紀が日本に伝わる数々の神話を集めたものであることがわかるのではないでしょうか。
 日本書紀は聖書のように、天孫降臨、天岩戸の高千穂とか、スサノオの八岐大蛇の出雲とか、神武東征の日向、ヤマトとか大まかな地域名は出てきますが、もっと細かい具体的な地名は出てきません。かなり曖昧です。その辺が解釈の分かれる元でしょう。 。