氣的心身宇宙主義(植物ー人間連合体)と唯物論(動物ー人間連合体)

氣的心身宇宙主義(植物ー人間連合体)と唯物論(動物ー人間連合体):母権個的共同体と父権自我的国家


(植物ー人間連合と動物ー人間連合:氣的身体理性と唯物論


ブログが調子悪いので、以下の追記をここに記す。
 植物ー人間連合とは、プラトンの『パイドロス』の白い馬と御者の連合、動物ー人間連合は黒い馬と御者の連合にほぼ相応するだろう。
 あるいは、前者は氣的精神調和主義であり、後者は唯物論である。新母権主義と父権主義でもあろう。
 精神と肉体の分裂は明確には、ルネサンスで生じたものである。この心身亀裂はずっと今日は続いているのであるが、唯物論が勝利しているので、動物ー人間連合が主導的である。
 しかしながら、今日、植物ー人間連合が台頭しているのである。
 後者の哲学が、大雑把に言えば、以下で述べたようなものである。
 一般に、植物的自然と動物的自然が未分化混沌様態にあるので、認識されにくいのである。
 しかし、氣の美感、快感、清浄感を中心にして、身体と知性をはたらかせると、動物的欲望は浄化されて、緑化されるのである。
 つまり、氣の美感、快感、清浄感は、植物的生命の陰陽調和に通じているのであり、動物的欲望を氣に接続することで、それが、植物的調和へと変容されるのである。
 性欲は、私見では、氣的美感(氣美感)を介して、主に、例えば、審美的エネルギーに変容するのである。
 思うに、それは、真善美のエネルギー、イデア的エネルギーに変容するのである。プラトン的エネルギーとも言えよう。それは、当然、創造的である。また、健康的であるとも思う。
 思うに、動物ー人間連合は、陽に傾斜しているので、陰陽バランスを崩すのであり、それは、反健康的と考えられる。というか、反生命的である。
 今はここで留める。


悟り:欲望と心の闘い:欲望を氣によって緑化することで、獣欲は止揚浄化される:処女受精


テーマ:二つの自然:植物と動物:氣と獣欲・煩悩


性欲が動物的なものであるとするなら、処女妊娠・処女生殖とは何か。
 それは、結局、植物の心の「受胎」というか、受精である。そう、処女受精である。
 今は一言言うに留めるが、欲望、性欲を氣の快感によって、変容させると、植物の生命が勝利するのである。
 欲望、性欲は動物と人間の結合に拠るだろう。
 しかし、氣的快感に基づくことで、動物人間連合が打破され、植物人間連合が生まれるのである。
 都市に対する田園の勝利でもある。
 とまれ、これは悟り、ポスト西洋/新東洋の悟りなのである。






量子論唯物論と氣論の境界だろう:量子は氣の影である


テーマ:唯物科学から物質包摂の氣サイエンスへ


現代科学は、現象の単位(「アトム」)を求め、量子、素粒子に達した。しかし、それは、波動と粒子の二つの対立した性質をもつものである。
 ここで、常識的な物質観は崩壊したのである。しかし、現代科学はめげずに、これが物質の性質として、理論化を続けているのであるが、未だに、統一像はできないのである。
 しかし、波動と粒子の二重像であるが、実は、何度も述べているが、これを氣の物質的観測における像と見ればわかりやすくなると思うのである。
 氣は陰陽でいわば振動しているのであり、同時に、一(いつ)である。つまり、波動であり、一(いつ)である。後者が粒子として記録、観測されると見ればいいのである。
 ということで、量子論は既に、物質ではなく、気の領域に入っていると思うのである。ただ、氣を物質的に観測しているに過ぎないと思われるのである。
 物質を作っているのは、氣であると認めてしまえば、実に、科学は明確、明快になると思われるのである。
 今は指摘のみ。


追記:量子、素粒子に倣えば、氣子、氣粒子、あるいは、気素とも呼べる。
 ところで、先に触れたように、氣は事、事象と関係すると思う。物はその後に発生すると思うのである。
 だから、氣事体、氣事子、氣事素、氣事粒子、等々と呼べよう。


追記2:氣論は氣事力論になるだろう。そう、氣とは、氣事力なのである。陽とは氣事陽(事陽)、陰とは氣事陰(事陰)となる。
 MP1(虚軸上原点)において、陰陽対極=氣=一があり、MP2(実軸上原点)において、おそらく、物質的な極性が生起する。即ち、±、NとS。
 しかし、MP1に陰陽だから、MP2には、NとSの磁極ができるのではないだろうか。その後、±の電極ができるのではないろうか。つまり、陰陽→磁極→電極である。
 磁極も電極もMP2で発生すると思う。