耳のある者は聴くがいい:外国語の憶え方を発見する!:反芻咀嚼リズ

耳のある者は聴くがいい:外国語の憶え方を発見する!:反芻咀嚼リズム記憶法:氣憶術伝授


テーマ:日本復活の新福音:吉祥、朗報、吉報


今日も1時間半ほど、森氣欲歩動を行う。ボランティアの小道掃除もいつものように行う。季節的に気持ちがよい気温である。
 森の小道に脇に作ってある、丸太を置いた小さな休憩場所があり、そこで、語学書を取り出して、学習を続けた。
 同じテキストをもう四度くらいになると思うが、使用している。なかなか語学学習の時間が取れないが、できるだけ暇を見て、行うことにしている。
 先ず、前置きとして、昨日の食事について述べよう。これが、語学新学習法に繋がるのであるから。
 パワースポットと思われるスーパーで半額で買った胡桃パンであるが、一袋三つ入っている。
 先に食べ過ぎかと思ったが、一食で三つとも食べてしまった。
 昨日、森の中で、咀嚼して、一口最低50回噛んで食べた。そうしたら、二つで済み、一つ残ったのである(今、それを食べたところだが)。
 小食にもなり、吸収にもいい。
 ところで、本題だが、なかなか憶えられずに、なんとかいい憶えられる方法はないかと考えた。
 そこで、ふと、咀嚼・反芻食事を思い出し、五十回音読すれば、定着するのではないかと思って、実際やってみたのである。
 左手で、指を折って、音読数を数えたのである。五十回、少し退屈かもしれないが、すぐである。
 その結果は、記憶にかなり残ることが判明した。
これだと思った! エウレカ!である。
 五十回咀嚼するのをヒントに五十回同じ語句を音読するのである。
 そうすると、リズムのようなものも出来てくるのである。
 そう、音楽、リズム、ビートが関係してくるのである。
 理論的に考えると、陰陽氣は陰と陽で共振する、いわば、波である。そう、氣波と呼んでおこう。
 つまり、氣波は、陰と陽の共振によるリズムをもっている。そこへ、音読の律動が刻まれると思う。つまり、氣波に音読の言葉を刻むのである。すると、言葉は氣波に刻印されて、結局、記憶されると思うのである。そう、記憶は氣憶であると思う。氣は心、精神、魂、霊である。
 氣波という心に、言葉を刻むことで、氣波心は記憶をすると思われる。
 そう、敷延すると、氣は多面的な作用をもっていると思う。知性、理性、感性、徳性、霊性等を陶冶、涵養するには、氣のもつ記憶性にはたらきかける必要があると思う。
 氣は先に述べたように、精神と肉体をつなぐ霊的メディアである。それは、精神と生命体の中核であると考えられる。
 とまれ、是非、試(験)されたい。咀嚼、反芻という方法は、存在の本質的な作用をもっていると思う。
 日本人が劣化・退化したのは、咀嚼・反芻術を忘れたからではないか。
 私が中学生の頃は英語学習は反復練習をNHKの続基礎英語で行っていたものである。私は英語をそのようにして学んだ。
 私は反復という言葉は好きではなく、繰り返しという言葉を好む。しかし、今度発見して、咀嚼・反芻記憶術は、単なる繰り返しではない。
 繰り返しでは、抽象的である。咀嚼・反芻術は、最低50回の咀嚼・反芻を要求しているのであり、具体・実践的である。
 日本人は語学に関しては、日本語によるハンディがあるので、語学学習には、日本人にあった創意工夫が必要なのである。
 考えれば、念仏も咀嚼・反芻術を活用していると思う。
 また、読書百遍その義自ずから現るともいう。
 すべては同じ原理だと思う。つまり、氣の原理である。
 陰陽のもつ氣波界に、咀嚼・反芻することで、智を刻むのである。これは、『かく』ということでもあると思う。視覚的であれ、聴覚的であれ、『かく』という行為だと思う。あるいは、美術的に言えば、彫刻の原理である。あるいは、版画の原理である。
 思えば、ポスト・モダンでデリダ脱構築主義が流行ったが、彼は、エクリチュール(書記)がパロル(話語)より先行するという、意表をつく提言をしたが、以上の視点から言えば、それは、『かく』という原理から見れば、評価できるのである。ただし、それを文字に限定するのは誤りである。文字は当然であるが、話語も聴覚的に『かく』に通じると考えられるのであるから。
 そう、氣のキャンバスに、繰り返し『かく』ということである。


氣は偉大である。


尊氣、愛氣、養氣、培氣、育氣が必要である。