西日本が日本を変える?:西日本は母権的で、東日本は父権的?:西日

西日本が日本を変える?:西日本は母権的で、東日本は父権的?:西日本の母権的地霊とスピリット


テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史


私はちょうど20年前頃に、奈良への旅行や九州旅行をした。
 奈良は日本でいちばん好きな場所である。また、九州も好きである。宮崎と鹿児島が好きである。特に、霧島高原は好きである。
 私はそれまで、信州が好きで、あちこち行ったし、また、東北や北海道にも行った。
 しかし、私が魅かれるのは、西日本である。これは感性、感受性の問題である。西日本の人間は、柔らかな感性があると思う。どうも母権的と呼びたいのである。それに対して、関東の人間は父権的と感じられる。
 そして、今、ポスト311の時代である。放射能が東日本を汚染しているのである。
 それと精神風景を考えると、どうやら新しい日本は西日本が創るようである。
 そう、奈良に魅かれることについて述べよう。大阪のベッドタウンとして、痛ましく開発されている奈良盆地であるが、やはり、古代の雰囲気が未だに残っているのがいい。奈良盆地の気が円かでいいのである。しなやかである。気持ちが安らかになるのである。
 それはいいだろう。それより、私にとって再生の地となったことを述べておこう。
 私の精神史の問題であるが、いわば複雑怪奇で説明するのが難しいので、ポイントだけ述べる。
 私は関東の精神的空気、というか、東京の精神的空気をひどく息苦しく感じていたのである。そう、今でも、東京、関東の精神的空気を抑圧的であると感じるが、20年前はそれをとても苦痛に感じたのである。
 有り体に言えば、周囲の人間と私の精神のあり方の違いを痛感していたのであり、そのため、孤立していたのであり、どうにも息苦しく、奈良へ、関西圏へと逃げ出したという感じである。
 そう、新幹線で名古屋まで行き、そして、近鉄に乗り換えて、奈良へ向ったときの車内の柔らかな精神的空気に自由に息ができ、ほっと安堵し、救われたものである。それほど、当時は、感受性が敏感になっていたのである。そう、病的と言えるほど、敏感になっていたのである。(その原因は身体的なものであるのが、後で分かったのであるが。)
 当時は、新宗教ブームであり、奈良の某神社のある地へと数回足を運んだものである。そのとき、確かに不思議な体験をしたことはしたのであるが。(それはあまりに主観的なので、述べても通じないだろうから、言わない。)
 とまれ、その奥吉野のさらに南の奈良の地で、私は喫茶店に居て、当地の人のあたたかな、やわらかな声を聞き、ほっと深く安堵したのである。私の心、魂に安らかに響く声を聞いたのである。あるいは、宿泊した民宿の女主人の真摯な態度にやすらぎを感じたのである。(そう、奈良盆地の旅館の女主人の態度にも安堵した。)
 そう、私は私の心、魂と通じる人たちをその奈良の地に見つけたのである。私の心は癒されたのである。東京の違和感のある精神的空気に苦痛を感じていた私の心は癒されたのである。
 私は心の支えを見出して、私の精神的態度が間違っていないことを確認したのである。
 とまれ、その後、いろいろなことが起きたが、奈良の地での、心の確認は残っていると言えよう。
 結局、今、哲学的に言えることは、西日本には、母権的精神が残っていることである。魂、心が残っていることである。関東、東京の父権的な利己主義とは異なる、日本本来の母権的精神が残っていると思われるのである。
 今年6月に小倉に出張したが、精神的空気に感動したのである。九州の地霊とでも言うのか、それは、母権的と思われるのである。
 今日の狂った日本を蘇らせるのは、西日本の母権的地霊、精神であると思われるのである。 



太陰から陽へ、陽から物質への生成力学


テーマ:不連続太陰イデア論:無双太陰原理


最近は余裕がないし、当分余裕がないので、哲学的科学的考察ができない。
 一言本件について述べよう。
 太陰を中心点とし、陽を円(円周)ないし球(球面)とするのが、今の仮説である。
 そして、陽から物質が生まれるのである。
 これまでは陰陽共振から螺旋生命物質体が生じると考えたが、今はどう考えるのか。
 直観では、陽は物質性を帯びるのである。陽を光(太陽光)とすると、それは、物質的外面を帯びるのである。
 この陽と物質との連関がまだあいまいそのものである。
 作業仮説であるが、円周において、内側と外側を分けてみる。
 内側が陽であり、外側が物質である。
 そう、円を気円とする。これが、原子モデルである。
 とまれ、陽が同一性化し、物質になるとそれは、プラスである。そして、同時に、マイナスが極性として生起する。
 ここでは、電子を考えている。
 プラスは陽子で、マイナスが電子ということかもしれない。
 ならば、原子モデルは円周で形成されるということになる。正確に言えば、円周の外側に原子があり、内側は陽である。そして、中心点は太陰である。
 言い換えると、気円(中心点が太陰で、円周内側が陽)の外側に原子が考えられるということである。つまり、気円の外側が物質であり、内側は気であるということである。そして、気に霊を含めていいのではないだろうか。
 今は問題提起に留める。


追記:円周の外側、内側という言い方はわかりにくい。
 仮に3本、線を書く。


外側________
境界________
内側________


以上、3本は実際は一本の円周であるが、便宜的に、3本に分けてある。
 外側に原子が存し、境界を隔てて、内側に陽、そして、中心点に太陰が存するという概念である。
 境界はいわば、スピリットと物質の境界である。これをどう捉えるのか。以前、MP(メディア・ポイント)という考え方をしたが、これは、ポイントではない。ラインである。
 後で検討したい。


追記2:追記で、ラインの境界を提起したが、果たして、それが必要なのか。一元論なので、不要なようなに思えるのである。