太陰と陽と自我の連関の考察:原初母権的太陰ー陽自我識と極大陽父権
太陰と陽と自我の連関の考察:原初母権的太陰ー陽自我識と極大陽父権超越性ー全体自我識
テーマ:不連続的無双太陰ヴィデア論:新陰陽論
先に以下のように問題提起した。
太陰は全体の面と一の面があり、一の面が陽と結んで、自我・超陽となるのではないのか。(太陰の二面性:全体の相と一の相:多神教と一神教:初めに、太個ありき
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11560750193.html)
この問いかけは、それまでの不連続陰陽イデア論(この呼び方がいちばん明快であろう)における自我・超陽の発生の考え方とは別のものである。
つまり、それまでは、陽の極大的なものを超陽として、それが自我となると考えたのである。
それに対して、先の、上記の考えは、太陰自体に自我の根源があるというものである。
この問題は、不連続陰陽イデア論にとって、根本的なものであり、精緻厳密な検討が必要である。
陰陽性について、復習すると、陰が中心であり、陽が円周、あるいは、球面である。当然、陰は闇であり、陽は光である。
しかし、主体は陰、つまり、太陰である。陽はその展開、周縁である。ウィリアム・ブレイクの言葉では、circumferenceである。言い換えると、陰主陽従である。
とまれ、陰から陽が生まれるのであり、陰の「意識」と陽の「意識」は区別される。
つまり、陽の「意識」(陽識と言おう)は、現象意識であり、物質的意識となる。それは、根源の陰の「意識」(陰識ないし太陰識と呼ぼう)を感じるが、認識することはできないと考えられる。
太陰から陽が生まれるのであるから、陽はなんらか根源の太陰との結びつきを感じるはずであるが、陽自体は太陰の一部であるから、十全には、太陰を認識できないと考えられる。
とまれ、初期における太陰識ー陽識においては、中心性は太陰識にあり、陽識は従属的である。これを原初的母権識と呼ぶことができよう。
この太陰識ー陽識において、自我とは陽識と考えられ、それは、当然、太陰識とは未分化様態にあると考えられる。つまり、自我はまだ、自立・独立していないのである。
さて、そのような視点から、先に、太陰の一(いつ)の面が陽と結合して自我・超陽となると述べたことを考えると、どうなるだろうか。
私は陽ないし陽識において、同一性ないし同一性識が存すると考えている。
思うに、先に、太陰に全体の面と一の面の両面があると述べたが、基本は太一性、全一性である。全体と一とが一体となっているのが基本様態である。だから、全体の面と一の面の両面に分けるのは、二元論であり、間違いのように思える。根源的太一性・全一性を確認する必要がある。
この太陰性に対して、陽・陽識であるが、それは、個体的一性を志向するのではないだろうか。円周ないし球面であり、それは、根源・中心の太一・全一性と対比的である。
では、陽・陽識の個体的一性であるが、それが自我ということになるが、それでいいのだろうか。
直観では、陽識には、太陰識が作用しているのであり、そこに自我識が生じるように感じられるのである。
つまり、個体的一性である陽識と太一・全一性である太陰識・陰識との結びつきにおいて、自我が生起するように思えるのである。
言い換えると、自我とは、二つの極の間に生起する、いわば、実存態ということになる。
宗教的に言えば、神と個体の両極実存態である自我ということである。
この太陰・太一・全一と個体的同一性との両極実存態としての自我は現時点で確認すべき点である。
そのように自我を捉え直した上で、父権化、近代的自我化の問題を考察すべきである。
その前に、もう一点確認すべきことがある。それは、原初的母権識においては、自我とは、あくまで、根源の太陰・太一・全一性に服している、従属しているという点である。自我は根源(「神」)から独立していないということである。
即ち、太陰と個体との両極態としての自我、太陰に従属するものとしての自我、原初的自我識をもつ原初的母権識を踏まえた上で、父権化、近代的自我の意味を考察することができると言えるのである。
父権化は明らかに、原初的母権識からの独立として見ることができる。
これは、原初的自我識が太陰・太一・全一に従属していることから脱して、自我識が主体的になることを意味すると考えられる。つまり、自我識が主となり、太陰・太一・全一識が従となる事態であり、さらに前者が後者を支配・破壊する事態を意味すると考えられる。
つまり、自我識が支配的、独裁的になり、原初的母権識を破壊する志向をもつということになる。これは父権的自我識の誕生と見ることができる。
では、その力学はいかなるものなのだろうか。この問題を先鋭化すれば、それは、一神教の誕生の力学の問題である。あるいは、父権神の誕生の力学の問題である。又は、端的に、「父」の誕生の問題である。
原初的母権識において、根源は「母」であり、陽は「子」である。母主子従の世界である。
その世界とは異質な「父」とは何であろうか。
これまでの考え方、単純な考え方によれば、陽の極大化という力学が原因で「父」が誕生したことになる。
そう、陽の極大化とは、精神と物質の二元論の発生と同期であると考えられる。
つまり、陽極大化とは、まったき陽の事象が生起するのであり、根源の太陰が隠れることになるのである。その結果、極大陽識は自己を「精神」とし、そして、外界現象を「物質」と見ることになるのである。
しかしながら、時間的に、原初的母権識は当然、存続しているのであり、それに対して、新しい極大陽の父権自我識はそれを否定すべく攻撃し、破壊しようとするのである。
何故、父権自我識が原初母権識を攻撃するのかと言えば、前者にとり、後者は理解不可能であり、あってはならないものだからである。言い換えると、前者にとり、後者は悪、邪悪なものであり、当然、否定され、破壊消滅されるべきものである。
そう、ここに西洋文明の広義の東洋文明に対する攻撃・破壊・支配性が生じるのである。植民地主義、帝国主義はここから生まれるのである。
聖ゲオルギウスの龍退治とは、これを象徴したものと言えよう。(龍とは、太陰・太一・全一、原初的母権識を意味しよう。)
もう少し、極大陽の父権自我識について述べる必要がある。問題は、超越神の力学である。
いったい、その超越性はどこから生まれるのだろうか。思うに、極大陽=父権自我識であるが、それは、根源の太陰・太一・全一から切り離され、分離独立する。
その父権自我識が形成される以前は自我識(母権的自我識)は、内在超越的に太陰と接続していた。しかし、父権自我識において、そのような内在超越的繋がりは消えている。そう、いわば、根源との絶対的分離が成立するのではないか。
つまり、原初母権識とその自我識は全体識をもっていた。しかし、そのような全体識が父権自我識においては消えるのであるが、思うに、消えた太陰・太一・全一性であるが、それが、父権自我識にとって、超越性、超越神として、捉えられるのではないのか。
言い換えると、母権識においては、内在超越である太陰と自我識との「繋がり」(臍の緒)があったが、父権自我識において、それが切断され、太陰は、超越性、超越神として、感知されるということではないのか。
感知という言葉は適切ではないかもしれない。暗示されるが適切ではないだろうか。
とまれ、父権自我識とは絶対分離した超越した「父」が考えられることになると考えられる。
さて、次に、近代的自我識を考えると、それは、父権自我識の知性、自我知性の徹底化と考えることができよう。
これは同一性主義であるから、物質知性でもある。
そして、自然科学、唯物論的科学・技術が誕生する。これが、資本主義と関係して、近現代世界を形成するのである。
とまれ、この父権自我識である近代的自我識について、明確にする必要がある。というか、父権自我識の力学について明確化する必要がある。何故なら、近代自我識はその延長にあると考えられるからである。
問題は、超越性と父権自我識との関係なのである。
極大陽が形成されるとき、太陰がまったく消失して、まったく陽事象となる。それは、陽が全体であるということでもあるだろう。言い換えると、父権自我識が全体であるということになろう。つまり、父権自我中心主義が誕生するのである。これは、当然、自己中心主義的であり、いわば、パラノイア的である。(今日、現代の日本人はこのような意識に染まっていると思える。)
では、超越性(超越神、ヤハウェ)とこの全体的父権自我識との関係はどうなるのか。
もう一度、陽の極大化について考えると、それ以前は、太陰と陽自我との母権様態があり、太陰は陽自我にとっては内在超越的存在であり、それは、感知できるものであった。あるいは、繋がりのあるものであった。
しかるに、陽が極大化すると、その内在超越的繋がりは消失して、太陰が失われる。
では、消失した太陰の換わりに何が生じるのか。
思うに、消失した太陰の換わりに、超越神、超越性が発生するのではないだろうか。思うに、内在超越性から、外在超越性へと転換するように思われるのである。かつては、神聖は内在超越t的であったが、今や、外在超越的になったのである。この外在超越性がいわゆる超越性である。超越神がそのようなものである。
ということで、全体的父権自我と外在超越性とのセットができあがることになると考えられるのである。
思うに、資本主義の原動力はこの外在超越性ー全体父権自我識のセットにあるとある思われるのである。これは、いわば、宗教的、且つ、自己中心的であるから、悪魔的に強力であると言えよう。
とまれ、以上で、本件の問題を解明したと考えられる。つまり、太陰と陽と自我との関係力学を明晰にしたと考えられるので、ここで了える。