新東洋文明の曙光:近代合理主義(科学主義)は太一=気=陰=肚を憎

新東洋文明の曙光:近代合理主義(科学主義)は太一=気=陰=肚を憎悪し否定し抹殺することを欲する


テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス


自我は、近代的自我は、陽、正確に言うと、超陽であるが、それは、陰、超陰を否定する。ここに近代合理主義=科学主義の悪意があるのである。
 この公式は当然、デカルトのコギト・エルゴ・スム(我思う故に我在り)である。コギトは正に、自我(=陽、超陽)の思考であり、主体自体の思考ではないのである。自我によって排除されたものが、陰、超陰であり、太一=気=肚である。言い換えると、東洋的精神が否定されたのである。西洋文明が内在していた東洋的精神が否定されたのであり、西洋はいわば、超西洋となったのである。だから、近代西洋とそれまでの西洋とは異質である。
 以上のことを日本に当てはめると、明治日本は確かに、近代西洋文明の大影響をもったが、まだ、東洋的精神は残っていた。しかるに、敗戦後、米国の植民地的支配によって、日本は近代合理主義の影響下にあり、東洋的精神をまったく喪失していったのであった(私見)。
 日本において東洋的精神は肚の精神である。これは例えば、禅文化には存しているし、他の武道においてもそうである。しかし、敗戦後の米国経由の近代西洋文明の「洗脳」によって、東洋的精神は排除されていったのである。
 具体的には、教育の領域である。東洋文明教育は否定されて、頭の、自我中心の教育が為され、身体教育、正確に言えば、内身体教育、内身体、主体的、内界的教育はほとんど為されなかったのである。
 ここで少し飛躍的になるが、実は、1960年代、70年代の洋楽ポップスは実は東洋的精神的であると考えられるのである。頭ではなく、肚や胸をベースにした音楽が誕生したのである。クラシック音楽の自壊の状況において、ポップスにおいて、東洋的精神が萌芽したのである。(もっとも、その後、金もうけ主義の音楽業界によって、潰されたが。今はYouTubeで復活している。)
 現代日本の狂気であるが、これは、近代西洋文明に存しているが、その受け皿として、日本父権主義があったと考えている。
 つまり、日本父権主義が近代西洋文明を受容して、徹底して、太一=陰=気=肚の東洋文明を否定して、日本文化をも否定する結果になり、それで日本社会は狂気状況になっていると考えられる。
 言い換えると、日本母権文化、陰文化を否定する日本父権主義=陽文化が近代西洋文明と結びつき、陰を否定し、狂気状態になっているのである。
 ここで、一般的に、どうして陰文化、母権文化、東洋文明を否定するのか考えてみると、それは簡単なのである。
 実は、陰文化とは、神秘文化、ロマン主義文化、オカルト文化、霊性文化等であり、自我=陽・超陽のもつ合理主義はそれに嫌悪・憎悪をもつのであり、それ故に否定・排除したいのである。
 神話学的に見ると、母権神話から父権神話へと移行したが、その時、母なる神、大女神・大母神が殺戮されて、男性神が中心化するのであるが、ここに神秘から合理への移行が表現されていると見られるのである。
 これは、自我的合理主義=科学主義を出現させるための必要悪であったと言えよう。
 しかし、今や、それも行き着く果てに行き着いた。
 今や新たに母権主義が勃興するときである。否定された神秘が目覚める時代になったのである。
 光の恐れた闇の復活する時代なのである。
 陰宇宙、陰世界・陰界、陰全体の時代になったのである。ポスト近代西洋文明、新東洋=母権文明の時代である。
 最後に一言、先に、宗教の光について述べたが、これまでの論から、陰から陽、闇から光が生まれるのであり、真理のメタファーは本当は陰=闇にならないといけないはずである。
 しかし、元陰=太一から陽が生まれ、陰陽分極、陰陽共振を一つの「光」と見れば、光をメタファーにするのは、間違いではないだろう。
 しかし、陰陽分極、陰陽共振の「光」とは、陽光のような昼光ではない。それは、いわば、薄明である。あるいは、心の光のようなものである。内界の光である。
 そのような意味で宗教において、光をメタファーにするのは理解できることである。
 二言目になるが、結局、陰世界を記述する論理、言語、知はどのようなものなのかが問題である。
 科学は陽の論理、言語、知性に拠る。数学はそのような代表である。
 しかし、陰世界はどのように表記するのか。
 シュタイナーは霊学を説いた。言葉は一般に陽の世界に属するのであるから、陰の世界の表現には本来向いていない。
 思うに、音楽を初めとする芸術が向いているだろう。
 そう、大問題は科学との関係である。先に触れたように、陰の主体全体学において、科学はその物質論を占めることになるだろう。


追記:陰世界、太一世界、陰陽世界は、なんらか知的に記述できるはずである。もっとも、これまで、陰陽円、陰陽渦巻、陽の同一性、螺旋生命物質体等というように理論化はしてきたのである。


追記2:以下に、陰世界の知的記述の試みがある。
不連続的陰陽ヴィデア論:陰陽ヴィデアリズム:太一⇒陰陽分極(陰陽円)⇒陰陽共振⇒生命螺旋宇宙 (05/19)
http://sophiology.jugem.jp/?eid=277


1)イデアであるが、それは、想像的映像でもあるので、イデア+ヴィデオ=ヴィデアと呼ぶのがいいだろう。プラトンはエイドス(映像的類型)とも呼んでいた。
 だから、不連続的陰陽イデア論は、不連続的陰陽ヴィデア論となる。イデア論がヴィデア論である。


参考:
イデア - Wikipedia
イデア論 - Wikipedia
エイドス - Wikipedia
形相 - Wikipedia


2)太一(太極)は陰と通じている。陰に太一が存するように感じられる。この陰とは別に陽が分極化するということではないのか。
 陽が陰へと回帰するときが、現象化ではないだろうか。
 まだ、十分洞察できていない。
 太一が陰に内在する。陰を原点とすると、原点の周囲に陽が形成されるのだろうか。点というより、円を考えるべきか。
 陰が中心で、円が生じる。その円周が陽ということか。次のような生成図式を考えてみる。


 0(ゼロ):太一⇒①陰陽円(陰が中心点で、陽が円周?)⇒②陰陽共振⇒③生命螺旋現象


①が陰陽分極様態である。陰陽円が形成されている。その中心は陰であり、円周が陽ということである。陰陽分極であり、離反の力がはたらいていると考えられる。
 それから、牽引の力がはたらいて、陰陽が共振するようになる。そして、このとき、次元転換が生じると考えるのである。
 空間的に言えば、陰陽円の平面に直交する軸が生じるのである。それが、時間ー物質ー光の軸(一次元)ではないだろうか。
 そして、空間三次元であるが、それは、四元(しげん)数の三つの虚数i、j、kの軸によって形成されるということではないだろうか。この点は検討課題である。


追記:陰陽円と原子との関係に触れるべきである。また、陰陽円の中心とMP(メディア・ポイント)について考察すべきである。


3)哲学と数学との関係について:
 私は数学はずぶの素人であるから、数学主導で理論化することは、問題外であるが、主体力学から理論を導くのであるから、数学主導ではなく、哲学主導、ないし、哲学的科学主導で考察するのが本来だと思われる。数学主導にすると、哲学的考察が後回しにされて、数学の形式に引きずられてしまうと考えられる。先ず、哲学的考察(ヴィデア的考察)を行い、それに数学を適用するのが的確だと思われるのである。
なんでも哲学する:不連続的陰陽ヴィデア(イデア=エイドス)と日本心的革命宣言