現代日本人は唯物主義者ではなく、唯物教信者である:森は気(「神」

現代日本人は唯物主義者ではなく、唯物教信者である:森は気(「神」)に満ちる:気のサイエンス誕生


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気と電磁波を混同・同一視する人がいるが、それはとんでもない間違いだと思う。
 私は長い間かけて、気を「合理」的に検討してきて、ようやく、気のサイエンスを立てられるようになった。物質のサイエンスを超える気のサイエンスである。これは、イデア・サイエンスとも言える。
 今は簡単な指摘に留める。


参考:

* 森には、樹木には、気、生命イデア・エロース・エネルギーが宿るだろう (04/16)

http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1949.html

* 理論名称:不連続的差異共振論(不連続的陰陽イデア論)の方がいい:PS理論の呼称の問題点 (04/16)

http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1948.html

* 不連続的陰陽イデア論:陰イデア∞陽イデアメビウスの輪と太一イデア (04/14)

http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1947.html

* 理論名称:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論よりも明快である (04/14)

http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1946.html


参照:

無限の宇宙と響き合って生きるか、有限の「地球」に囚われて生きるか?

http://www.k2o.co.jp/blog2/2013/04/post-872.php
新井信介 「京の風」


鎮守の森 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E5%AE%88%E3%81%AE%E6%A3%AE
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
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土佐神社高知県 高知市 )の例
長尾神社(神奈川県 川崎市 多摩区 長尾)の例
足寄神社(北海道 足寄郡 足寄町 )の例
山全体が鎮守の森になっている例(柏原八幡神社 <兵庫県 丹波市 >)

鎮守の森(ちんじゅのもり)とは、日本において、神社 に付随して参道 や拝所を囲むように設定・維持されている森林 である。鎮守の杜とも。

古神道 における神奈備 (かむなび・かんなび)という神が鎮座する森のことで神代 ・上代(かみしろ)ともいう。
その意味 [編集 ]

鎮守の森というのは、かつては神社 を囲むようにして必ず存在した森林 のことで、杜の字をあてることも多い。「神社」と書いて「もり」と読ませている例もあり古神道 から神社神道 が派生したことがうかがえる[1] 。また、「社叢」(しゃそう)と称されることも多い。

神社を遠景から見ると、たいていはこんもりとした森があり、その一端に鳥居 がある。鳥居から森林の内部に向けて参道 があり、その行き当たりに境内 や本殿 があり、その背後には森林の中央部が位置するようになっていて、森の深い方に向かって礼拝をする形になっている。このことからも「社 (やしろ)」が先に在ったのではなく、信仰された森に社が建てられたことが良くわかる。また海岸 近くに魚つき林 という、古くから保護された森林がある場合、そこに神社が設けられている例が多い。

現在の、神社神道(じんじゃしんとう)の神体 (しんたい)は本殿や拝殿 などの、注連縄 の張られた「社 」(やしろ)であり、それを囲むものが鎮守の森であると理解されているが、本来の神道 の源流である古神道(こしんとう)には、神籬 (ひもろぎ)・磐座 (いわくら)信仰 があり、森林や森林に覆われた土地、山岳(霊峰富士 など)・巨石や海 や河川 (岩礁 や滝 など特徴的な場所)など自然 そのものが信仰の対象になっている。

神社神道の神社 も、もともとはこのような神域 (しんいき)や、常世 (とこよ)と現世 (うつしよ)の端境と考えられた、神籬や磐座のある場所に建立 されたものがほとんどで、境内に神体としての神木 や霊石なども見ることができる。そして古神道そのままに、奈良県三輪山 を信仰する大神神社 のように山そのものが御神体 、神霊 の依り代 とされる神社は今日でも各地に見られ、なかには本殿や拝殿さえ存在しない神社もあり、森林やその丘 を神体としているものなどがあり、日本の自然崇拝 ・精霊崇拝 でもある古神道を今に伝えている[2] 。

宮脇昭 によれば、「鎮守の森」は国際植生学会では学術用語として用いられるという[3] [4] 。