気と量子: We are all mad.:マニ教の光

気と量子: We are all mad.:マニ教の光


テーマ:無双PS原理


物質科学がつきとめた量子に、気の力学を解く鍵があるかもしれない。
 私は以前、長距離相関の問題は気の高次元、超次元を考えれば解明できると述べた。
 つまり、量子の本体とは気である。気を物質科学は量子として観測していると考えられる。
 つまり、量子とは気の現象体であるということである。波動と粒子の二重性をもつという量子であるが、それは、気を考えれば、明解になるだろう。
 陰陽の気は波動であり、また、実軸+1で物質粒子となると考えられる。
 つまり、


霊「数」、陽✡、陰✪を仮説して、また、陰陽共振を✇で表わし、以下のように公式化する。無双PS原理公式である。
✪✇✡⇒a + bi + cj + dk 
or
✪✇✡⇒+1 + i + j + k

 
上記における+1が粒子ということになる。(だから、当然、+1は時間ではない。時間は、⇒であろう。そして、三つの虚数i, j, kは空間三次元を意味しよう。結局、四元数とは、物質空間三次元を表象しているということになろう。)
 しかし、気は本来、波動と見るのが的確であろう。粒子は結果、エネルギーの放出の結果であると考えられる。
 結局、気は現象界に満ち満ちているのに、物質科学は、いわば、お馬鹿に、物質的観測によって、量子しか認証できない状態と考えられる。
 これは、直観、直感という感覚を無視している結果に拠ると考えられる。物質科学は、直観、直感を恐れているのだ。(その理由は、物質科学とは父権主義であり、直観、直感という母権主義を恐れているということと考えられる。)
 数式で言えば、


✪✇✡⇒+1 + i + j + k


右辺、+1 + i + j + kが目に見える現象体であり、左辺✪✇✡が気である。
 直観とは、左辺を見ていることになる。不可視様態の視覚である。
 そして、左辺を量子論はなんとか説明しようとしているのであるが、気という高次元・超次元を認めないので、整合性が欠落するのである。
 そう、陰陽共振という現象原理を認めれば、量子は気であると明確になると考えられる。
 ここできっぱりと言おう。ユダヤキリスト教西洋文明とは、父権主義文明であり、右辺中心の物質文明を形成した。しかし、20世紀に入り、左辺に迫る探究を行なったものの、基本は右辺であるので、左辺を真に理解できないのである。
 そう、左辺とは東洋、母権である。西洋、父権には、それが、認識できないのである。ここには、絶対的差異がある。東洋・母権・精神(霊)と西洋・父権・物質(現象)の絶対的差異、分離、乖離があるのである。
 資本主義という経済体制も結局は、右辺経済である。しかし、資本主義の本体は、左辺である。この左辺を右辺である金融資本が破壊しているのである。つまり、陰陽差異共振主義が資本主義の本体でありながら、物質的金融資本がそれを侵しているのである。
 とまれ、本題に戻れば、結局、現象界とは、気の充溢する現象界であり、気の現象としての自然物質界が形成されていると考えられる。
 気とは言い換えれば、霊であり、陰陽霊である。神々である。神霊である。神道は本来、これを崇拝してきたのである。気宗教、気霊宗教である。森(杜)の宗教、森気宗教、森霊宗教である。
 物質文明、物質科学・技術文明とは気なし文明、無気文明であり、悪魔の文明である。狂気の文明と言ってもいい。
 『不思議の国のアリス』でチェッシャー・キャットが「僕はきちがいだ。君もきちがいだ。ぼくたちはみんなきちがいだ。I am mad. You are mad, too. We are all mad.』と言っているのは、正鵠を射ているのである。
 以上で、現象界とは気的現象界であるということで、先の疑問が解明できたと言えよう。つまり、現象界、物質界の本体とは気であるということである。不可視の気が本質なのである。しかし、気は直観、直感で察知できるものである。
 陰陽気の流動、渦動が世界を形成しているのである。それを今日まったく認識していない無知状態なのである。
 終わりに、先に述べた光の問題であるが、当然、光の本体は、気である。気の「光」である。以前述べた、超越光、超光である。不可視の光、直観の光である。これが、宗教の光でもあると考えられる。
 いわば、陰陽光、太極光が根本である。天照大御神、キリストとは、気の光である。そう、アフラ・マズダである。
 私は、結局、マニ教の徒である。マニ教は、光の世界を伝えるが、光とは気の光であったのである。