生命体=気的物質と非生命的物質:生命的物質と非生命的物質は質的に

Fri, August 31, 2012
生命体=気的物質と非生命的物質:生命的物質と非生命的物質は質的に異なる
テーマ:無双PS原理
生命体=気的物質と非生命的物質:生命的物質と非生命的物質は質的に異なる

先に放射性物質と生命体について考えていたが、これまでの気と生命体の考えでは不十分であると感じたので、考え直してみた。
 結局、生命体とは、気の次元と物質の次元の二つの次元をもつ複合体であるのに対して、非生命的物質とは、気的次元がなく、単に物質的次元しかないと考えられる。
 このように考えることで、生命体と非生命的物質の違いが明快になると考えられる。
 無双PS原理三次元世界マップから見ると、生命体とは、虚軸の陰陽気をもつと同時に、実軸の物質をもつことがわかる。それも、陰陽共振による螺旋力動をもつ物質である。つまり、生命体とは、虚軸と実軸、正確に言うと、虚軸とプラスの実軸の平面に属することになる。
 それに対して、非生命的物質とは、虚軸領域をもたず、マイナスの実軸に属すると考えられるのである。
 では、そのように考えたとき、電磁波をどう捉えるべきか。これまで、陰陽共振がMPにおいて、電磁波に変換して、⇒+1の事象になると考えてきた。
 そう、それは問題ないだろう。結局、生命体は気が主導的で、螺旋的に物質形態が形成されると考えられる。言い換えると、気主物質従の様態である。気が電磁波の情報となって、電磁波を導き、生命体を構成すると思われる。
 しかしながら、非生命的物質の場合、もはや、気の主導性はなく、物質自体の力学が主導的になると考えられる。これは、唯物科学の領域となる。
 では、非生命的物質における電磁波とは何かが問題である。思うに、気が主導しない電磁波が当然あると考えられるから、これまで考えたように、実軸における⇒+1の⇒に電磁波を見ていいのではないだろうか。
 しかし、正確に言えば、MP2(MPの実軸上の点)から生まれる電磁波である。MP2は原子の領域であり、端的に物質の領域である。故に、MP2⇒+1という方程式が考えられるのである。
 この方程式は確かに一種の生命体の方程式である。しかし、気に導かれていない生命体方程式である。これは、言わば、唯物的生命体の方程式である。人工的生命体の方程式とも言えよう。
 例えば、電灯の光を与えて、栽培する野菜の一部は、そのようなものだろう。あるいは、化成肥料で栽培する場合や遺伝子工学で誕生した生命体の場合がそうだろう。
 それには、自然天然の気の情報が欠落しているので、生命の本来的力が欠落していると考えられよう。
 とりあえず、以上で、本件の検討を終える。


Thu, August 30, 2012
検討問題:生命体と免疫  生命体(気的物質体)は陰陽方程式凸i*凹i⇒+1の+1で説明がつきそ
テーマ:放射能汚染と闘う知恵:光合成細菌、乳酸菌
検討問題:生命体と免疫 

生命体(気的物質体)は陰陽方程式凸i*凹i⇒+1の+1で説明がつきそうである。生命エネルギーは⇒だろう。そして、食とは、このエネルギーを補給する ことにほかならない。つまり、⇒は日々補給しないといけないのである。そうでないと、陰陽は共振ではなく、非共振、即ち、−1←凸i*−凹iとなり、−1 という死体、物体へと解体する。
 では、生命維持機能で重要な役割をする免疫とはどう数式化できるか。
これは、考え方は簡単だと思う。生命の原動力である陰陽共振を阻害する、つまり、非共振をもたらすなんらかの機能体を破壊することである。
 なんらかの非共振は、陰か陽を傾斜すれば、もたらされるだろう。わかりやすく言えば、陰陽バランスを阻害すれば、もたらされる。
 例えば、放射能物質がそうである。それは、生命体の陰陽共振を破壊するものである。正確に言えば、陰陽共振による生命物質体の正常な形成を放射能が阻害するとことである。
 この生命物質体を阻害、破壊に対して、対抗的作用することが免疫である。
 問題は、陰陽レベルと物質レベルにおいて、免疫が考えられることである。
 飯山一郎氏が提唱、推奨する乳酸菌による免疫力強化は、後者であるように思える。 
 それに対して、陰陽気のレベルの免疫もあると考えられる。簡単に言えば、気の強化である。
 免疫作用は、両者が合わさることが理想であろう。
ここで話題を飛躍するが、放射性物質関連で言うが、不思議なことは、飯山一郎氏が説く光合成細菌が放射能を「食べて」しまうということである。
 原始宇宙における放射線を、それは「食料」にしてしまうということである。これは、いったいどういうことなのか。以前、簡単に触れたが、原始宇宙の放射線は、光合成細菌の陰陽共振による生命体形成を阻害できず、返って、「有益」なのである。
 とまれ、放射線と生命体について、検討課題にしておく。



Wed, August 29, 2012
生命とは何か:気生命凸i*凹iとは、コズミック・シンフォニー:陰陽宇宙交響曲
テーマ:無双PS原理
生命とは何か:気生命凸i*凹iとは、コズミック・シンフォニー:陰陽宇宙交響曲

今日も余裕がないので、簡単に記すに留める。
 個人的なことで恐縮であるが、五年前、心臓手術をした。麻酔で眠っているとき、夢のような、ヴィジョンのようなものを見た。
 そのとき、感じたのは、宇宙は生命体であるという直観である。記憶がおぼろであるが、私はなにかファンタジーかSFの世界にいるように、宇宙を漂うように飛んでいた。宇宙船や円盤に乗っていなかった。
 そのときのイメージだけを言えば、宇宙はすべてが、神経叢の繊維のようなものでつながっているのである。宇宙生命体、宇宙は生きているという直観、深く納得したのであった。
 これは無双PS原理で言えば、凸i*凹iの陰陽が森羅万象に、浸透しているというように考えられる。
 そして、個々の陰陽は、他の陰陽と重なり合い、一種共振して、いわば、宇宙交響曲を形成しているだろう。
 そう、陰陽魂が生命である。それが、物質体をまとっているのである。
しかし、陰陽を超越した奥に、超陰陽の霊的陰陽世界=神霊界があるのだろう。
 これについては、後で、述べたい。

追記:ドリーム・ヴィジョンを補足すれば、胸のところで、宇宙の流動体 (ゲル)のような柔肌に包まれているような感じであった。



Tue, August 28, 2012
霊と気の関係力学について:霊/気転換方程式:凸j*凹j⇒凸i*凹iになるべきではないだろうか。
テーマ:無双PS原理
霊と気の関係力学について:霊/気転換方程式

これはまだ不明確なままである。
 以前は、凸j*凹j⇒+1を霊の方程式にしたが、これだと、霊と気がうまくつながらないのである。
 直観では、自己(個)認識方程式凸i*凹i⇒+1と類似的になものをそれに期待したいのである。つまり、凸j*凹j⇒凸iのようなものをイメージしているのである。
 しかし、凸j*凹j⇒+1になるのである。
 思うに、凸j*凹j⇒凸i*凹iになるべきではないだろうか。
 直観的イメージでは、また、理論的に(超越円における虚軸の両端)、そうである。
 思うに、f(θ)=icosθ+jsinθ=?とf(θ+π)=icos(θ+π)+jsin(θ+π)=?において、θ=nπのとき、凸i*凹iは形成されるのではないだろうか。
 nがゼロのときは、?=凸i、?=凹iとなるだろう。
だから、?*?の式を考えればいいのではないだろうか。即ち、
?*?=f(θ)*f(θ+π)=〔icosθ+jsinθ〕*〔icos(θ+π)+jsin(θ+π)〕である。ただし、θ=nπである。
 nがゼロのときは、凸i*凹iとなるが、nが1のときはどうか。
 凹i*凸iとなる。
 では、n=2のときはどうか。これは、当然、nがゼロのときとまったく同じである。
即ち、凸i*凹iである。
 ということで、

?*?=f(θ)*f(θ+π)=〔icosθ+jsinθ〕*〔icos(θ+π)+jsin(θ+π)〕(ただし、θ=nπである。)

これを、霊/気転換方程式と作業仮説的に呼んでおこう。
 今はここで留める。

追記:n=1のとき、凹i*凸iとなるが、それは凸i*凹iとは意味合いが異なるのではないか。

追記2:凸j*凹j⇒凸i*凹iならば、凸j*凹j⇒凸i*凹i⇒+1*−1とならないか?



Mon, August 27, 2012
検討問題:−1とは何か:地、重力の方向ではなく、死体、純粋物質を意味するのか
テーマ:無双PS原理
PS理論のときもそうであったが、−1の意味づけが難しい。
 無双PS原理では、地としている。重力の方向である。
 しかし、方程式ではどうなるのか。陽凸iの二乗でいいのか。それとも、割り算なのか。
 直観で言うと、牽引の反対の反発である。このことは、かつて何度も考えて、退けたものだ。
 つまり、陰陽の牽引を共振とし、それを+1とし、陰陽の反発を−1としたのである。
 だから、後者は非共振である。思うに、共立という事象かもしれない。とまれ、哲学的に言えば、それは、自己同一性の事象である。自我事象である。直観では、これこそ、物質事象である。純粋物質事象である。
 カント哲学で言えば、純粋悟性の事象である。そう考えるならば、発想を変える必要がある。
 +1の個物・個体現象は、−1の純粋物質を含むということにならなくてはならない。
 言い換えると、+1が真の現象であるが、人間は、それを−1の純粋物質として認識するということになる。
 こう考えたらどうだろうか。シンプルに具体的に見れば、+1は、例えば、生きている蜘蛛である。しかし、叩かれて死んだ蜘蛛は、−1である。
 つまり、生命体と死体の違いである。あるいは、生命体と物質体の違いである。即ち、+1はなんらかの生命を含むが、−1は生命が消えたものである。
 陰陽共振は生命体+1を生み、陰陽非共振は死体をもたらすということではないだろうか。
 そうならば、自己同一性の認識行為とは、死の行為であるということになる。自我は死ということになる。あるいは、同一性とは死である。敷衍すれば、貨幣や資本は死である。近代主義は死である、等々。
 生物学ないし医学的には、死に至る病ということになろう。 
 そうならば、これまでの考えを改める必要がある。−1は地ではなく、死、純粋物質であると。
 そうすると、天と地はどうなるのだろうか。単純に見ると+1は天でいいが、MP (原点)の方向が地となるだろう。
 今日はここで留める。

<無双PS原理三次元世界:Ver5.0>
                

               虚軸y軸:陽・凸i・時間形式・自己
                                /
         超越軸z軸:太極・霊界       /
               |           /
               |         /
               |       /
?:物質認識       |     /    ?:頭
               |   /
               | /
−1___      MP・胸 _電磁波⇒_+1実軸x軸
死体、自我     /  |地            天・個
           /     |
?:肚     /      |    ?:精神認識(魂認識)
      /         |
    /           |
陰・凹i・空間形式     |
・他者           |
 



縄文・弥生・ツングース系母権民族の原日本に侵入した父権的遊牧民族(仮説)は何か
テーマ:二つの日本民族:母権民族と父権民族
縄文・弥生・ツングース系母権民族の原日本に侵入した父権的遊牧民族(仮説)は何か

今日は余裕がないので、単刀直入に述べるに留める。
それは、失われたイスラエル十支族である。

2012/1/19 天皇家と失われたユダヤイスラエル十支族



日本人に申し訳ない〜超能力者が漏らした日本の秘密:「日本人は古代イスラエルの子孫である!」

イスラエル12支族のシンボルをイラスト化したもの


みなさん、こんにちは。

いやー、これは結構面白い。今日偶然に見つけたものだが、古代イスラエルの失われた10支族と日本人のことにまつわる話である。

2009/03/29(日)
日本人に申し訳ない〜超能力者が漏らした日本の秘密

先日MySpaceで、ファッションデザイナー志望のウクライナ人と知り合った。
それで思い出して、この話題を紹介することに。

日本人に関するユダヤ人の言い伝え

古代イスラエル10支族の情報を検索していて、次のような話を見つけた。
帝京大学の高山教授が、アメリカでタクシーに乗っていて、いきなり運転手から「日本人に申し訳ないことをした」と謝られた。
彼はウクライナ出身のユダヤ人だった。
ウクライナユダヤ人社会では、次のような言い伝えがあるという。
それは、失われたイスラエル10支族の1つが日本人だった(日本に渡って日本人となった)というものだ。
それなのに、「ユダヤ人のオッペンハイマーはその日本に落とす原爆を作った」から、謝りたいというのだ。
ウクライナユダヤ人は語る「日本人には申し訳ないことをした」

他の国の日本人に関する言い伝え

ウクライナといえば、故ヨセフ・アイデルバーグ氏がウクライナオデッサ出身だった(後にイスラエルへ移住)。
下記の記事で紹介しているが、日本に渡来した古代イスラエルの失われた10支族の研究に晩年を捧げたユダヤ人だ。
日本研究に一生を捧げたユダヤ人(アイデルバーグ氏について)
アイデルバーグ氏は、10支族を探す旅に出て、バハラ地方の少数ユダヤ人の言い伝えを知った。
バハラは、アラビア半島の国オマーンにある。
それによれば、10部族は囚われの身となっていたアッシリア帝国から逃れ、東の方へさまよい出た。
そして長年アジア大陸を放浪し、最後に「中国のかなたの神秘な国」に定着したという。
その言い伝えを頼りに、アイデルバーグ氏は日本を目指した。

キルギスタンでも、同様の言い伝えがある。
昔ふたりの兄弟がいて、一人は山の方へ向かってキルギス人の祖先となり、もう一人は海の方へ向かって日本人となった。
またキルギス語には、日本語と共通する単語が数千もあるのだという。
以上は、下記の記事で紹介している『日本の中のユダヤ文化』という本で紹介されている。
日本の中のユダヤ文化

そこで元記事を見てみると、こんなものであった。
http://quasimoto.exblog.jp/17394142/

Kazumoto Iguchi's blog


日本人は古代イスラエルの失われた10支族の末裔か?

前回、八重山民謡の中の「ヘブライ語」を見てきましたが、なんと京都の山鉾巡行や、地方の祭りの掛け声にもそれを見る事が出来るようです。

紀元前11世紀、古代イスラエルは戦乱に敗れ、12支族のうち10支族がアジアの各地に消えたと言われています。

その後、今から1300年前、シルクロードから127県の民を伴って秦氏が日本に入って来て、日本の文化に大きな影響を与えたと言われています。
http://riudenco2346.ti-da.net/e2884328.html




Sat, August 25, 2012
日本民族病理の集団的父権主義とは何か:集団的自我とは何か:自他未分化の太極的様態の旧人の日本人
テーマ:二つの日本民族:母権民族と父権民族
日本民族病理の集団的父権主義とは何か:集団的自我とは何か:自他未分化の太極的様態という旧人の日本人心性

無双PS原理から日本人の集団的自我(語義の矛盾があるが、おいておく)はどう分析できるか。
 これは、一種の封建的心性と言えよう。自己(個)認識方程式凸i*凹i⇒+1から見ると、他者凹iが集団的権力であり、それを肯定するのであるが、自己凸iは否定していると考えられる。
 もし、本来的に自己凸iが存するならば、他者凹iの集団的権力と対立するはずである。
 言い換えると、集団的自我とは、他者に傾斜した心性であるということになる。自己よりも他者に傾斜しているのである。
 とは言え、果たして、それでいいのだろうか。他者傾斜でいいのだろうか。日本集団的自我とは、そもそも、自己と他者が未分化状態にあるのではないか。だから、無双PS原理から言うと、太極の分極化以前の様態に存すると考えられよう。
 つまり、分極化が発生する起点であるMP(原点、交点)の位置に存するのではないだろうか。このときの太極が権力ないし権威である。それと集団的民族は一体であるということになる。言い換えると、自他区分以前の未分化融合状態に集団的民族の心性は存すると考えられる。
 この自他未分化融合様態であるために、多数の日本人は個的自立ができず、権力に唯々諾々と従うということだろう。
 とまれ、この古い日本人とその国は滅びる運命にあると言えよう。ポスト福島原発の黙示録的エポックにおいて、この集団的日本人・日本は消滅していき、新しい個的母権主義の日本人・日本、言い換えると、個的共同主義の新生日本人・日本が誕生するだろう。
 そう、自他未分化の集団的心性とは言わば超越論的であり、盲目な信仰のようなものである。これは、理性、知性では、矯正不可能である。滅びゆくものは、滅びゆくしかないのである。それが、自然の必然性である。そう、正に進化である。
 個的エポックに環境適応できない民族は淘汰され滅びるのが自然の摂理である。人類進化の意味を甘く見てはいけない。(もっとも、閉鎖系ならば、ガラパゴス諸島のように生き延びることができるが。)
 以上は集団的父権主義の集団性の側面についての分析であるが、父権主義の側面については、触れていない。それでは片手落ちなので、一言述べよう。
 集団的父権主義(集団父権主義)とは、自他未分化の権力において、父権制が支配するということである。思うに、自他未分化の権力とは、本来には、母権である。(だから、権力と言うと語弊があるが、そのままにしておく。)
 だから、原初的には、母権的自他未分化様態があったと考えられる。(これは、縄文的個的母権制ではなく、弥生的農耕文化的母権制である。)
 この心性に、父権制が侵入したと考えられる。(史的には、母権的天皇制に父権制に侵入して、父権主義的天皇制が誕生したと思う。)
 現実的に言えば、弥生的農耕集団的民族(既述したが、縄文文化弥生文化が融合したと考えている)に父権的遊牧民族が侵入して、後者が前者を支配したと考えられる(これが、記紀、とりわけ、日本書紀に記されていると思う)。
 このとき、自他未分化融合心性は父権的権力に従属するようになったのである。そのときの権威が天皇である。母権的天皇と父権的天皇の二重性が生じたのである。ギリシア神話で言えば、ゼウスに当たるのが、天皇である。
 これが、集団的父権主義の父権主義的側面の意味である。
 結局、縄文的個的心性から復活する必要があるのである。これは、シュメール・ケルト・縄文・環太平洋文化圏の一環である。
 これについては、余裕のあるとき、詳述したい。

追記:侵入した父権的遊牧民族とは何か。これが長年の謎である。



Fri, August 24, 2012
霊と気と物質の三層世界存在としての人間:霊主体従:日本父権制というカルマからの超克的エクソダス
テーマ:日本大新生
霊と気と物質の三層世界存在としての人間:霊主体従:日本父権制というカルマからの超克的エクソダス

私見では、福島第一原発の爆発による放射能大汚染は、唯物科学の終焉の決定的象徴的地球人類史的事件である。
 東洋の最東に存する日本は明治維新、大敗戦を経て、西洋文明の帰結である唯物科学を言わば拝受した。
 シャーマニズムアニミズム的な東洋・日本伝統文化は、唯物科学との折り合いをつけないまま放置され、忘却された。
 現代日本人は、母権的民族の基盤も忘却して、近代西洋由来の近代的自我も受容した(正確に言うと、違うが)。
 既述したように、持論では、日本の父権制が諸悪の根源である。私は江戸時代に生まれた国学が近代父権制イデオロギー的原点だと考えている。(もっとも、狭隘閉塞的ナショナリズムの根源でもあるが。)
 そして、日本近代父権制は、個的ではなく、集団的であり、主となる権力に隷従し、個人的には、良識道徳ぶるという「二重人格」性をもつ。この封建権的心 性が、国家から庶民まで、一般に浸透しているという民族的病理をもっている。いわば、父権制封建制フラクタルである。 
 もっとも、ネット世界をみると、それはなく、個的世界が進化している。これは、私論では、新母権的日本人の世界である。
 日本が生まれ変わるには、日本のカルマを知る必要がある。父権的集団的民族性を知る必要がある。これが、合理性、創意工夫、個の自由を奪っているものである。
 西洋文明には、個の原理がある。(もっとも、個と個人と自我が混同されているが。)ギリシア文化、キリスト教文化、ルネサンス文化が、個の原理を形成した。 それに対して、日本の場合、個の原理は、実は母権主義に存していると考えている。
 私の史観では、江戸時代において、近代父権主義と近代母権主義が生まれたが、明治維新で、前者が後者に勝利して、後者は抑圧され続けてきて、今日の黙示録的状況を迎えたと考えられる。 
 日本人は生まれ変わる必要がある。それには、意識進化が必要である。そのためには、今日的な精神文化が必要である。マルクス的に言えば、命懸けの飛躍が必要である。
 手前味噌的であるが、無双PS原理の基本的精神原理は、日本人の集団的自我原理を超克するものである。それは、東洋・日本伝統を継承する個的共同性の原理でもある。
 とにかく、ハラを知り、それを不連続化すること、これが、第一歩である。それが他者となり、自己との共振が経験的に形成されれば、それが、個的共同性となる。
 予定では、唯物論を超える霊と気の認識をどう形成するのかについて述べるつもりであったが、序論に留まった。明日、主題に関して詳述したい。

追記:日本のカルマを正確に言えば、弥生的母権的農耕集団文化と国学・封建的文化の癒着である集団主義父権制である。

追記2:日本人の個の原理は母権主義に存すると述べたが、言葉足らずである。縄文的母権主義にであり、弥生的集団的母権主義にではない。
いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫)/筑摩書房


¥1,260
Amazon.co.jp



Thu, August 23, 2012
四つの力(超大統一理論)と無双PS原理
テーマ:無双PS原理
まったくの思い付きであるが、無双PS原理から現代物理学の目指すグランド・セオリーの超大統一理論を見るなら、根源の一つの力は当然、太極である。
 それが、陰陽に分極化する。陽が原子核、陰が電子を形成するならば、強い力は陽の力であり、弱い力は陰の力ではないだろうか。
 ただし、物質化するとき、虚軸ではなく、垂直に捩れて螺旋化すると考えられる。つまり、二次元化、平面化すると考えられる。このとき、虚軸とは別の準虚軸を考えて、その平面を考えるべきだ。  
 その準虚軸の準陽が原子核の方向であり、強い力がはたらく。そして、準虚軸の準陰がベータ崩壊の志向性であり、そこに弱い力がはたらく。
 さて、気/物MP変換によって、虚軸から実軸へと転化する。そのとき、既述したように、凸i*凹i⇒+1の⇒が電磁波であり、凸i*−凹i→−1の→が重力波重力子)である。
 このような方向で考えれば、無双PS原理から超大統一理論は解明できるのではないだろうか。
 ただ以上の説明で一番の問題は、準虚軸の考え方である。もっと単純に、MP2(実軸上の原点・交点)に原子核と電子を見て、前者に強い力、後者に弱い力を見るというのはどうだろうか。
 今はここで留める。
 
参照:

4つの力と5番目の力
●●4つの力と5番目の力
 自然界にたくさんある力はすべて、4種類の力のいずれかに分類することができる。その4つの力とは「重力」「電磁力」「弱い力」「強い力」である。それぞれの力には、その力を媒介する(伝える)粒子があり、それをゲージ粒子という。
 4つの力を説明していくと、まず「重力」は、あらゆる粒子に働く力である。日頃、私たちも重力の影響を受けているが、この力は、他の3つの力に比べて非 常に弱いものだ。ニュートンの発見した「万有引力の法則」は、この重力の法則である。重力のゲージ粒子は、重力子(グラビトン)とされるが、これは未知の 素粒子である。
 次に「電磁力」は、電気をおびた粒子に対して働く力である。原子同士を結んで分子をつくったり、原子核と電子を結びつけて原子をつくったりする。マクスウェルの電磁気学は、この力を理論化したものだ。電磁力のゲージ粒子は、光子(フォトン)である。
 また「弱い力」は、放射能や星の核反応に関係するものである。たとえば、ベータ崩壊中性子ニュートリノと電子を出して、陽子に変わるときなどにはたらく微弱な力だ。弱い力のゲージ粒子ウィークボソンである。これにはプラスとマイナスの電荷を持つW+とW-、電気的に中性なZ0の3つがある。
 最後の「強い力」は、クォークを結合させ、陽子や中性子、中間子などを作る力である。中間子は原子核内の陽子や中性子を結合させる核力の源となる力だ が、この核力も強い力の一種である。強い力はクォークの「色」という状態に対して働くことから「色の力」とも呼ぶ。強い力のゲージ粒子は、グルーオンであ る。
4つの力 重力 電磁力 弱い力 強い力
(色の力)
具体例 ・天体間の力
・重力 ・原子間の力
・化学反応を起こす力 ・ベータ崩壊を引き起こす力 ・原子核内の力
(核力)
作用する荷量
(かりょう:何に対して働くか) 質量
(エネルギー) 電荷 弱荷(じゃくか) 色荷(しきか)
力の及ぶ範囲
(mm) 無限大 無限大 10-14 10-12
力を媒介するゲージ粒子 グラビトン
重力子
※まだ発見されていない。 フォトン
(光子) ウィークボソン
(弱中間子) グルーオン
(膠着子:こうちゃくし)

 上で説明した4つの力は、自然界にある、たくさんの力を4種類に整理したものである。しかし、物理の世界では、この4つの力をもっとコンパクトにまとめて、統一的な方程式で説明しようという試みがなされている。これを力の統一理論と呼ぶ。
 4つの力のうち、電磁力と弱い力は、1967年にアメリカのワインバーグパキスタンのサラムによって理論的に統一され、ワインバーグ=サラム理論(ま たは単に統一理論)と呼ばれている。これによって、統一された「電弱力(でんじゃくりょく)」に、さらに強い力を加えた大統一理論もあるが、まだ、理論的 に完成していない。ちなみにアインシュタインは、重力と電磁力の統一に情熱を傾けたが、失敗に終わっている。重力を含めたすべての力を統一する超大統一理 論も、未完である。
 ところで、力の統一理論を完成させると、宇宙の歴史の中で力が「進化」した過程が明らかになるのだ。力が進化するとは、いったいどういうことか?
 下の図を見てほしい。宇宙誕生の時には、ひとつの力しかなかったと考えられている。ビッグバン理論によると、宇宙は始め高温・高密度の火の玉状態から膨張したとされているが、高温・高圧の初期宇宙では、力は一つにまとめられていたのだ。
4つの力のわかれ方

 やがて、宇宙が膨張し、温度が下がっていくと、ひとつしかなかった力が4つに枝分かれしていったのである。高温に時には、ひとつの力として存在する方が安定的なのだが、ある一定の温度以下では、別れて違う現れ方をした方が安定するためだとされる。(図解雑学 量子論 ナツメ社より) 
http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity221.html


第1章 原子の構成
      1. 原子
      2. 原子核
      3. 核子
                    第2章 4つの力
      1. 物質に働く力
      2. ベータ崩壊
      3. 中間子

      4. 弱い力

http://www1.odn.ne.jp/~cew99250/soryusi.html
     

わかるまで素粒子論【入門編】

メインメニューへ



Thu, August 23, 2012
原子モデル:その2:MPで、気素が元素(原子)に不連続的に変換される:唯物科学から気科学への進化
テーマ:無双PS原理
原子モデル:その2:MPで、気素が元素(原子)に不連続的に変換される:唯物科学から気科学への進化

先に、MPが原子核になり、陰陽共振が電子になるというような作業仮説を立てたが、その後、桜沢如一氏の無双原理の陰陽の説明を想起するなどして、そうで はなく、陽・凸i・自己が同一性へと集中するのであるから、これが原子核になり、陰・凹i・他者が電子になるのではないかと思ったのである。
 そうならば、MPはどうなるだろうか。作業仮説として、原子内結合力としたい。
 とまれ、陰陽共振によって、MPにおいて、原子が発生すると考えられる。陽・凸i(陽素と呼びたい)は、凝縮する力、向心力になると思われるので、粒子 の志向性をもち、陰・凹i(陰素と呼びたい)は、発散力をもつと考えられるので、波動の志向性をもつと言えるのではないだろうか。
 それらは、陰陽なので、正に、相補的であり、二分化はできないと考えられる。量子力学の根本則の粒子と波動の二重性がここで確認されるのではないだろうか。
 そう、ここで、哲学的に確認すべきことは、MPの気/物質変換回路の意義である。実体は気、陽素と陰素、その極性である。物質である原子は現象であり、 その実体は気である。気(陰素と陽素)の物質的発現として、原子が存するのであり、原子の実体ないしは本体は陰素/陽素の気(気素ないし気子と呼びたい) であるということである。 
 しかしながら、先に述べたように、気/物質MP変換(気/物質、気素/元素、気子/原子MP変換)は、不連続な変換であるので、物質からは、気が認識で きないことである。つまり、気⇒物質であるが、物質⇒気は成立しないということである。(しかし、物質には、内在超越的に気が存するということになるだろ う。ついでながら、人間が気を「感覚」【気覚】できるのは、人体には、気の身体があるからである。)
 そう、言うならば、物質とは、気の外面、表面、外皮・外部であり、内面、裏面・背面、核心・内部は気であるということになる。
 これを無双PS原理で言えば、気はMP1(これは、虚軸における交点・原点)に、物質はMP2(実軸における交点・原点)に存すると言えよう。
 しかし、そうすると、個物方程式でもある凸i*凹i⇒+1の個物の物質と矛盾撞着が生じる。しかしながら、個物の意味を考えるべきである。
 私は、凸i*凹i⇒+1は宇宙・自然創造を意味すると述べたのである。つまり、凸i*凹i⇒+1は宇宙・自然創造方程式(現象方程式)と考えていいのである。わかりやく言えば、+1とは、例えば、個物である木、鳥、花、石、等々である。
 つまり、気/物質MP変換の物質とは個物・個体としての物質ではなく、個物・個体の構成要素としての物質である。
 だから、混乱するので、区別する用語を使用する必要がある。MP変換における、つまり、MP2における物質は原子、元素、物質子・物子、あるいは、物素とし、+1の物質を物質体(物質身体、物体)、現象物質、あるいは、物象、物象体とでも呼びたい。
 故に、気/物質MP変換は、気素/物素MP変換(簡略化して、気/物MP変換)になる。これでとりあえず、「物質」の区別がついた。物素としての物質と物象体としての物質である。そして、当然、実体・本体・本質は気素(陰素・陽素)である。
 最後に検討問題を提起しておく。多様な原子・元素があるが、これは、気/物MP変換でどのように作られるのかを解明する必要がある。
 水素原子の場合、例えば、水素原子気素を想定できる。これを気素の単位と見ていいのだろうか。そうならば、単位気素のなんらかの連結によって、多様な気素が形成されて、多様な原子が形成されるということが考えられる。
 この問題はここでおいておく。

追記:今気づいたが、気と物質の関係、気素と物素とのMPにおける関係であるが、前者が内部で、後者が外部であり、物質の内部に気が存する等と述べたが、それは、誤りやすい、ないしは、間違った表現である。
 端的に言えば、気と物質の間には、絶対的な壁があると見た方がいいのである。あえて言えば、超越論ではなく、超越の関係があると見るべきである。
 また、少し飛躍するが、宇宙膨張であるが、気のエネルギーが宇宙創造の根源力であり、その結果として物質体の宇宙があるのであり、結果である物質の宇宙からは、本源のエネルギー、気エネルギーは説明できないということではないだろうか。

参照:
原子 - Wikipedia

原子の構造 [編集 ]
原子は、正の電荷 を帯びた原子核と、負の電荷を帯びた電子から構成されると考えられている。原子核はさらに陽子と電気的に中性な中性子 から構成される(ただし水素原子 の99.985%を占める1Hは中性子を含まない)。陽子と中性子の個数の合計を質量数 と呼ぶ。原子核の半径は原子の半径の約10万分の1(1 fm 程度)と小さい。なお、一般的な原子の模式図は原子核の大きさを原子に対して数分の1程度に描いているが、これは実態とはかけ離れたデフォルメ で ある。原子は硬い球体というよりも、むしろ真空の中に存在する点状の原子核と電子である。但し、電子はしばしば描かれる模式図のように特定の軌道を描いて 原子核のまわりを回っているのではなく、原子核のまわりに確率的に分布しており、原子核を電子雲が包むイメージのほうがより現実に近い。
原子の大きさと原子半径 [編集 ]
原子の大きさの直感的な定義は電子雲 の広がりであり、一般には球状とみなされているが、電子雲は文字通り雲状あるいはもや状のものであり、その境界面を定義することは難しい。特に、化学結合 をして分子を形成している場合等には、どこまでがある原子に属している電子雲かを定義するのは難しい。また、原子が電子を得るか失うかしてイオン となった場合には、原子雲の広がりも当然変化し、原子の大きさも異なってくる。
このような事情のため、原子の大きさを定量的に示す原子半径 にはいくつかの定義があり、場合によって使い分けられる。
原子の質量と原子量 [編集 ]
原子の質量 を表すのには、統一原子質量単位 (u)がしばしば用いられる。これは、質量数12の炭素 原子である12C(炭素12 )1個(ただし、静止 して基底状態 にあり自由な時)の質量を12 uと定義したものであり、1 u = 1.6605402(10)×10-27 kgである。
また、原子の相対的 な質量比を表すものとして原子量 があり、これは先述の12C(炭素12)1個の質量を12と定めた場合の他の元素の質量比である。ある原子の原子量の値はその原子一個の質量をuで表した時の値と全く同一であるが、原子量はあくまで比率を表す量であり、単位を付けない無次元数 である。
原子量と質量数はほぼ同程度の大きさとなるが、その定義上必ず整数値をとる質量数とは異なり、12C以外の原子の原子量は厳密には小数になる。これは、原子核を構成する陽子と中性子の質量が微妙に異なり、且つそれら核子の結合エネルギーによる質量欠損 が原子により異なるためである。それでも原子の相対質量は、凡そ質量数に近い数値をとる。
複数の同位体を含む元素では、整数値からさらに離れた値を取る場合がある。これは多くの元素では質量数の異なる原子(同位体 )が存在し、その存在比率もまちまちなためである。例えば、12Cの原子量が厳密に12であるのに対し炭素の原子量は12.011であるが、これは炭素には12Cの他に少量の13C(更にごく少量の14C)が含まれているためである。原子量の概数は計算によって求めることができ、例えば塩素の原子量は35.453であるが、この場合35Clの存在比が約76%、37Clの存在比が24%となっているため、35×0.76+37×0.24という計算によって概数(35.48となり誤差は約0.1%)が求まる。
原子と元素 [編集 ]
原子とは、内部に持つ陽子と中性子の各個数の違いで区別される個々の粒子を指す。例えば炭素原子は中性子数の異なる12C、13C、14Cの3種類が存在する。一方元素は、中性子数に関わらず、ある特定の陽子数(原子番号 )を持つ原子のグループを指す。例えば、「炭素は燃焼(酸素と結合)して二酸化炭素 を生成する」と表現した場合の「炭素」や「酸素」は元素を意味する。



最近の原子モデル。ヘリウム 原子。電子が雲状に描かれている(→電子雲 )。

参考:
<無双PS原理三次元世界:Ver4.1>
                

               虚軸y軸:陽・凸i・時間形式・自己
                                /
         超越軸z軸:太極・霊界       /
               |           /
               |         /
               |       /
?:物質認識       |     /    ?:頭
               |   /
               | /
−1__←重力波_MP・胸_電磁波⇒_+1実軸x軸
地・自我       /  |            天・個
           /     |
?:肚     /      |    ?:精神認識(魂認識)
      /         |
    /           |
陰・凹i・空間形式     |
・他者           |

http://www.googleadservices.com/pagead/aclk?sa=L&ai=C_Wf12dBUUJmKNYKflQX7t4DgD7XCj8sCtdKB6z3AjbcBEAEg3qaUClC25cffBmCJ68eE-BOgAa_W_PwDyAEBqQJBEX86C25LPqgDAaoEdk_Qslv15k-pC839NyqcGecnxFFODMuJse2vOAm4vxq3cwMiJBWA0DigTOHcTmVp4Xsz6Wco1n8_w7meJBeGSvHWaZK1Oz8cCewIzfILxpgS-4CtnoxOGUL8g53j53XXRgyb8Wnn0r85ZZnRG6rcJmj2O8YsHDWIBgE&num=1&cid=5GjQ-IfSVyV3Kl69x0t_JKqG&sig=AOD64_0h48SDCFQGwRkzFiuQp3CAhdGFvw&client=ca-cyberagent-ameblo_js&adurl=http://rrrc-tokyo.jp




Mon, August 20, 2012
検討問題:無双PS原理から原子モデルを作業仮説する
テーマ:science
本件について、検討したいが、余裕がないので、残念ながらできない。
 桜沢如一氏は無双原理から原子モデルを述べているが、陰陽と物質を一致させているので、使用できない。
 今は余裕がないので、一言予備考察を述べるに留める。
 原子核はおそらく、MPに存する。電子は陰陽、即ち、陽である凸iと陰である凹iの共振によって形成される電磁波と関係する。おそらく、螺旋を描いている。
自己認識方程式(個方程式)凸i*凹i⇒+1における⇒が電磁波であり、それが、螺旋形状であり、原子の電子に相応するのではないだろうか。
 原子核(陽子や中性子)がMP(原点)に存すると述べたが、それだけでは、不十分な説明である。MP(Media Point)は、気が物質へ変換する「トランス」である 。気/物質変換回路である。ここにおいて、気と物質の中間形態はないと考えられる。気が即、物質に転換されると考えられる。そう、不連続な階層的変換回路 である。
 原子核がMPに存するというとき、気の中心が物質の中心に変換されたときの後者に原子核を見たい。
 問題は気の中心である。それは何か。それは直観では、太極である。太極は基本的には、超越軸に存しているが、超越軸はMPに直交しているので、MPに太極が存するというのは合理的である。
 ならば、太極が原子核の根源である。そして、陰陽共振が電子の根源であるということになる。
 今はここで留める。

追記:生成門氏の以下の論考で、MP1とMP2という二つのMPについて言及している。以前はこの区別にこだわったが、最近は使用していないが、上記のMPの太極がMP1に、MPの原子核がMP2にほぼ対応するだろう。

言語過程はイデアと現実の世界を循環する (0)
言語過程はイデアと現実の世界を循環する
<四次元能版エヴァンゲリオン圏論という言語>


イデアの実在性を実感するために
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111062414
の続きです。

一人称と三人称と認識、存在と無イデア、意識と無意識の関係が錯綜しているようなのですっきりしなかったようです。

根源に遡って、存在と無イデア由来であることを示して見ましょう。



認識とは意識があって始めて可能となるものです。認識された物が存在するとは、意識があるからです。この意識は無意識と随伴するものです。意識が存在を可 能とするなら無意識は無を可能にするでしょう。言い換えると、一人称が存在、三人称は無を可能にするということになります。

しかし、単純に意識が存在、無意識は無として良いのでしょうか?

どうもそうはいかないようです。

三人称は、定義2の「いなくてもいる」ですから、「あり・なし」同時の認識です。それに対して一人称は存在か無ですから、「ある」か「なし」のどちらかです。つまり、どちらも存在と無があるのです。それが分岐しているのか、同時なのかの違いがありそうです。

「あり・なし」同時の認識とは、即非ですから「空」です。空とはカオスの空っぽの容器です。MPの即非としての空です。この空は、MP1とMP2の二重性を持っており、MP1は無意識とMP2は意識面と繋がっています。

MP1の無意識はイデアの世界の空の「ありとなし」の即非性をそのまま持っていると言って良いでしょう。それに対して、MP2の意識は、即非性を分極して、「あり」と「なし」になるでしょう。それが一人称の認識として存在と無という形で現れてくるのでしょう。
シムダンス「四次元能」




Mon, August 20, 2012
自己意識問題:近代的自己意識分裂様態から新しい全体的自己意識様態への進化
テーマ:無双PS原理
自己意識問題:近代的自己意識分裂様態から新しい全体的自己意識様態への進化

原初MPが作用する場合、それは、近代においては、反動様態であるが、それは、全体的自己意識志向性をもっているのではないだろうか。それに対して、近代意識はデカルト的自己傾斜した意識、近代的自己、近代合理主義意識である。
 だから、原初MP的全体自己意識をもつとき、近代意識は、自己疎外的作用をするものとして、現れる。前者は、史的には、ロマン主義になると考えられる。
 神秘主義的詩人版画家のウィリアム・ブレイクの幻像的詩で言うと、ロスとユリゼンの対立・闘争となるだろう。
 ここには、分裂があるのである。全体的自己意識と自己同一性意識の分裂である。しかしながら、魂、サイキを重んじる立場ならば、前者が主導的である。
  では、この二つの自己とはいったい何であるのか。文化史的に言えば、前者は古い自己であり、後者が新しい自己である。また、これは、近代文化史における、 分裂様態を意味する。これは、無双PS原理から言えば、未分化様態ないしは、連続的様態である。これは、一種病理的様態である。そう、自己分裂様態であ る。
  これを超克するのが、先ず、不連続的差異論の認識である。そして、初期PS理論そして無双PS原理の認識である。認識とは、意識、精神の力学である。(思 うに、霊的力学と言えるのではないだろうか。そうならば、認識とは、霊的認識と言える。ただし、今日においては、自己同一性化されて、物質的になってい る。つまり、物質的霊認識になっているということになる。)
 近代的自己分裂様態の超克とは、新しいMP認識を意味する。自己凸iと他者凹iと の新しい陰陽差異共振を意味する。言わば、自己が他者となり、他者が自己となるのである。自己と他者の即非様態である。また、これが、新しい個の様態であ る。文化史的に言えば、近代意識と前近代意識の進化的統合である。これは、トランス・モダンである。これは、ヘーゲル弁証法ジンテーゼではないだろう か。即ち、テーゼが、古い全体的自己意識(古い霊的自己認識)、アンチテーゼが、近代的自己意識、ジンテーゼが新しい全体的自己意識と考えられよう。
 しかし、注意すべきは、先に述べたように、アンチテーゼの否定は、論理的否定ではなく、規定である。だから、ここにおけるアンチテーゼは近代意識の規定である。
 そして、ジンテーゼとは、アンチテーゼを包摂する新しい全体的自己意識、即ち、不連続な他者と共振する自己意識の生成ということになろう。
 思うに、ジンテーゼをもたらすアウフヘーベン止揚揚棄)は、反の反、否定の否定というのは、ミスリーディングである。何故なら、反の超越論的包摂が止揚であると考えられるからだ。
 また、もともと、合という日本語がミスリーディングである。合ではなく、共である。あるいは、共立である。
  とまれ、新しい全体的自己意識であるが、アンチテーゼからそこへと到達するには、近代意識の他者が必要である。この他者との共立共振によって、それがもた らされるからである。つまり、単に形式的な論理があるのではなく、そこには、霊的認識的力学が必要なのである。他者存在という差異的質が必要なのである。
 そう、キルケゴールが質的弁証法を唱えたのは、正鵠を射ている。単に反の反、否定の否定では、止揚は不可能だからである。
 思うに、無双PS原理の差異共振原理(陰陽極性原理)とは、質的弁証法と同一であると言ってもいいくらいである。ただし、キルケゴールには、陰陽的差異共振の視点はなかったと考えられる。
 そう、結局、弁証法とは、三分法というより、四分法にすべきだと思う。即ち、?正⇒?反⇒?他者⇒?合(共立共振)である。一般に?の他者が弁証法に抜けているために、弁証法は現実的には全体主義、独裁主義に帰結すると考えられよう。



Sun, August 19, 2012
女性の意識を分析する:原始母権制父権制⇒新母権制:新陰陽均衡原理に基づく女性個の自立へ向けて
テーマ:新母権的社会:個的共同体
女性の意識を分析する:原始母権制父権制⇒新母権制:新陰陽均衡原理に基づく女性個の自立へ向けて

私は、父権主義批判をし、新母権主義を唱えている。その理由は、父権主義は、自己傾斜があり、世界を同一性化してしまうからである。言い換えると、機械、物質、貨幣・資本が支配することになるからである。
 これに対して、新母権主義は陰陽均衡点であるMPを支点として、自己と他者の共振する共同体を志向すると考えられる。
 これは、無双PS原理の理念である。しかし、現実において、ある女性には、強烈な支配欲が存している。これは、国家権力におけるそれというよりは、個人的関係におけるそれである。
 これは一体何であろうか。父権主義以前の社会は、母権主義、母権・母系制であったが、父権的民族によって征服支配されたのである。
 今は大雑把に言うが、この文化的トラウマが女性の心理にはあるのではないだろうか。それが、反動的に噴出して、男性を支配しようとするのではないだろうか。
 反動であるから、非合理・不合理・不条理的である。では、このトラウマの力学はどういうものか。
 前父権的母権主義とは、原始的MPに基点がある。それは、自己傾斜が存していない人格様態である。言い換えると、自我主義のない人格様態である。
 個は、自己と他者の二元論的分裂はなく、自己と他者の共同体的意識が存していたと考えられる。
 この原始陰陽共振様態意識が、父権社会によって抑圧されたと考えられる。
 父権的自己傾斜意識はまったく母権的意識を否定するのである。つまり、父権制の下の女性は、本質を否定されるのである。思うに、ギリシア悲劇のオレステイア三部作の復讐の女神は、この否定された女性の魂の反動様態であろう。いわば、狂気である。
 そう、父権制下の女性は、一般に、この被抑圧を認識していないのであり、無意識において、抑圧された母権意識を抱え、それが、反動的に噴出するのであり、それが、通俗的には、ヒステリーである。そして、それが、男性に対する女性のもつ支配欲の源泉と考えられる。
 では、新母権主義はいかに可能だろうか。女性に本来の陰陽均衡点MPをもたらすようなチャンスを与える必要がある。
 それは具体的にはいかなるものか。理論的に言うと、トランス・モダンであるから、前提として、近代の知恵を女性はもつ必要がある。その上で、東洋・日本伝統的な心身の叡智を学ぶ必要がある。
 そう、女性の個的独立が必要なのである。それは、陰陽均衡の心身叡智に拠るのであり、社会・経済的に女性の独立する場を与える必要があるのである。
 復讐の女神のような反動狂気に拠る支配欲ではなく、近代の知性をもった陰陽均衡叡智に基づく女性の個的自立・独立が目指されなくてはならないのである。
 そのとき、男性による女性の支配、そして、反動狂気的な女性による男性支配の捩れた社会はなくなり、新しい女性個と男性個との共振する共同体が生まれるだろう。
オレステイア - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/オレステイア - キャッシュ
『慈しみの女神たち』 に移動‎: 復讐女神(エリーニュース)に付きまとわれるオレステースは、放浪の末にデルポイの神殿にあらわれ、アポローンにすがるところから話 ... 「http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=オレステイア&oldid=40751082」から取得 ...



Sat, August 18, 2012
他者とは何か:自己凸i¬--MP--他者凹iの連続的様態から不連続的様態への意識の進化
テーマ:無双PS原理
他者とは何か:自己凸i¬--MP--他者凹iの連続的様態から不連続的様態への意識の進化

本問題をまた検討する。
 不連続的差異論は、新しい哲学的理論の出発点であった。その意味は、私の意識(心理学的には、サイキと言えよう)においては、正に、「革命」であった。
 しかしながら、一般的には、その意義はほとんど不明であろう。その意味を含めて、問題点を復習したい。
 人間の意識は無意識を含めて、三つの極があると見るのが妥当と考えられる。(三つ巴や三神一体は、そのシンボルであると思う。無双PS原理では、凸iと凹iとMPである。)
 わかりやすく言おう。「わたし」は頭に存する。「こころ」は胸に存する。ここまでは、普通である。問題は、いわゆる、無意識である。私は、「肚(は ら)」を一般に無意識であると考えるが、私の仮説では、それを意識に加えて、三つの極、三元性を唱えるのである。つまり、「頭」と「胸」と「肚」である。
 「頭」が自己であり、それは、他者認識をするときに、実は、自己を他者に押し付けるのである。これが、自己同一性という志向性である。
 そして、他者はどこに存するのかが、決定的に重要な問題である。一般的には、他者は外部に存する外在的存在である。
 しかしながら、外部の他者を、一般的には、自己(「わたし」)は、そのものとして、つまり、差異として、受容することができないのである。自己優位に、 他者を取り込もうとするのである。このとき、自己は内的他者を否定するのである。つまり、「肚」を否定・抑圧するのである。厳密に言うと、MPにおける自 己凸iと他者凹iの陰陽共振像に、自己像を投影して、陰陽共振像である他者を否定すると考えられる。
 だから、自己による外部の他者の否定とは、実は、均衡調和点として、MPの否定なのである。それは当然、同時に、内的他者凹iの否定でもある。
 つまり、自己による他者への対応とは一般的には、二重の否定と考えられる。他者自体の否定と均衡調和点としてのMPの否定である。
 この二重否定に対して、他者ないしは「無意識」の側からの言わば反動があるのである。自己による否定・抑圧に対して、それは、二つの反動である。「肚」とMPからの反動である。
 これは、いわば、ロマン主義神秘主義という様態をとるだろう。そう、近代的自我、近代合理主義に対する反動である。
 しかし、人間の意識において、自己は否定のしようがないから、当然、両者は二元論的になる。あるいは、二つの二項対立が形成される。つまり、自己優位と他者劣位の一つの二項対立と、他者優位と自己劣位の一つの二項対立である。分裂的意識様態である。
 この分裂様態は、不連続的差異論でいう、連続的様態と言える。というのは、自己傾斜という力学が根本にあるために、自己同一性の優越力学が作用するので あり、そのために、他者を自己へと取り込む否定・抑圧作用があるのであり、この他者への否定・抑圧的力学が自己と他者との連続性、連続的同一性をもたらす ということである。
 このシーソーのような分裂様態において、ある均衡が形成されうるのである。それは、一般的には、冷静、平静、落ち着きというような心的状態においてである。
 それは、端的に、他者である「肚」と自己である「頭」のバランスを意味するのである。一体それは、何によってもたらされるのであろうか。
 それは、均衡調和点としてMPによってである。これは、以前、霊愛と呼んだ作用をもっている。キリスト教の自己否定的な他者愛、隣人愛ではない。陰陽均衡的な差異共振的精神作用である。キリスト教の用語で言えば、聖霊に相当すると考えられる。
 意識の分裂様態にあって、いわば、無意識に、均衡調和点としてのMPが作用するのである。しかしながら、これでも、未だに、連続的様態にあるのであり、明確な不連続的様態は形成されていないのである。
 ここにおいて、不連続的差異論の画期的な意義が存するのである。不連続性ないしは、不連続化とは何であろうか。
 それは、端的に、自己の頭の意識と他者の「肚」の意識が不連続であるという認識である。一般に自己傾斜があるので、他者と否定的に連続化しているのであ るが、無意識の均衡調和点としてのMPの作用によって、自己と他者の無意識のバランスが形成されるが、そこにおいて、自己と他者が不連続であると認識する ことで、両者の明確な不連続性が形成されるのであり、それは、いわば、意識の進化と言えるのである。
 言い換えると、それは、自己認識の進化である。自己は他者を否定的同一性化するのを止めて、他者を他者として受容する意識に達したのである。
 そして、このとき、自己と他者の意識的な積極的な差異共振(陰陽共振)がもたらされるのである。これは、ほぼPS理論ないしは初期PS理論の段階である。無双PS原理は無双原理の一元論=太極を取り入れた上で、これを継承しているのである。
 以上、本件の検討を終える。
 
追記:初期PS理論はまったく『海舌』氏の功績である。
海舌 SeaTongue@Kaisetsu
blog.kaisetsu.org/ - キャッシュ
海舌 SeaTongue@Kaisetsu. 『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile ★★You will find many keys which get to the real future by reading this "Kaisetsu Blog" carefully.

http://www.googleadservices.com/pagead/aclk?sa=L&ai=Cy_5Ra9FUUMT8DNHKlAWujYCACZmQmsQCwYawwj_R9JaMHBABIN6mlApQ2_HvOGCJ68eE-BOgAanWieoDyAEBqQJBEX86C25LPqgDAaoEck_Q06TCV4HMU8etAXc65sM0PAUVgbxh-Cxwkxop5SVO4vIOnpCDf1fpycS0HgikY1duhARzsb5lZgmbDeMPwVFjxo_sUVxMazI5lR2DVwlc546DJu9UU1POJD3jmbrYv-uDobnwdoxPrww-OyFYVGB8YIgGAQ&num=1&cid=5Ghon8F64pTTbUkyalnmlS3W&sig=AOD64_2ZxW-naKWAWXdeTLEoeLEBQ39HiA&client=ca-cyberagent-ameblo_js&adurl=http://www.workport.co.jp/lp03/index.html%3Fcctype%3Dadwords



Fri, August 17, 2012
超越的と超越論的:超越論性と超越性をどう区別するのか
テーマ:manichaeism: 哲学
超越論性と超越性の区別は、哲学において、きわめて重要なものであるが、私は、無双PS原理を展開していく中で、だんだんわからなくなってきたので、ここで、簡単に検討してみたい。
 超越論性は、カント哲学から来たものである。それは、簡単に言えば、人間の認識を規定する先験的な原理のことである。
 それに対して、超越性とは、人間の認識を超えた「もの」を指していると言えよう。
 ここで無双PS原理を考えると、物質性を超越した気を考えているので、そこには、超越性がある。しかしながら、気ないしは陰陽極性は人間認識を規定して いるものと考えられるので、超越論性があるのである。もっとも、正確に言えば、気は生命を規定しているのであるから、厳密には、超越論性はない。しかし、 私は気の領域である虚軸に認識性をおいているので、超越論性を考えることはできるのである。
 この点は微妙な点であり、説明が要る。霊から始めないといけない。超越円が根源的に個霊的であり、元自己と元他者の極性をもっていると考えられる。それ が、気の領域である虚軸に重なると考えられる。その結果、人間認識は、気(生命)とさらには、物質と重なる自己意識並びに、他者意識をもつと考えられる。 故に、気における超越論性が説かれるのである。
 次に、霊の次元であるが、これは、一般の人間認識を超えるのであるから、当然、超越性でである。
 しかしながら、霊の次元は、気の次元、そして、物質の次元を規定するのであるから、超越論性と言えるのではないだろうか。
 以上、本件に関する私説を簡単に述べておくに留める。
超越的と超越論的
2010/09/14/Tue
「超越的と超越論的のちがいって何? そもそもちがいなんてあるの? うん、ある。どういうちがいかーっていうと、まず超越的はドイツ語で transzendent、超越論的はtranszendentalになる。語尾が異なる。それでこの区別を考えたのはほかならぬドイツの哲学者カントで あって、カント哲学のある意味根本がここにかかわってくる。紛らわしいうえに細かいけれど。」
「本当に細かいのよね。しかし哲学というのはこういった基本的な語の区別に大きな意味が込められているものだから、あだに疎かにできないといっていいでしょう。ま、しかたない基本ね。」
「そ れじゃ最初に超越とはいったい何か。‥超越という言葉自体は昔からあって、たとえば古代ギリシアプラトンが説く「イデア」は超越的なものとして考えられ ていた。ところで「超越」transcendenceってなんなのだろうって考えると、「越えて」という意味の接頭辞transと「登る」という意味の動 詞scandereの二つがくっついてできた言葉がtranscendenceってことになる。つまり「越え登る」という感じで、垂直や高さを想起させる 言葉であることがわかる。でも、じゃ、いったい何を超えるっていうの? それはカテゴリー。範疇や領域を超え出ることこそが、超越という言葉の意味だっ た。」
現代社会でもよく使われる「カテゴリー」とはアリストテレスが示した概念であり、それはそもそも述語の種類を示す言葉だったといっていい でしょう。すなわち「実体」「や「量」、「場所」や「関係」、等々、つまりこの世界に存在する存在を記述するために必要な概念として、「カテゴリー」とい うものが創案された。それは要するに、主語になる実体を把握するため、述べるために求められた枠組であったということね。」
「でもこのカテゴリー に収まりきらないものがでてくる。それは何かなといえば、「善」や「美」といったプラトンイデアの例として好んで持ち出す概念だったり、そもそも「存 在」という言葉自体が示す何かは、カテゴリーで分けることができない何かだった。なのでこういったカテゴリーに入りきらない、つまりカテゴリーを「越え出 て」しまう概念を「超越」とか、「超越的」とかって言葉で指し示そうというのが、超越という言葉の背景にある。‥これが中世までのことで、近代に入ると先 に挙げたカントが登場し、カントは「超越」という言葉を「人間の経験を越えたもの」として説明する。というのも、近代に至ると哲学の中心のテーマが「神」 から「人間」へと移るわけで、「超越」もまた「人間」を基本にして研究されるようになるからなのだけど、ではカントがいう「超越論的」とはなんだろう。」
「カ ントは人間の直観を超えるもの、別な言葉でいえば、人間が知りえない何かを「超越的」と呼んだ。そしてそれに対するものとして「超越論的」という言葉が生 れる。超越論的とは何かということ、これは非常に端的にいえば、対象そのものではなく、ある対象を認識する人間の認識の仕方、それがすなわち「超越論的」 ということになるでしょう。」
「それはいったいだからなんなのかーってことなのだけど。‥こういってみよう。人間はいろいろなものを認識して生き ている。他者とか言葉とか音とか思想とか、そういったもの。でもさて人間が何かを認識するとき、何か制限というか条件はないかな。たとえば音を聞くには耳 がなければいけないし、日本語を理解するには日本語を知ってなきゃいけない。映画を見るにはお金がいるし、二十歳以上じゃないとお酒は味わえない。‥する と人間が物事を認識するためには、たとえば生物学的な条件とか、あるいは心理学的条件とか、社会的条件、文化的条件などいろいろある。そしてカントは考え た。こういったいろいろな条件はあるにはあるけれど、でもそれらはすべて経験でできてるものじゃなかろうか、もしかしたら経験に拠らず、認識そのものを可 能にする根源的な条件があるんじゃなかろうか? ‥ということで、この「認識を可能にする根源的な条件」を指して、カントは「超越論的」という。「超越 的」は「経験を超えるもの」、「超越論的」は「人間の経験を可能にするもの」。」
「ややこしいのよね。なぜカントが「超越論的」という言葉を使っ たかだけれど、これはカントの人間への深い洞察が関係している。というのも、超越とは人間の経験を超えるものだから人間には理解しえない。しかしそれと同 時に、人間自身も対象となりうる存在であり、その意味では超越的といっていい。すると人間は超越的であると同時に、つまり人間には知りえない存在としてあ ると同時に、現象を認識する主体でもあるということになり、この二重性からカントは「超越論的」という言葉を使った。つまり「超越論的」とは「超越的」と 非常に近い関係があるという洞察があったのでしょうね。‥ま、なんかまだぜんぜん足りないけれど、このエントリはここでおしまいにしましょう。きりがなく なってしまうかしら、これ。」
http://mugi4ishida.blog71.fc2.com/blog-entry-1905.html
隠れ蓑〜penseur〜

超越的と超越論的
mugi4ishida.blog71.fc2.com/blog-entry-1905.html - キャッシュ
2010年9月14日 – 超越的と超越論的のちがいって何? そもそもちがいなんてあるの? うん、ある。どういうちがいかーっていうと、まず超越的はドイツ語でtranszendent、超越論的はtranszendentalになる。語尾が異なる。それでこの区別を考えたのはほかなら ...
http://www.googleadservices.com/pagead/aclk?sa=L&ai=CTRBHbNFUUNbCAsLKlAWRzYHwD9W_-vgBhdDMxSSV7aG9bxABIN6mlApQytaaWGCJ68eE-BOgAfngv-0DyAEBqQJBEX86C25LPqgDAaoEdE_Q1KBlIoxpN6tXmshgh45yNNEyOsuRSEFFgcje2CrNXa1AhV1U0nXXRM11V37mpwBCEF-jj3BJ8untKpgcS5TevV79LSPBlYj1zYYNMiB0XosHaq8UNUs_2Ao5uW9LL2zqPd_5Er5qwrzS9yMPuPGAeh68iAYB&num=1&cid=5Gg2FDbmKhtyiWaU6RydQCVf&sig=AOD64_2RdBvgMsle12MYv37II2WV73J6gA&client=ca-cyberagent-ameblo_js&adurl=http://hotel.jp/link/entrance%3Fdisc%3D1b7e345bf47f0d48bc5a1ffd6fbfd5bfa0eb150c%26t



Fri, August 17, 2012
『アロンの杖』(D.H.ロレンス)を読書中:戦争を問う哲学的小説
テーマ:literature
以前、日本語訳で読んだが、ほとんど印象に残っていない。何か粗雑
な感じをもった。
 しかし、今、原文で読んでいるが、戦争や人間存在を扱った深刻な作品であることがわかった。戦争を東アジアで起こすための政治的画策が為されている今、戦争のもつ悪魔性を抉り出している本作品を強く薦めたい。 
 二言、ロレンスについて簡単に述べたい。
 一つは、『チャタレイ夫人の恋人』でかつて有名になったため、性の作家として見られているのが、作家自身、そして、読者層にたいへんな不幸をもたらしている。彼は、稀有な哲学的作家であり、西洋文明の問題を徹底的に問うているのである。また、きわめて、東洋的である。 
 もうは一つは訳の問題である。ロレンスの英語を日本語にするのはとても難しい。ぶっきらぼうに簡潔であり、また、口語的なので、いたずらに日本語にすると軽薄に見えるのである。これは単なる感想であるが、本作品の訳で読んだので、粗雑な印象を受けたのかもしれない。

オンライン版
Aaron's Rod / D. H. Lawrence

Aaron's Rod--Text

『アロンの杖』D.H.ロレンス著|外国文学(イギリス文学他)
ameblo.jp/gaikokubungaku/entry-10006814272.html
2005年12月6日 – テーマ:D.H.ロレンス. 『アロンの杖』(1922年) D. H. ロレンス著 第1章 「青い玉」:クリスマス・イブ。戦争が終わり、ほっとした感じがあるが、同時に悪夢の暴力が一般的な雰囲気にある。アロンの家では、娘達がクリスマス・ツリーの用意をして ...
アロンの杖:D・H・ロレンス
homepage3.nifty.com/coderachi/lawrence/aarn.html - キャッシュ
アロンの杖. D.H.ロレンス. 第一章. 青い玉. たそがれかけた空に大きな宵の明星が輝き、足元の地表は凍りかけていた。クリスマスイヴだった。 戦争も終わり、新たな脅威とも言える安堵感があった。悪夢の猛烈な不快感が今、社会の空気全般に解き放たれたの ...
Aaron’s Rod: Cambridge Lawrence Edition; Revise.../Penguin Classics

¥1,742
Amazon.co.jp



アロンの杖 (八潮版・イギリス・アメリカの文学)/八潮出版社


¥1,995
Amazon.co.jp
内容(「BOOK」データベースより)
機械文明の桎梏を打破し、真に人間として生きるにはいかなる方途があるのか?第1次大戦後の混迷するイギリスとイタリアを舞台に、ヨーロッパ文明に潜む危 機と脅威を容赦なく抉り出し、「生」の新たな方途へのヴィジョンを大胆に提示しようとするロレンスの問題作。

5つ星のうち 4.0 娯楽のつもりで読まないように 2011/1/24
By thomas
形式:単行本
問題作です。
どう問題なのかというと、悪意を持って批評しようと思えば幾らでも悪く言うことができてしまう作品であるということです。
表現はこの上なく率直で、正直で、忌憚なく、そのため刺々しさに満ちているようにも感じられます。
理想に燃えている人にとっては良い試練になるでしょうし、それとの戦いに疲れた人にとっては良い薬になるかもしれません。
いずれにしても、単に不愉快な気持ちを抱いて終わってしまわないために、装備は万全に整えて臨みましょう。

フロイト精神分析
マルクスの経済学
ニーチェの哲学

このあたりの知識を携えて臨めば、まあ書かれていることの意味がさっぱり解らないということにはならないでしょう。

一言ヒント:書かれた言葉を文字通り受け取らず、その裏にある意味を読み取ることに集中すること。

参照:

「非現実的な夢想家」が世界を変える!
【転載開始】2012年8月15日 (水)

「非現実的な夢想家」が世界を変える
敗戦から67年の時間が経過した。
改めて心に刻むべき言葉がある。
長崎大学医学部教授であった永井隆氏が死を前にして幼い二人のわが子に遺した言葉だ。
永井氏は原爆で妻を失い、自らも原爆に被爆していながら余生を被爆者の治療に捧げた人物である。
永井氏の言葉はいまも力を失っていない。
可燃性の高いナショナリズムを煽る風潮が強い現下の状況のなかで、私たち日本人がもう一度かみしめるべき言葉が刻まれている。

「いとし子よ。
あの日、イクリの実を皿に盛って、母の姿を待ちわびていた誠一よ、カヤノよ。お母さんはロザリオの鎖ひとつをこの世に留めて、ついにこの世から姿を消してしまった。そなたたちの寄りすがりたい母を奪い去ったものは何であるか?
――原子爆弾
・・・いいえ。
それは原子の塊である。
そなたの母を殺すために原子が浦上へやって来たわけではない。
そなたたちの母を、あの優しかった母を殺したのは、戦争である。」
「戦 争が長びくうちには、はじめ戦争をやり出したときの名分なんかどこかに消えてしまい、戦争がすんだころには、勝ったほうも負けたほうも、なんの目的でこん な大騒ぎをしたのかわからぬことさえある。そうして、生き残った人びとはむごたらしい戦場の跡を眺め、口をそろえて、――戦争はもうこりごりだ。これっきり戦争を永久にやめることにしよう!

そう叫んでおきながら、何年かたつうちに、いつしか心が変わり、なんとなくもやもやと戦争がしたくなってくるのである。どうして人間は、こうも愚かなものであろうか?」
「私たち日本国民は憲法において戦争をしないことに決めた。…

わが子よ!


飄(つむじ風)




Thu, August 16, 2012
霊と気との関係再考:超越円は霊的情報であり、且つ、気的極性を形成する
テーマ:無双PS原理
先に次のような論考(霊と気との交差様態:MPにおいて霊的極性情報が気的極性に刻印される )を行ったが、本質的な問題が十分考察されていないため、たいへん不備のある考察なので、ここでさらなる解明を試みたい。
 先に、霊的情報が気的情報に刻印されると述べたが、そうすると、両者は別々に存するように考えられるだろう。しかしながら、超越円(霊的円、霊円)から 気の極性が形成されたとそれ以前に述べていることと、霊的情報が気的情報に刻印されるということとは、整合性がないように見えるのである。
 こう考えたらどうだろうか。超越円の虚軸のほんの一側面が気的極性である。しかしながら、当然、気的極性以外に領域を超越円はもつのである。
 この気的極性以外の超越円の領域が、正に霊的情報であると言えるのではないだろうか。そう考えれば、上記の不整合のように見える事象が解明されることになるだろう。つまり、霊的情報は、気的極性を生成させつつ、同時にその気的極性に自らを刻印するのである。
 とまれ、以上で、一応、不備は解消された。厳密に言えば、人間、動物、植物、ウィルス・細菌等、鉱物の区別をすべきなのであるが、今は、人間の場合に限定した。
 しかし、ひょっとしたら、超越円は、気の根因であり、人間の個霊とは、いわば、超超越円、超超越軸に存するのかもしれない。そうすると、四次元世界を考えなくてはならなくなる。
 しかし、そうする以前に、現時点の枠組みで考えるべきである。ここで簡単に述べると、人間以外の宇宙や自然の形成であるが、それは、気的情報が基本であ り、そこには、個霊的情報はないと考えられる。シュタイナーは、動物霊は、類的、集合的であり、個的差異はなく、また、植物にはないアストラル体があると 述べていることを参考にすると、思うに、進化の層が異なると見るべきではないだろうか。
 思うに、ある進化段階において、類的霊(動物霊)による創造・産出があったのであり、それと人間の進化のレベルをいっしょにすべきではないと考えられる。
 同様に、植物、ウィルス・細菌等、鉱物なども、それぞれ、異なる進化の層があったと考えるべきだろう。
 最後に、アストラル体について簡単に考えよう。
 人間においては、感情・欲望の意識体であるが、それは無双PS原理では、当然、MPに存すると考えられる。しかしながら、それは、均衡調和のとれたMP ではなく、自己傾斜をもつMPであると考えられる。しかし、そのようなMPの考え方は均衡ポイントであるMPの概念と合致せず、齟齬となる。
 しかしながら、MPは純粋な均衡調和点であると同時に、また、自己傾斜に拠る連続性、同一性、まとめて、連続的同一性の様態を帯びるのであるから、これは、齟齬ではないということになる。
 今はここで留めたい。
http://www.googleadservices.com/pagead/aclk?sa=L&ai=CV8H1FdJUUMq6LsurmgWc9YHwAr2w7LMC_cLI-zHAjbcBEAEg3qaUClDgj7Pl_v____8BYInrx4T4E6AB4KGO_wPIAQGpAkERfzoLbks-qAMBqgRuT9BInPhp__vZaAoW1sDje1v2unMqPIfc1ro2WJvdzqjbRo025j3xbGb4cufCqEZr4cMcddrTX_h44Ms0XO9_RUlP7234Pders4bcqr2AfvFnDKJBJYkBvBcM8b7Kt5JVfACT0NwUq7vYhGIyi6-IBgE&num=1&cid=5GjkKTCD13NI5U6XTjvKnko7&sig=AOD64_0frnyKC_ad8ggSJtiM-n0T3X_klg&client=ca-cyberagent-ameblo_js&adurl=http://spiritualjp.com




Thu, August 16, 2012
巨大銀河団「フェニックス」とは何ぞ哉:ブラックホールは−1、光は⇒、銀河団は+1
テーマ:cosmos
無双PS原理から見ると、「フェニックス」の中心には、MPが存するのであり、気が螺旋的に銀河団を生み出すと考えられる。
 ブラックホールはマイナス1に存すると考えられる。当然、光は⇒であり、プラス1が銀河団である。
大量の星生み出す巨大銀河団「フェニックス」発見、 57億光年のかなたに
2012.08.16 Thu posted at 11:14 JST
[PR]
ウェブプログラマー募集!技術の力でメディアを進化させよう
住まいの豊富な情報を掲載「SUUMOライフ特集」

(C) NASA/CXC/M.Weiss
(CNN) 米マサチューセッツ工科大学NASAの研究チームは15日、地球から約57億光年の距離に、これまで観測されたことがないほどの勢いで新たな星を生み出している巨大銀河団を発見したと発表した。巨大銀河団は「フェニックス」と名付けられた。
研究チームによると、フェニックスは何百、何十万という銀河と暗黒物質と高温ガスで形成され、質量は太陽の約2500兆倍。明るさや温度もほかと比べ、群を抜いて高いことが分かった。
中心部にある銀河では年間740あまりの星が新たに誕生しているという。これと比較すると、地球のある銀河系で誕生するのは年間1〜2個にとどまる。
専門家によると、星は冷却されたガスの密度が高まって形成されるが、例えばペルセウスなどでは、ブラックホールの存在が形成を妨げている。一方フェ ニックスの場合、中心部の銀河に巨大ブラックホールが存在するものの、大量の高温ガスがブラックホールとの「勢力争い」に打ち勝っていると考えられる。
フェニックスのような銀河団を調べれば、銀河とブラックホールの共存関係を解明する手がかりになると専門家は解説している。
http://www.cnn.co.jp/fringe/35020504.html?google_editors_picks=true



Wed, August 15, 2012
霊と気との交差様態:MPにおいて霊的極性情報が気的極性に刻印される
テーマ:無双PS原理
無双PS原理はまだまだ不十分な箇所がたくさんあるグランド・セオリーの仮説である。
 先にも述べたように、一つ一つ解明を重ねるしかない。
本記事においては、霊と気との交差の様態の力学について検討したい。
 先に、超越界=霊界の超越円の根本性を述べた。おそらく、それは元太陽であり、「天照大神」である。
 超越軸z軸と虚軸y軸の平面(超ガウス平面とでも言おうか)の「単位円」が超越円である。それが、また、太極であり、虚軸において、陰陽気極性を形成すると考えられる。そして、陰陽極性の均衡ポイントがMP(Media Point)、原点である。 
 気について言えば、陰陽極性様態のみを確認すればいいのであるが、実は、MPには、霊の力も作用していると考えられるので、複雑であると直観されるのである。
 気の力だけでなく、霊の力もMPに作用しているが、その二つの力の関係
 はいかなるものであるのかというのが、本稿の主題である。
 とは言え、先に、霊がソフトで、気がハードであると比喩的に述べた。霊が情報信号であり、気がそれを伝える搬送波と見てもいいだろう。
 あるいは、霊が精神情報であり、気が生命情報と見てもいいだろう。
 とまれ、前者が後者にいわば、刻印するのである。精神情報が気情報を一種形作るのである。そう、個の霊の情報が気の生命情報に刻まれると言えよう。
 この個霊の刻印にカルマ、さらには、その展開である輪廻転生を見ることができよう。そう、個人において、この個霊は絶対的な規定であり、カント哲学的に 言えば、一種の超越論性と言えよう。個的超越論性である。運命、性格、才能、容貌等はそのようなものであろう。もっとも、遺伝である気の生命情報が下敷き にあるのであるが。 
 では、本題に入ろう。
 実に難問であるが、一つの作業仮説として、MPにおける三層構造、即ち、霊の層(霊層)と気の層(気層)と物質の層(物質層)を見て、順番に高次元から低次元へと降下すると考える見方がある。
 気と物質の関係で言えば、物質に対して、超越性である気は、その陰陽極性が超越的ないしは超越論的情報であり、それが、物質様態を決定しているのである。
 それと同様のことを、霊と気との関係にも見られるとするのである。
 即ち、気に対して超越性である霊は、その超陰陽極性が超越的ないしは超越論的情報であり、それが、気的様態、気の陰陽極性を規定していると考えるのである。
 簡単に言えば、霊的極性が気的極性を規定するのであり、それが、霊の気への刻印、即ち、カルマである。
 これで一応、本題の一つの解明ができた。
 では、最後に、太霊と個霊の関係について考察しよう。
MPにおいて、気に刻印する霊は当然、個霊的でなくてはならない。そうすると、大根源の太霊は個霊であるのであるが、太霊は無限に多様な個霊でなくてはな らない。無双PS原理は一元論であるから、一元の太霊は多元の個霊でもあるということでもあるが、その論理はいかなるものか。
 思うに、太霊自体が、本質的に個的なのであり、それが、現象的展開をするときに、多様な個的現象として出現するということではないだろうか。
 陰陽方程式凸i*凹i⇒+1であるが、右辺の+1は、人間においては、個、その他においては、個体、個物と言えようが、両者をまとめて、個と述べておこ う。そう、陰陽方程式は、既述したように、人間に関しては、個方程式であるが、その他の森羅万象に関しては、個体方程式、個物方程式と言える。
 しかしながら、正確に言えば、太霊が個霊であるというよりは、太霊は、元個霊であると言うべきであろう。元個霊の情報が太霊にはあり、それが、気陰陽極性に刻まれ、そして、身体的に個的物質化すると考えられるのである。
 今はここで留めるが、後で、上記とは異なる考え方についても検討したい。

追記:タイトルを「霊と気の交差様態:・・・」としたが、検討の結果、交差という言葉はあまり正確ではない。
 霊的情報が気的情報へ刻印されるのであり、前者から後者への流れがあるが、その逆はないからである。



Tue, August 14, 2012
霊とは何か:霊の螺旋と気の螺旋:螺旋の螺旋としての現象界:太霊の個霊
テーマ:無双PS原理
気は無双PS原理においては、虚軸に存し、端的に、陰陽極性があるとわかる。
 問題は、超越軸の霊の力学である。
 これまでは、作業仮説的に、気のような極性を仮定してきた。即ち、凸j*凹j⇒+1というような方程式を考えた。
 もし、それが成り立つなら、超陰と超陽の極性、言わば、超気を考える必要がある。果たして、それでいいのか。
 これまでの仮説では、超越界とは超越円である。それは、超越軸と虚軸の平面で形成される「単位円」である。
 だから、霊ないしは神(まとめて言えば、神霊である)は、超越円として、存すると考えられる。
 そのように考えるならば、霊は気と同様に、極性をもっていると考えていいことになる。というか、霊のほんの一面が、正確に言えば、霊の虚軸成分が気であ るということになる。言い換えると、宇宙・自然・生命体は、霊の特殊な一面に過ぎず、それは、霊の変遷によって、変動するということになるだろう。そう、 あえて言えば、神も変動するのであり、それによって、気である宇宙・自然・生命体も変動するということになる。
 そう、霊も極性があるならば、やはり、気と同様に、螺旋的変化をもつだろう。
だから、霊の螺旋的変容と気の螺