他者・差異とは何か:自我・陽・凸iと他我・陰・凹iの差異共振・陰陽

正確な図は以下を参照されたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11291604855.html



他者・差異とは何か:自我・陽・凸iと他我・陰・凹iの差異共振・陰陽均衡・霊愛作用の復活


テーマ:超無双PS哲科学


本問題は、超無双PS哲科学仮説にとって、最重要な問題の一つである。
 PS理論の段階では、他者・差異を陰・凹iに置いて考えたのである。
 しかしながら、無双原理を吸収した超無双PS哲科学(Super Advaita[non-dual oneness] Platonic Synergy Philosophience:略して、SAPSP)においては、単純には、そうとは考えられなくなった。
 先には、他者・差異はMPの陰陽均衡作用において存すると述べたのである。
 自我を陽・凸iとして、他我を陰・凹iとすると、自我は、その同一性志向から、他我を否定的に捉える。そう、否定的な悟性が形成される。
 問題は、果たして、他我を陰・凹iとしていいのか。陰・凹iは純粋悟性の原理であるからである。
 しかし、光において、他我や対象を捉えるのであるから、陰・凹iを他我ないしは対象とするのは、妥当のように思えるのである。だから、いちおう、そのように作業仮説したい。
 他我・対象・陰・凹iを自我・主観・陽・凸iは同一性化するのである。つまり、有り体に言えば、我が物にするのである。何故なら、人間において、一般的に自我傾斜があるからである。とりわけ、父権主義において、それが顕著である。
 しかしながら、既述したように、人間には、原始差異共振主義、ないしは、原始母権主義が存する。それは、MPの陰陽均衡作用ないしは霊愛の作用である。
 ここにおいて、他我・対象は、自我の同一性欲望から切断されて、共感の対象、乃至は、他我・対象自体へと変ずると考えられる。
 霊愛であるMPによって緩和された他我がいわゆる、他者と言えよう。
 しかしながら、ここでは、意識において、分裂状態になっているのである。即ち、自我の同一性志向とMPの霊愛=陰陽均衡作用が併存して、両者、矛盾様態になっているのである。
 思うに、一般的に正常な人間はこれを使い分けていると考えられる。つまり、二元的意識の人間である。
 しかし、分裂状態は分裂であり、理論的に不整合極まりないのである。結局、極端化すれば、いわば、一種の統合失調症となるのである。
 しかし、この齟齬を解消したのが、既述したように、不連続的差異論である。つまり、自我的同一性(自我的連続的同一性)志向(欲望)を絶対的に切断して、即ち、自我・陽・凸iが支配(連続化)する他我・陰・凹iを不連続化して、自我・陽・凸iの支配・連続化から「救済」して、他者・差異(絶対的他者)に変容させて、結果、自我・陽・凸iと他我・陰・凹iの陰陽均衡作用をもたらしたと考えられる。
 そう、不連続的差異論とは、ほとんど、超無双PS哲科学の原形である。
 ただし、明確な差異共振性、陰陽均衡作用、あるいは、霊愛の段階には到達しなかったと考えられる。
 とまれ、自我・陽・凸iのもつ自我同一性作用(連続的同一性作用)の支配を「打破」したことで、自然本来のもつ陰陽均衡作用・霊愛作用の回路が決定的に開けたのである。
 そうここにおいて、超越性が明確に開けたのである。新たな宗教的エネルギーがもたらされることになったのである。
 そう、これは、トランス・モダン、イントラ・モダン、ネオ・オリエントである。
 唯物論は滅びたのである。新しい精神世界が開けたのである。そう、唯一多神教の神霊世界、聖霊教の世界が開けたのである。


参考:

         陰・凹i(-i)・光子:「天」:他我・対象
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−1________MP________+1
無機物          |           有機体・生命体
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         陽・凸i(i)・重力子:「地」:自我


        超無双PS哲科学的ガウス平面


参照:


ひどい政治の混沌。最大の原因は、小沢氏への「裏切り」行為にあります。


パターン知にすぎない紋切型の優等生集団=東大法学部の権威に依拠する官僚主義と一体化したわが国の自民党一党独裁政治は、永久に続くかとも思われましたが、小沢一郎氏を核とした民主党は「生活が第一」という思想に基づき、戦後はじめて選挙による政権交代の偉業をなしとげました。どなたも御存じの通りです。

ところが、官僚主義の元を断とうとする小沢氏を核とした政治活動が支持を集め政権交代が現実味を帯びてくると、検察庁は小沢氏の政治生命を断つための策謀を開始しました。これは、日本を官僚が支配する「官治主義」を守るための官僚の集合意識(無意識を含む)に基づく行為で、極めて根の深い「病気」が成せる業ですが、それを生むのは、彼ら自身も気付かぬ「客観知」(客観神話)という暗黙の想念なのです。これについては、3年前に参議院調査室から依頼された論文『キャリアシステムを支える歪んだ想念 』に記しましたので、ここでは繰り返しません。

検察庁の行為がいかにデタラメで恐ろしいものであるかは、特捜部の前田元検事の証言にもありますが、23年間の勤務で検察内部の事情に精通している郷原信郎さん(東大の数学科を卒業した後に司法試験に合格し請われて検察庁に勤務)が『検察が危ない 』に明瞭に記しています。郷原さんは、検察作成のストーリーに基づく小沢氏周辺への締め付けが開始された時点で、すでにテレビ出演して明瞭に検察批判を展開していました。彼は政治的には「反小沢」系の議員と親しい人でしたので、その発言は「色」が着いたものではなく、検察庁の策謀については、国会議員の多くは当然承知していました。

にも関わらず、民主党の国会議員は、思想でも選挙でも一番多くの恩がある小沢氏の周辺に検察の魔の手が伸びると、手のひらを返したように「反小沢」となり、見事なまでに彼を裏切りました。海外からの公平な目の代表であるウォルフレン氏もこの日本人の行為には呆れ果て警句を発しましたが、聞く耳持たずでした。

このような民主党議員の小心とエゴイズムによる裏切り行為がなければ、検察庁の策謀を契機にして(危機をチャンスにして)主権在民に基づく「民治主義」の新政権 VS 政治を官僚が主導する「官治主義」に基づく旧政権、言い換えれば、【主権在民 VS 主権在官】の闘いが分かりやすいカタチで始まり、日本の根本的な社会改革が始まったはずなのです。市民革命にも匹敵する大改革が。

きょう、財務省の思惑通りに消費税の増税が決まりましたが、日本の消費税という税金がインチキな間接税であることに対しては、いまだにあまり知られていません。今朝の東京新聞26面にはそのカラクリについて簡明に記されていましたが、この件についてはまた後で書きましょう。いまは、騙しのプロである財務省の罪は極めて重いとだけ言っておきます。


武田康


http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/e1e2425fc0657522b667b282ff7f399e


思索の日記



参考2:


近代史が明示していることは、あらゆる現象が資本のダイナミズムから生起するというある種の発展法則だ。換言するならば紛争も革命も利潤増殖を求める資本の循環運動プロセスであり、むしろ歴史現象は人格化した資本の顕現そのものであると言えるだろう。奴隷貿易プランテーションレーニンらへ拠出された革命資金、世界恐慌のトリガーとなった過剰マネーサプライ、ヒトラー政権の財政基盤であったドイツ・アメリカ合弁企業群、あるいはマンハッタン計画、大空襲後の東京都再整備事業、イラク・アフガン攻撃と現地の公共資源略取など、これらにかかわる「投資」の淵源が、おおよそ同一の寡占的資本であることは語るまでもない。「死んだものが生きているものを支配する」という教義はここでも普遍だ。資本は対立も国境もイデオロギーも空間すら超越する壮大なエネルギー体なのであり、むしろ人間活動そのものが「利潤増殖の絶対」というエートス(精神)に裏付けられている。我々はメカニズムへの洞察が欠落しているのであり、議会制民主主義という仮想現実に捕囚されているのであり、意思決定は民意を付託された政治者ではなく、圧倒的マネーと諸力をもって君臨する者の掌上にあると言えるだろう。ALIENは毎年30兆円をこえる産業資本を株式市場から略奪し、8兆円を超える社会資本(企業減税+還付税)を国家会計から収奪しているのだが、それに反比例して個々は加速的に疲弊し、雇用は切り捨てられ、社会保障は縮小され、破滅的な税制が導入され、つまりプレカラティ(労働と生活の不確実性)が最大化した挙句に、強烈な放射線の中で数十万人の児童が放置されているわけだ。人間生命にとってのディストピアは、投資集団にとってのユートピアであるのかもしれない。過剰増税原発稼動を決断した与野党の政治者らは、ALIEN経団連企業株主)の「政党評価表」で課せられた実行ノルマ達成のインセンティブとして、莫大な献金が確保されるのであり、つまり飼い犬の餌として、あるいは裏切りの代価として利益を得るのであり、あからさまに国家統治は外国人投資家の手に委ねられている。

http://alisonn003.blog56.fc2.com/blog-entry-230.html


独りファシズムVer.0.1











検討問題:時間とは何か:無限時間(アイオーン)と有限時間


テーマ:超無双PS哲科学


         陰・凹i(-i)・光子:「天」
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−1________MP________+1
無機物          |           有機体・生命体
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         陽・凸i(i)・重力子:「地」


        超無双PS哲科学的ガウス平面

以上の図(自然ガウス平面図と仮に呼ぶ)において、カント哲学における空間形式は陰・凹iであり、時間形式は陽・凸iである。
 しかしながら、両方とも、当然ながら、現象空間形式、現象時間形式であり、有限である。
 それに対して、ミトラス教、ズルヴァン教、グノーシス主義等で言われる無限時間は、上図では規定されていない。
 現象空間、現象時間を創造すると思われる無限時間は、当然ながら、超越界にあると考えられる。それは、超越軸z軸、超越円、あるいは、MPに存すると思われる。
 大根源をMPとすると、そこに無限時間があるのだろうか。そこは、無限時間をも超越した点であろう。
 だから、一応、超越円に無限時間が存すると作業仮説したい。

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超無双PS哲科学ガウス平面図解説:陰陽均衡作用の解放の為に:MPを介して光の神が到来する

テーマ:超無双PS哲科学     
    

        陰・凹i(-i)・光子:「天」
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−1________MP________+1
無機物          |           有機体・生命体
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              |
         陽・凸i(i)・重力子:「地」


        超無双PS哲科学的ガウス平面


尚、無双原理に倣って、陰・凹i(-i)・光子を上に、陽・凸i(i)・重力子を下に布置している。そして、MPは原点であり、media pointである。
 また、ガウス平面に直交する超越軸z軸や、z軸とy軸の虚軸が形成する超越円、超越界が本来存しているが、上図では、作図が難しいので、省略している。



検討問題:凸(+1)や凹(−1)とは何か:有機体、生命体的物質と無機物的物質


http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11284973493.html


先に以上のように作図したが、補足説明をしたい。
 簡単にするために、凹iを陰、又は-i、凸iを陽、又はi、凸(+1)を+1,凹(−1)を−1で表記する。
 陰(-i)には、純粋悟性が機能している、簡単に言えば、知性である。それは、頭、頭脳である。カント哲学では、空間である。
 陽(i)には、自我が機能している。それは、感情や意志をもつのである。それは、肚である。カント哲学では時間である。
 そして、MP(media point)、原点は、胸であり、霊愛をもつ。ここには、超越界からの聖霊が作用しているのである。
 そう、ここで先に述べたことは一面的であり、訂正する必要がある。即ち、自然円において、基本的には超越性はないのであるが、MP(media point)、原点が超越界に通じる唯一点であると述べ、それは、自然界では、現象太陽であると述べたが、それは外界、外在、外面的には正しいが、内界、 内在、内面的には誤りである。
 人間の内面においても、胸、心胸において、MP(media point)が存するのであり、そこが、超越界へと通じていると考えられるのである。
 魂という呼ばれるものもそれと考えられる。
 結局、MP(media point)は二つの点に存するのであり、一つの点は、外在的点である現象太陽であり、もう一つの点は、内在的点である胸・心胸である。
 次に、重要な変更を述べる必要がある。つまり、差異や他者の問題である。
 これまで、無双原理に接するまでは、ずっと、他者、差異を陰(-i)で考えたが、無双原理に接して、他者、差異は陽(i)になると予想してきた。
 しかし、それも違うと考えられる。
 いったい、そうすると、他者、差異は何処に存するのか。
直観で言えば、他者、差異を胸、MP(media point)で感じるのではないのか。
 自我、陽(i)は他者、差異に反発、反感、嫉妬する。そして、悟性(知性)、陰(-i)は、他者、差異を知的に認識しようとする。しかし、それは、悟性は言語認識であるから、同一性的に他者、差異を認識するので、他者、差異自体を受容していない。
 他者、差異を受容するのは、陽である自我と陰である悟性を抑制し、均衡させるMP(media point)、胸・心胸だと考えられる。
 何故なら、陽の自我は反発し、陰の悟性は同一性的把握(言語的把握)であり、両者は他者、差異を真に受容していないのであり、両者を抑制するMP(media point)、胸・心胸・魂こそ、そうできると考えられるのである。
 そう、他者、差異自体は、言わば、カントの述べた物自体であり、それは、絶対的には把握できないと考えられる。だから、不可知のものとして、他者、差異をMPは受容すると考えられる。
 また、単に、不可知のものばかりでなく、他者、差異への「共感性」が生じると考えられる。それはどういう力学に拠るのだろうか。
 それは、鈴木大拙即非の論理のもつ力学と考えられる。
 陽の自我は自己求心性をもつので、他者、差異を否定する。陰の悟性は遠心性をもつので、他者、差異を放置、放散させる。
 しかし、両者は陰陽であるから、牽引作用があるのである。この牽引作用がMP(media point)、胸・心胸・魂に作用すると考えられるのである。
 というか、陰陽牽引作用がMP(media point)、胸・心胸・魂の作用ではないだろうか。
 ここは実に微妙な問題点である。
 陰陽の均衡作用は自然においては、常に為されていると考えられる。
 しかし、人間の場合は、自我に傾斜しているので、不均衡的なのである。言い換えると、自我同一性や悟性同一性の二つの同一性が支配的であると考えられる。
 言い換えると、自然本来の陰陽均衡牽引作用は人間には、一般的には作用していないと考えられる。
 だから、陰陽均衡作用を自ら形成しないといけないことになるのである。
 以前述べたことだが、人間には原始の陰陽均衡作用が潜在すると考えられるのである。
 それが、MP(media point)、胸・心胸・魂として、配備されていると考えられるが、それは、陽・自我、陰・悟性によって抑圧され、埋没していると考えられる。
 しかしながら、それは、人間の精神の故郷であり、諸芸術の源泉であり、端的に霊愛の源泉である。
 この埋れたMPを開化させることによって、人間において、陰陽均衡作用を復活させることができると考えられる。
 ただし、問題は、陽・自我と陰・悟性のもつ枠組みを否定しないようにしないといけないのである。そうでないと、物質的世界・社会には合わない、逸脱、倒錯したものになってしまうと考えられる。
 だから、十分に陽・自我と陰・悟性を準備して、MP(media point)、胸・心胸・魂を開発すべきということになるのである。
 その一つの重要な方策はPS哲科学の前身である不連続的差異論である。
 それは、陽・自我と陰・悟性の癒着、連続性を立ち切って、陽・自我と陰・悟性との均衡をもたらす働きあると考えられるのである。
 しかし、連続性を切断するものは、実は、MPの作用であると考えられる。
 結局、陰陽均衡作用を形成するには、準備として、優れた芸術・文化によって、MPを陶冶・涵養しておく必要があるのである。
 優れた文学、音楽、美術、哲学、宗教等、そして、豊かな自然等に接する必要があるのである。
 しかし、物質科学である近代合理主義は、陽・自我と陰・悟性の形成をもたらしたが、MP(media point)、胸・心胸・魂の陶冶・涵養はまったく疎かにしてしまい、言わば、自我悪魔を形成したのである。
 そう、近代主義は物質文化を形成したが、精神文化を衰退させてしまったのである。
 とまれ、抑圧され、埋没したMPを発掘して開発することで、新たに、超越界に通じることができるようになるのである。新しい宗教が生まれるのである。それは、聖霊宗教であるが。
 とまれ、それは、トランス・モダン、イントラ・モダンであるが、物質的基礎を介して、形成されると考えられる。
 思うに、時代的に、超越エネルギーが強化されていると思われるのである。それは、人間の内面のMP、そして、自然界の外在の現象太陽のMPに強くはたらきかけていると推測されるのである。
 この超越エネルギー、神霊エネルギーは、陰陽均衡の開化を刺激的に促進するが、陽・自我と陰・悟性に囚われた近代人は、そのエネルギーを積極的に摂取することができないので、反動的になり、病理化したり、凶悪・犯罪化したりするであろう。
 とまれ、MP、胸・心胸・魂の解放が必要である。そう、太極である光の神が到来するのである。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11285790892.html