ルネサンスの精神における光と闇:光への希求が闇と出会う:光と闇の
ルネサンスの精神における光と闇:光への希求が闇と出会う:光と闇の即非合一
テーマ:media point
既述したが、D. H. ロレンスは西洋において、イタリア・ルネサンス以降、「光への努力」Striving for Lightがあると言った。
ルネサンスの精神とは語り尽くされたものであるが、私説を言うと、それは闇から光への希求である。根源に闇があるのである。それが光を求めたのである。
闇からの光への志向であるので、そこには、media point、ないし、超越光があった。しかしながら、光は外界と結びつき、根源の闇が忘却されて、光の志向は外界、物質界へと閉じられていった。
西洋の個人の個とは、この力学から生まれたと思う。光の志向の帰結がデカルト哲学と考えられる。個から自我(近代的自我)へと展開したのである。
結局、根源の闇、個が忘却されて、光と自我が残ったのが、現代である。
これは虚である。同一性の機械の世界であり、自動人形の世界である。機械仕掛けの人間の世界である。
近代合理主義は闇、個を嫌い、光と自我の世界を構築した。しかしながら、根源の闇と個は否定しようがなく、「実存」するのである。
思うに、西洋中世とは、光への希求はなく、闇の世界だったのだ。個も闇の世界の個である。
とまれ、ルネサンスの光の志向とは、凹i⇒凸i、ないし、凸i/凹iという式になろう。
物質的世界の希求であり、今日の世界はその帰結である。しかし、思うに、光のヴィジョンが形成されたのである。単に物質世界のヴィジョンだけが形成されたのではない。
いったい、光のヴィジョンとは何だろうか。これは美的ヴィジョンである。美術的ヴィジョンである。
いったい、これと闇のヴィジョンはどう関係するのか(先に結論づけたが)。
今現在の私の印象を言えば、光のヴィジョンは闇のヴィジョンへと突き抜けるのである。光と闇が重なるのである。
重なるという語に語弊があるなら、光と闇が一致する、即なのである。そう、光と闇の即非態である。
これは、光への志向がなければ、到達しなかった事態であろう。光へと突き進み、闇と出会ったのである。言い換えると、media point meeting, media point fusionである。
dark sunを唱えていたD. H. ロレンスが最晩年、『黙示録論』でStart with the sun. (光とともに始めよ)と述べたのは、その意味があるのではないだろうか。
光は光へと成り切り、闇と通じたのだと思う。易で言えば、陽極まりて、陰に転ずである。
光と闇の合一と言ってもいい。そう、潜在していた超越光であるが、今や光と一致したのである。
光のヴィジョンは闇のヴィジョンとなったのである。
光の帝国、特設ページ
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/1175/theempireob.html
光と闇:アポロとディオニュソス:dark sunとしてのアフラ・マズダ=キリスト=天照大神
テーマ:media point
先に 二つのヴィジョン:光のヴィジョンと闇のヴィジョン: media point twilight http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11110349350.htmlを書いたが、論点がやや曖昧なので、ここで補足したい。
光のヴィジョンとは端的に美術であり、闇のヴィジョンとは音楽である。ニーチェの用語で謂えば、アポロとディオニュソスである。
そう、この区別を端的に述べたかったと思う。つまり、明らかに、絶対的に異なる二つの世界が存しているのである。光の帝国があり、闇の王国があるのである。絶対的間隙が両者の間にあるのである。これは、コミュニケーション不可能である。
西田哲学の用語で言えば、絶対矛盾である。
そう、光の帝国は闇の王国を感知しないのであり、闇の王国は光の帝国を知らないのである。これは絶対的平行である。
まったく異質な二つの世界が存しているのであり、両者は他者を全く知らないのである。二元論の事象である。
しかし、両者が出会うときがあるのである。それが、media pointの意味である。
光は闇に出会い、闇は光に出会うのである。(思うに、これが天地開闢だろう。)
これは即非事象であり、螺旋形象を生むのである。合一しつつ、それぞれ独一の事象である。
media pointの事象とは結局、アポロとディオニュソスの即非的合一であり、それは美術と音楽の即非合一である。
ニーチェはそれをギリシア悲劇に見たが、それは誤りではない。(ただし、以前述べたが、ニーチェのアポロの概念は誤謬が入っている。つまり、物質的に捉えている点が間違いである。)
アポロとディオニュソス、光と闇の即非合一とは、端的に、何だろうか。それこそ、D. H. ロレンスの言うdark sunではないだろうか。光であり、闇の太陽である。
そう、それは私の体験にも適合する。私は若い時、真夏の海辺で太陽を見て、闇を感じたのである。光が頭上、煌々と照るが、同時に、それは闇であった。光は闇だった。
そう、光は闇なのである。それが、media pointの事象である。dark sun である。
では、美術と音楽の即非合一のdark sunとは何だろうか。それこそ、真の光である。超越光である。
光である闇、闇である光、このdark sunこそ、真光、超越光である。アフラ・マズダ=キリストである。そう、天照大神も同じである。だから、
という公式になる。
思うに、戦後の日本人は折口信夫の新神道論を無視して、結局、今日の大悲劇に見舞われていると言えよう。
そう、ここでウィリアム・ブレイクの箴言を述べよう。
All Religions are One.
二つのヴィジョン:光のヴィジョンと闇のヴィジョン: media point twilight
テーマ:media point
ヴィジョン(直観、心的イメージ)は普通、一つ、一重と捉えられているだろう。
しかし、既述からわかるように、光と闇の二つの「光」があり、また、交差がある。だから、少なくとも三重である(cf. 三位一体、三つ巴、三女神、他)。
今は簡単に指摘するに留めるが、光のヴィジョンだけでは、物質世界に留まってしまい、唯物論的になってしまうのである。
光は闇に、謂わば、裏打ちされているのである。しかしながら、近代は光のみを追求して、闇を忘却してしまったのである。D. H. ロレンスが述べていた通りである。
そう、闇のヴィジョンがある。それは本当の直観ではないだろうか。光のヴィジョンは知覚・感覚的イメージであるのに対して、闇のヴィジョンは不可視の世界の「イメージ」だと思う。あるいは、心、魂の世界のイメージである。
そう、直観というとき、光の直観と闇の直観があるのであるが、前者は外界的直観であり、後者は内界的直観であり、深いもの、本質的なものは後者であると考えられる。換言すると、前者は物質的直観であり、後者は精神的直観である。
カント哲学の直観はまったく前者のみであり、後者が忘却されているだろう。
問題は、両者を肯定することである。啓蒙主義は前者を求め、ロマン主義は後者を求めたが、それぞれ、排他的であったために一面的になったと考えられる。
とまれ、両者は矛盾的力学をもたらすのであり、近代的人間はこれに耐えられなかったのである。
既述したように、相互浸透があるため、光は闇を志向し、闇は光を志向するのであり、結局、知的魂は第二象限と第三象限を志向すると思われる。
ゲーテ/シュタイナーの精神学は第二象限を経由した第三象限への志向であると思われる。実に知的なのである。
それに対して、D. H. ロレンスは直接、第三象限の闇を志向したと考えられる。そのため、光に対する反動性が生じることになったと考えられる。ロレンスの身体への執着はその意味合いがあるだろう。また、父権と母権の混乱もそれに拠るだろう。
とまれ、今や、闇のヴィジョンを取り戻す必要があるのである。魂、精神のヴィジョンであり、それが、政治や経済も賦活するのである。
どうも、閃きを受けて、すぐ書かなかったので、論点が復習的になっている。