光と物質:光と闇の共振エネルギー(氣=超越光)と物質現象

光と物質:光と闇の共振エネルギー(氣=超越光)と物質現象


テーマ:media point


光と物質、これはイマジネーション、ないし、直観を刺激する。そう、虚軸に光があり、それが、発出して、物質を創る。思うに、光は闇と二重である。しかし、人間の視覚は光は知覚するが、闇は知覚しない。まるで放射能が知覚できないように。
 問題はやはり、media point(以下、mp)である。直観ではmp屈折があるのである。つまり、物質を形成する屈折である。それに対して、物質を形成しない投影がある。それが光そのものである。
 しかし、先に提起したように、光は超越光である。つまり、光と闇の共振である。いわば、光と闇の編み物、縒り糸、織物である。そう、光と闇の二重らせん。
 しかるに、人間の視覚は光しか見えず、闇は透明なのである。不可視である。
 物質も光と闇の二重らせんで創られていよう。光と闇のVector Modeである。氣のVector Modeである。(思うに、D. H. ロレンスが晩年の傑作『逃げた雄鳥』で述べた宇宙の暗い薔薇とはそれを指していよう。)
 問題は光と闇の共振エネルギーである氣と物質の関係である。
 前者のいわば外皮として後者があるだろう。外殻である。その物質の外殻に光が反映して視覚されると言えよう。
 正確にいうと、光と闇の共振エネルギー=氣の終点として、物質体があると言えよう。だから、氣がなくなれば、物質体は崩壊するのである。そう、有機体の無機体化と言えば、わかりやすいだろう。
 ここで根源の光と闇の共振エネルギー=氣について考えると、それは、可視的には光であるが、実は超越光であると考えられる。先に述べたように、それが諸宗教の説く「光」と考えられる。
 そして、それが現象界にも太陽光として発現しているのであるが、当然、光だけ視覚し、闇を看過するのである。
 そう、ロレンスが述べたdark sun (また、dark ray, dark God)とはこの闇のことではないだろうか。(dark energyもこれと関係するのではないだろうか。)
 結局、太陽光とは超越光の光であり、超越光の闇が通常の視覚では看過されるのである。
 そう、量子力学で言うと、光だけでは、「量子」は捉えられないと考えられるのである。上述のように、光と闇の共振エネルギーが本体としてあるのであり、闇を捉えない限り、量子力学は不十分なのである。
 そう、光は闇と二重らせんを形成しているのである。共起している闇を「科学」しなければ、まったくの片手落ちである。
 そう見ると、ダーク・マターとは、凹(−1)ではなく、この闇の形成する「物質」ではないのか。正に、闇の物質であり、不可視なのである。つまり可視の物質と不可視の物質があるということになろう。
 しかし、光と闇の二重らせんの外皮が物質であるから、実際は複合体ではないだろうか。この点はおいておきたい。
 ということで、凹(−1)は超越的存在であり、ダーク・マターとするのは問題があることを指摘しておきたい。
 とまれ、現実に闇があるのに、人間は視覚・知覚できないのである。ただし、それは、内身体的に感受できるものと考えられる。
 東洋文化は闇ないしは光と闇の共振エネルギー(超越光=氣)を捉える科学文化であったと考えられる。西洋は光のみである。
 思えば、ゲーテから学んだルドルフ・シュタイナーも闇の存在を明確に捉えていた。光と闇のシンフォニーが本当の自然・宇宙であり、それが精神なのである。
 そう、今や端的に言える。物質とは精神の外皮に過ぎないと。


追記:本稿はR. P. ファインマンの『光と物質のふしぎな理論:私の量子電磁力学』(岩波現代文庫)のタイトルを見て、浮かんだアイデア(直観)を基にしている。


resurrectionのブログ


光と物質のふしぎな理論―私の量子電磁力学 (岩波現代文庫) [文庫]
リチャード・P. ファインマン


(著), Richard P. Feynman (原著), 釜江 常好 (翻訳), 大貫 昌子 (翻訳)



参考:
『死んだ男』の圧巻の一つの「宇宙の大いなる薔薇」・「多くの花弁をもつ暗闇の一輪の華」


But the man looked at the vivid stars before dawn, as they rained down to the sea, and the dog-star green towards the sea's rim. And he thought: How plastic it is, how full of curves and folds like an invisible rose of dark-petalled openness, that shows where dew touches its darkness! How full it is, and great beyond all gods. How it leans around me, and I am part of it, the great rose of Space. I am like a grain of its perfume, and the woman is a grain of its beauty. Now the world is one flower of many-petalled darkness, and I am in its perfume as in a touch.
So, in the absolute stillness and fullness of touche, he slept in his cave while the dawn came. And after the dawn, the wind rose and brought a storm, with cold rain. So he stayed in his cave in the peace and the delight of being in touch, delighting to hear the sea, and the rain on the earth, and to see one white-and -gold narcissus bowing wet, and still wet. And he said: This is the great atonement, the being in touch. The grey sea and the rain, the wet narcissus and the woman I wait for, the invisible Isis and the unseen sun are all in touch, and at one.


The Escaped Cock(The Man who Died)
by D. H. Lawrence, The Complete Short Novels,
Penguin Books, 1990, p.597.


参考:今年発行された訳本から


「が、男は、夜明け前の生気に満ちた星々が海の上に雨のように降り注ぎ、天狼星が海の縁近くで緑色の雨のように降り注ぐのを眺めていた。そして、思った。「何という造形の妙だろう。何と曲線と襞にあふれていることか! まるで、露と暗闇が触れ合うところに、目には見えない黒い花弁を開くバラのようだ。何とあふれるほど充実していることか! 神々も及ばぬその偉大さ、それはわたしを取り巻くように傾き、わたしはその一部となる。この大いなるバラの宇宙の一部なのだ。わたしはその香料の一粒、そしてあの女はその美の一粒なのだ。今や、世界は多くの花びらを開いた一輪の暗闇の花であり、わたしはその香りのなかに、まるで肌を触れ合うように浸っている。」
 こうして、触れ合いの全き静寂と充足に浸ったまま、男は洞のなかで、夜明けとともに眠りに入った。夜がすっかり明けたころ風が吹き出し、冷たい雨をともなった嵐となった。それで男は洞のなかにとどまって、触れ合っている安らぎと歓びに浸って、海の音や、知を打つ雨の音を聞き、一輪の白と金に彩られた水仙が、雨に濡れてうなだれたまま、まだ今も依然として濡れているのを見て大喜びだった。彼はつぶやくーーこの「触れ合いのうちに身を浸すこと、これは、偉大な贖罪だ。灰色の海も、雨も、濡れた水仙も、わたしの待つあの女も、目に見ぬイシスの女神やあの太陽も、すべてが触れ合いのうちに、ひとつのものになっている。」


          岩田昇訳

D.H.ロレンス短篇全集 5』大阪教育図書2006年 218〜219ページ


http://ameblo.jp/gaikokubungaku/theme4-10000376862.html