気(=精霊振動)について:「エーテル」の復活:新東洋知、新マニ教

気(=精霊振動)について:「エーテル」の復活:新東洋知、新マニ教としてのPS理論


テーマ:神道ルネサンス:気と東洋文明:新マニ教


今日は少し余裕があるので、常日頃感じている『気』(以下、気)エネルギーについて簡単に触れてみたい。気功師が発する気を調べると、電磁波が検出される。しかしながら、気=電磁波ではない。気は精霊振動と考えられる。それは、物理的には電磁波という事象をもたらすが、本体は精霊エネルギーである。PS 理論的に言えば、凸iと凹iの極性共振エネルギーである。そして、これは、思うに、有機生命体に限らず、無機物にも存すると思われる。
 とまれ、一番身近なものは、自然に近い土地、大地におけるそれではないだろうか。そこには、四大(地水火風)の気・精霊振動が強く働いていると感知されるのである。私は空気の気・精霊振動を強く感じる。一見、植物の気のように思われるかもしれないが、空気の気の方が強いと思う。なぜならば、例えば、東京のやや郊外の緑の多い公園よりは、気は、自然の多い土地の方が強いと感じられるからである。
 かつて物理学では、「エーテル」の存在を想定していたが、その後、相対性理論等によって、否定されたが、気ないしエーテル体を考えると、当然、「エーテル」の実在を考えていいのである。
 なぜ、否定されたかといえば、「エーテル」を物質として想定したからと考えられる。「エーテル」は気、精霊振動であり、物質ではないから、物質的科学の物理学では、観測できなかったと考えられる。
 とまれ、高次元としての「エーテル」を復活させると物理学は進化すると言えよう。言うならば、超物理学となるだろう。それは、量子論にもあてはまり、超量子論となるだろう。
 そして、「エーテル」の本源として、第三象限の「光」を認識することになるだろう。これは、物理学と精神学との統一を意味する。高次元科学とも言える。
 これによって『光』の本質が理解されるようになる。物質世界で見る「光」は、いうならば、物質的光である。しかし、それは、気=精霊振動によって発生しているのである。つまり、「エーテル」によって発生しているのである。そして、この「エーテル」は、本源的に、第三象限の『光の世界』から生まれているのである。
 とまれ、東洋文化においては、気=精霊振動は伝統的であり、美術、芸術、宗教、哲学、他において、本質、本体であったが、近代西洋化によって、つまり、唯物論化、物質主義科学によって、否定されたと言える。言い換えると、本来、東洋文化と近代西洋文化は齟齬を来たすのであり、前者を肯定するならば、後者を乗り越える必要があるのであるが、これまで、少数のパイオニア的人物を除いて、それは為されずに、逆に、後者が前者を否定・排除していったのである。
 比較的近年においては、東洋文化の研究者と量子力学の研究者が共同討議したことがあったが、類似点ないし相似点を見出したものの、理論的な接点、整合的な接点は発見できなかったと考えられるが、今や、今日のマニ教というべきPS理論によって、それは成就されたと考えられるのである。トランス・モダン科学というよりは、トランス西洋科学であり、新東洋科学である。あるいは、東洋的哲学や数学の視点によって、西洋科学・哲学を超越包摂的に乗り越えて、新東洋的哲学・科学が誕生したということになるのである。
 

参考:
エーテル (物理)
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
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地球は光を伝える「媒質」であるエーテルの中を運動していると考えられていた。

エーテル (aether, ether, luminiferous aether) は、主に19世紀 までの物理学 で、光 が伝播 するために必要だと思われた媒質 を表す術語であった。現代では特殊相対性理論 などの理論がエーテルの概念を用いずに確立されており、エーテルは廃れた物理学理論 の一部であると考えられている。

このエーテルの語源はギリシア語 のアイテール (αιθήρ) であり、ラテン語 を経由して英語になった。アイテールの原義は「燃やす」または「輝く」であり、古代ギリシア以来、天空を満たす物質を指して用いられた。英語ではイーサーのように読まれる。
光とエーテルの歴史 [編集 ]

空間に何らかの物質が充満しているという考えは古くからあったが、17世紀以後、力や光が空間を伝わるための媒質としてエーテルの存在が仮定された。その端緒の一つはデカルト に見られ、デカルトはぶどうの樽のぶどう酒のようにあらゆる物質の隙間を埋める「微細な物質」を想定してそれが光を伝達させるのだとした。また惑星はその渦に乗って動いていると考えた[1] 。

ニュートン は、光の実体は多数の微粒子であると考えた。これは、光が直進することや物体表面で反射されるという事実に基づく仮定であった。しかし、光が粒子であると仮定すると、屈折 や回折 を説明することが難しいという問題があった。屈折を説明するために、ニュートンは『光学』(1704年 )で「エーテル様の媒質 (aethereal medium)」が光よりも「速い」振動を伝えており、追いこされた光は「反射の発作」や「透過の発作」の状態になり、結果として屈折や回折が生じると述べた。この発作とは、ニュートン環 などで見られる干渉縞 を説明するための仮説である。屈折面を通過した光の粒子は過渡的な状態になり、「反射の発作」の状態と「透過の発作」の状態を一定の間隔で遷移する。そして次の屈折面を通過する際に、その粒子が「反射の発作」の状態であれば反射され、「透過の発作」の状態にあれば透過する[2] 。ニュートンはこれらの「発作」のしくみについては説明しなかったが、これは今日でいう、光子の位相 の概念に相当する。ニュートンは、このエーテル様の媒質の振動は熱放射 、すなわち真空中でも熱が伝わるという事実に関係があると考え、次のように述べた。

空気を排出して真空の空間を作ったとしても、そこに空気より微小な媒質が残存し、その媒質の振動により熱が伝えられるのではあるまいか?そして、その媒質は光をして屈折または反射せしめる媒質と同一であり、その振動によって光は物体間の熱輸送を行い、さらに、その振動によって光は反射や透過の発作に至るのではあるまいか?[3]

ホイヘンス は、ニュートンよりも前に、光はエーテル中を伝播する縦波 であるとの仮説を唱えたが、ニュートンはこの考えを否定した。もし光が縦波であるならば、その進行方向以外に特別な方向を持つことができず、偏光 のような現象は考えられない。従って、偏光の向きによって屈折の具合が変わる複屈折 などの現象を説明することができないのである。この点について、ニュートンは光の粒子は球形ではなく、その「側面」の向きの違いによって複屈折が起こると考えた。ニュートンが光は波ではないと考えた理由は他にもあった。もしエーテルが空間中に充満していて、エーテル同士の相互作用により光が伝わるのであるならば、エーテルが巨大な物体、すなわち惑星 や彗星 の運動に影響を与えないと考えることは困難である。しかし現実にはそのような影響は観測されていないのであるから、エーテルは存在しないと考えたのである。

ブラッドリー は1728年 に、地球の位置、つまり季節による恒星が見える位置のずれ(年周視差 )の測定を試みて失敗した。しかし、この際に、地球の運動による恒星の見かけ上の位置のずれ、すなわち光行差 を発見した。ブラッドリーは、これをニュートンの理論に沿って解釈した。つまり、光の微粒子が飛んで来る見かけ上の方向は、地球の運動の向きと速さに依存すると考えることで測定結果を合理的に説明でき、さらに、地球の運動の速度と光行差から光の速さを知ることができたのである。これは、鉛直に落下する雨粒が、高速で移動する電車の中からは斜めに降っているように見える、という現象と同様の解釈である。一方、光がエーテルの振動であると考える場合には、光行差を説明することは困難であった。なぜならば、地球がエーテル中を運動しているにもかかわらず、地球の周りのエーテルは掻き乱されずに静止している、つまり地球とエーテルは殆ど相互作用をしないということになるからである。ニュートンは、この考えを受け入れなかった。

しかし、19世紀 の物理学者ヤング とフレネル は光は波動であると考えた。彼らは、光が横波 であると考えるならば、波の振動の向きによって偏光を考えることができ、複屈折を説明することができると指摘した。さらに、回折について様々な実験を行うことにより、ニュートンの粒子モデルを否定した。しかし、当時の物理学では、光の波が伝播するためには、水面の波や音の波と同様に何らかの媒質が必要であると考えられており、ガス状のエーテルが空間に充満している、というホイヘンスの考えが支持されていた。

とはいえ、光を媒質中の横波と考えるのは困難である。なぜならば、横波を伝えるためには、エーテルの個々の粒子は強く結合して紐のようなものになっていなければならず、流体状のエーテルでは縦波しか伝えることができないからである。この強固な結合を持つ紐状のエーテルが普通の物質と相互作用しないと考えるのは奇妙であり、ニュートンホイヘンスが縦波にこだわったのは、このためである。コーシー は、エーテルが普通の物質に引きずられる と考えたが、そうすると今度は光行差を説明することができなくなってしまう。コーシーは、また、エーテル中に縦波が発生しないということから、エーテルの圧縮率 は負であると考えた。グリーン は、このような流体は安定に存在し得ないと指摘した。一方、ストークス は引きずり仮説を支持した。彼は、個々のエーテル粒子は高周波で振動しつつも全体として滑かに動くようなモデルを構築した。このモデルにより、エーテル同士は強く相互作用し、故に光を伝え、かつ、普通の物質とは相互作用しないという性質が説明された。

後年、マクスウェルの方程式 から電磁波 の存在が予想され、さらにヘルツ は電磁波の送受信が可能であることを実験的に示した。マクスウェルの方程式によれば、電磁波が伝播する速さcは誘電率 εおよび透磁率 μとの間に

c^2 = \frac{1}{\varepsilon \mu}

の関係があり、この速さは、実験的に知られていた光の速さと一致した。この事実から、光は電磁波の一種であると推定された。しかし、ニュートン力学 の基準系 、つまりガリレイの相対性原理 に従うならば、光の速さは、その光と同じ方向に進む観測者からは遅く、逆方向に進む観測者からは速く見えるはずである。上式によれば、観測者の運動にかかわらず光の速さは一定である。従って、上式のような関係は一般には成立できないと考えられた。そこで、エーテルの運動を基準とした絶対座標系が存在し、その座標系でのみマクスウェルの方程式は厳密に成立すると推定された。マクスウェルやフィッツジェラルド らは、このようなエーテルのモデルを提唱した。なお、今日の特殊相対性理論 の観点からは、マクスウェルの方程式は常に成立し、ガリレイの相対性原理が不正確なのだと考えられている。

しかし、これらのモデルでは、エーテルが持つ機械的性質は、実に奇妙なものにならざるを得なかった。すなわち、空間に充満していることから流体 でなければならないが、高周波の光を伝えるためには、鋼 よりもはるかに硬くなければならない。さらに、天体の運動に影響を与えないという事実から、質量 も粘性 も零のはずである。さらに、エーテル自体は透明で非圧縮性 かつ極めて連続的でなければならない。

マクスウェルは、ブリタニカ百科事典 に次のように書いた:

Aethers were invented for the planets to swim in, to constitute electric atmospheres and magnetic affluvia, to convey sensations from one part of our bodies to another, and so on, until all space had been filled three or four times over with aethers.... The only aether which has survived is that which was invented by Huygens to explain the propagation of light.

(参考訳)

エーテルは、惑星の泳動、電磁気の振る舞い、そして我々の日常に起こる様々な事象を説明するために発明された。しかし、辻褄を合わせるためには、エーテルの理論は三重にも四重にも変更され、複雑怪奇なるものとなった。...結局のところ、ホイヘンスが光の伝播を説明するために発明したもの以上に納得できる理論は、残らなかった。

20世紀 初頭まで、エーテルの理論は混迷を極めた。19世紀 後半から、マイケルソン・モーリーの実験 を始めとする、エーテルの性質を明らかにする試みが為されたが、それらは失敗に終わった。これらの実験結果に対する合理的な説明は、ローレンツフィッツジェラルドによってローレンツエーテル理論 として与えられた。この理論によれば、長さの収縮 および時間の遅れ のために、この種の実験によってエーテルの運動を検出することはできないのである。また、彼らの理論と数学的に等価である特殊相対性理論により、エーテルの存在を仮定することなく実験結果を説明することができた。結果として、オッカムの剃刀 を用いるならば、エーテルは物理学の理論から除外されることになった。

エーテル古典力学 [編集 ]

エーテル仮説の最たる困難は、ニュートンの力学とマクスウェルの電磁気学の整合性であった。ニュートン力学ガリレイ変換 の下で不変 であったが、マクスウェルの電磁気学はそうでなかった。従って、厳密には、少なくとも一方の理論は誤りであると考えざるを得ない。

ガリレイ変換とは、観測者の視点 を変えることである。例えば時速80キロメートルで走る電車の中を、進行方向に向かって時速4キロメートルで歩いている乗客は、別の乗客からは、もちろん、時速4キロメートルで動いているように見える。しかし、電車の外にいる人からは、この乗客は時速84キロメートルで動いているように見える。見る人が変われば運動も異なって見える、その見え方の違いを定式化したものがガリレイ変換である。そしてニュートン運動方程式 は、ガリレイ変換をしても、つまり誰から見ても、成立する。このように、常に成立することを「不変」という。

しかしながら、マクスウェルの方程式によれば、光の速さは誘電率透磁率から定まるのであるが、この値は、観測者の運動に依存しない。つまり、電車に乗っている人にとっても、外にいる人にとっても、光の速さは同じでなければならないことになる。すなわち、マクスウェルの方程式はガリレイ変換について不変ではない。全ての物理学理論はガリレイ変換について不変であるべきだと考えられていたため、「エーテルに対する絶対座標系」が存在し、マクスウェルの方程式はこの座標系においてのみ厳密に成立すると考えられた。

そこで、地球の、絶対座標系に対する運動に関心が持たれるようになった。マクスウェルは1870年代後半に、地球の運動が光の速さに及ぼす影響を調べることで、地球の絶対座標系に対する運動を知ることができると述べた。光の進行方向が地球の進行方向と一致すれば光は遅く見え、逆方向であれば光は速く見えるはずである、と考えたのである。季節あるいは昼夜が変化すれば観測者の運動の方向が反転するが、この運動の変化は光の速さに比べて小さいものの、検出不可能なほど小さくはないと考えられた。すなわち、地球はエーテルの中を進んでいるのであるから、地上ではいわば「エーテルの風」が吹いていることになり、これは光速の変化として捉えられると考えたのである。
実験 [編集 ]
マイケルソン・モーリーの実験は、直交する二つの経路を進むのに光が要する時間を比較するものである。これは、絶対座標系の不存在を確認する実験手法として広く用いられている。

19世紀 後半には、この「エーテルの風」の効果を調べる実験が数多く行われた。しかし、それらの多くでは、実験精度の不足により満足な結果を得ることができなかった。しかしマイケルソン・モーリーの実験 では、ハーフミラー を用いることにより、直交する二つの経路を進むのに光が要する時間の差を高精度で測定することができた。1887年 に、彼らはエーテルの風による影響は観測されなかった、との結果を報告した。これは、エーテルの概念に重大な誤りがあることの証左であると考えられた。同様の実験は、多くの物理学者によって、装置の精度を向上させながら繰り返し行われたが、ついにエーテルの風は検出されなかった。

これらの「エーテルの風」の実験結果について、エーテルの概念そのものを否定する意見と、エーテルは従来考えられていたよりも複雑な性質を持つが故に検出されなかったとする意見に分かれた。特に後者については、エーテルが地球に引きずられる ことによりエーテルの風が極めて弱くなる、との考えが支持されていた。しかし、既に指摘されていたように、エーテル引きずり仮説には、光行差を説明できないという問題があった。この仮説の直接的検証はハマールの実験 によって為された。この実験では、光に巨大な鉛ブロックの間を通過させることにより、エーテルの運動が質量に引きずられるかどうか調べられた。そして、そのような引きずりは起きないことが確認されたのである。

この問題に対する解決はローレンツフィッツジェラルド収縮仮説 によって為された。すなわち、エーテル中を運動している一切の物体は、エーテルに対する運動の向きに沿って縮むと仮定されたのである。この仮説によれば、マイケルソン・モーリーの実験によりエーテルの風が検出されなかったのは、装置がエーテルの風向きと平行に縮んでいたために、光速の変化と光の移動距離の変化が相殺されたからである。フィッツジェラルドは、この仮説のヒントをヘヴィサイド の論文から得た。この仮説の検証はケネディ・ソーンダイクの実験 によって1932年 に為され、装置の収縮および光の振動数の変化が、予想された値と一致すると結論された[4] 。

エーテルの性質を調べる有名な実験としては、他に1851年 にフィゾー が行った実験が挙げられる。これは1818年 にフレネルが予言した「速度vで動いている屈折率 nの媒質中において、vと同じ方向に進む光の速さは、真空中の光速をcとして

\frac{c}{n} + \left( 1 - \frac{1}{n^2} \right) v

である」という法則を確認したものである。これは、スネルの法則 や光行差を矛盾なく説明するための仮説であった。当初この仮説は、エーテルが物質に引きずられるために、光速の変化は媒質の速度よりも小さくなる、と解釈された。しかし、この解釈はウィルヘルム・ヴェルトマン が、フレネルの式中のnが光の波長 に依存することを実証したため、エーテルの運動は波長に依存し得ないことから、否定された。さらに、特殊相対性理論の観点から、フォン・ラウエ により、フレネルの式はvがcよりも十分小さい場合にのみ成立し、一般の式は

\frac{c/n + v}{1 + \frac{v c/n} {c^2}} \approx \frac{c}{n} + \left( 1 - \frac{1}{n^2} \right) v + O\left(\frac{v^2}{c^2}\right).

であることが1907年 に示された。また、1913年 に発見されたサニャック効果 や1925年 のマイケルソン・ゲイル・ピアソンの実験 の結果は、特殊相対性理論による予想と合致するものであった。

1920年代 には、デイトン・ミラー によってマイケルソンと同様の実験が繰り返され、エーテルの風の存在を示唆する結果が得られた。しかし、これは従来のエーテル理論から予想される値よりも極めて小さく、また、他の研究者による追試 ではミラーの結果は再現されなかった。後年の研究では、ミラーは温度変化による実験結果への影響を過小評価していたのだと考えられた。さらに高精度の実験が繰り返されたが、ついに、特殊相対性理論と矛盾する結果は得られなかった。
エーテルの否定 [編集 ]

前述の「エーテルの風」の実験結果についてエーテルの風が検出されなかったことは、エーテルの概念そのものを否定する意見を生み出した。そして、アインシュタイン特殊相対性理論エーテルの実在性を根本から完全否定するに至った。ローレンツエーテルを基準とした絶対座標系の存在を考えたのに対し、アインシュタインエーテルも含めた絶対座標系及び絶対性基準は特殊相対性理論を根本から否定するとし、その存在を否定した。これは「相対性」理論と称される所以となっている。

アインシュタインは、より根本的な原理から「長さ」や「時間」といった性質を導出できるはずであると考えた。そして、ローレンツ変換 をマクスウェルの方程式から切り離し、時空間の性質を表す基本的な法則であると仮定した。また、アインシュタインは「エーテル」を物質を表わす言葉とせず、真空であっても空間には重力場や電磁場が存在することから、こうした空間を「エーテル」と呼ぶことを提唱した。この場合、エーテルには位置という概念が存在せず、従って「エーテルに対する相対運動」を考えることは無意味となる[5] 。

アインシュタインが相対性原理を最も根本的な原理として考えたのに対し、特殊相対性理論の基礎を造ったローレンツは相対性原理の根本がエーテルであると考え、「長さの収縮」や「時間の遅れ」に表されるように、物体の特性はエーテル中の運動により変化すると考えた。アインシュタインとの違いは、長さや時間について絶対的な基準を設けることを可能と考えるか否かである。これは物理哲学 の問題であるため、決着はついていない。従って、エーテルの実在性は完全には否定されていないと言える。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB_(%E7%89%A9%E7%90%86) 」より作成