凸i+凹i⇒Media Point(”0”)⇒・・・凹

凸i+凹i⇒Media Point(”0”)⇒・・・凹


テーマ:Media Point:MP1⇒MP2


積*の場合は、差異の否定となり、同一性・物質が生起するが、和+の場合は、差異の否定というより、一種の共立になるのではないだろうか。そして、Media Pointが発現するのではないだろうか。これは調和均衡点である。
 そして、ここから、超越的存在凹の感知が可能になるのではないだろうか。これは、凹iで凹を感知するということである。凸iの知覚は、物質的光、外的光の知覚となるので、超越的存在を感知することがおそらく、不可能ではないだろうか。
 そう、超越的存在凹は内的光、超越光の光源と考えられる。神秘主義とは、凹iと凹が相互浸透した様態ではないだろうか。凸iの物質的知覚を否定するのである。
 ところで、精神の初期は、凸iと凹iが未分化な様態にあるのではないだろうか。混淆、連続体と言えるのではないだろうか。
 両者を不連続にするのは、意識的行為だと思う。意識的に連続体を切断して、不連続体にしたときに、凸iと凹との均衡調和、Media Pointが確立するように考えられる。仏教、禅も、本来、そのような意味合いがあったと推察される。
 近代以前は、人間の意識は、凹i凹(第三象限)、又は、高次元界、神霊界を不明瞭ではあるが、感知していたと考えられる。宗教心の存在である。
 近代において、凸iが支配して、凹iを排除していった。もっとも、イタリア・ルネサンス自体は、東洋文化的であり、凹iが賦活されたのである。しかし、西欧文明の父権主義の凸i傾斜があるために、イタリア・ルネサンスの東洋性の理解を阻害したと考えられる。
 個の誕生であるが、個は凹iに存すると思う。自我は凸iである。凹i*凸iで、個我という言いかたはできるだろう。
 最後に、革命主義について考えたい。意識の未分化体において、近代化は凸iを突出させるが、同時に、凹iは無意識となり、「闇」となる。例えば、君主制封建制の独裁的支配に個我は反発する。この反発は、凸iだけでなく、凹iの「闇」があると考えられる。
 凸iに否定された凹iが「闇」となり、無意識の、衝動的な否定的様態になった思われる。
 シュタイナー的に言えば、悪魔アーリマン凸iと悪魔ルシファー凹iとの合体したものがそこにあると考えられる。唯物論社会主義とは、そのようなものだと考えられる。
 革命思想とは実に恐ろしいものである。それは、悪魔主義であり、天使がいないのである。破壊主義である。
 ここで、菅政権を考えると、このような悪魔主義が支配していると考えられる。人間認識図では、第四象限である。


参考:人間認識図