力への意志とニーチェ哲学のポスト・モダン的限界:トランス・モダン

力への意志ニーチェ哲学のポスト・モダン的限界:トランス・モダン哲学・科学のPS理論


テーマ:文学・哲学


フランスのポスト・モダンやハイデガーは、ニーチェの「哲学」の影響を強く受けてきた。今や、PS理論が誕生して、既成の学問は一掃されるが、哲学において、露払いする必要があると思うので、一言、ニーチェ問題について述べたい。
 ニーチェ哲学の核心は、力への意志である。Der Wille zur Macht(Will to Power)である。これをどう理解するかである。以前は評価したが、
http://ameblo.jp/renshi/entry-10252980429.html
今は批判することになる。これは、PS理論が進展して、知がより明晰になったからである。
 直観で言えば、「力」とは、この場合、自我凸i⇒+1と連続化した凹iのエネルギーであると考えられる。当然、純粋差異、純粋他者ではなく、自我の否定力があるので、「力」とは、否定的なエネルギーなのである。それは知を混濁させる力動・情動であり、反知性的である。それは、実に不透明なのである。闇である。
 それゆえに、反知的な権力願望を肯定することになり、ナチスに利用されたのは当然であると言えよう。
 この視点から、初期ニーチェのアポロ/ディオニュソス、あるいは、後期のツァラトゥストラについても解明できるだろう。一言言えば、それは、やはり、自我凸iが他者凹iに混濁しているのである。換言すると、アポロとディオニュソスは連続化しているのである。そのために、ディオニュソスさらにはツァラトゥストラが、否定的エネルギー、反知性的エネルギーになるのである。
 そう、自我の混濁・連続化の視点によってこそ、ポスト・モダンの源泉となったニーチェ「哲学」の欠陥が明らかになるといえよう。
 すなわち、それは、物質性ということである。自我の入ると、唯物論的になるのである。そのために、超越性は否定されるのである。この反超越性、物質主義がニーチェ「哲学」に巣食っているのである。確かに、それは、既成のロゴス的哲学・科学を否定したが、自身の唯物論性を否定できなかったのである。そして、それが、ハイデガーやポスト・モダンを規定・限定していると考えられるのである。
 丁寧に言えば、確かに、ニーチェには、超越性の予感があったが、それは、自我の物質主義のために、精神病理的に抑圧されたと言えよう。
 今や、トランス・ニーチェの時代である。超・超人の世界である。仏教の他者知性の時代である。それは、神道多神教霊性と調和するだろう。