弁証法論理と即非(差異共振)論理:ヘーゲル弁証法とPS理論的即非論

弁証法論理と即非(差異共振)論理:ヘーゲル弁証法とPS理論的即非論理:トランス・モダン資本主義へ


テーマ:トランス・モダン社会/新共同体創造的構築


弁証法の欠陥については既述したが、民主党左派論理に関係するので、今一度検討したい。
 いわゆる、正反合の論理であるが、例えば、正をA、反を-Aとする。そして、ヘーゲル弁証法では、反をさらに否定するのである。それは、-(-A)→Aとなる。つまり、単純に見ると、正に戻るのである。
 しかし、ヘーゲルは、反のもつ同一性を説いていたと思う。つまり、物質的形式性である。つまり、正は精神(スピリット)であり、反はその顕現の物質的形式(同一性)である。そして、合は、反を止揚して、それを、正に統合させるのである。つまり、精神Aに物質的形式(同一性)を包摂させるのである。これがジンテーゼである。
 言い換えると、ヘーゲルは、精神に同一性形式を確保したのであり、これが、近代科学の基礎を形成したと言えるだろう。これはこれで意味があるのである。
 しかるに、マルクス・エンゲルスの史的唯物弁証法となると話が異なる。
 正の資本家階級Aに対して、反の労働者階級-Aが存する。そして、この-Aの否定がプロレタリア独裁なのである。これは、ヘーゲル弁証法から見て、おかしいのである。(これを1とする)
 ヘーゲル弁証法から言えば、労働者階級の「物質的形式」を包摂する「資本家階級」の形成が合である。(これを2とする)
 また、そもそも、労働者階級を「物質的形式」と見ることは、端的に、労働者階級を賃金形態としてみることになるだろう。正に、同一性主義であり、労働者の差異が抹殺されている。
 ということで、唯物弁証法は、ヘーゲル弁証法からは外れているし、また、それは、正に、資本主義を意味するのである。
 ということで、ヘーゲル弁証法は、物質的形式=同一性形式の哲学を説いたことで、意義があると言えようが、唯物弁証法は、一つの意味で、ヘーゲル弁証法の混乱であり、別の意味で、ハードな資本主義を意味するのである。
 最後に、1についてもう少し述べると、マルクスは「否定の否定」がプロレタリア独裁と述べたが、それは、論理的にそうならないのである。何故なら、-(-A)=Aであるからである。「否定の否定」は資本家階級肯定である。
 正しくは、労働者の差異ないし他者性を否定-Aとすべきなのである。つまり、PS理論では、凹iである。この凹iを肯定することで、資本家凸iと労働者凹iとは差異共振して、資本主義の他者化が形成されると言えよう。
 差異共振は弁証法ではない。それは、即非の論理である。結局、PS理論から見ると、ヘーゲル弁証法とは、凸i主導の同一性論理を解明したものである。それに対して、唯物弁証法は、錯誤であり、また、ハードな資本主義(思うに、新自由主義は、これに近いように感じる)を意味するのである。
 結局、PS理論に拠る弁証法批判から、資本主義の他者化、つまり、同一性資本主義からの脱却が視点が形成されるのであり、それは、差異共振資本主義(差異資本主義)であり、それは、トランス・モダン資本主義である。共同体的自由資本主義である。


追記:以下の説明から見ると、キルケゴールの質的弁証法とは、絶対的差異、他者の肯定であり、PS理論の即非論理、差異共振論理の先駆であると言えよう。


追記2:ヘーゲル弁証法から見ると、「否定の否定」とは、いわば、対立の統合であるべきであるが、『資本論』の「否定の否定」は、統合ではなく、単に否定である。資本家階級の否定に過ぎないのである。マルクスは、その点では、ヘーゲル弁証法を理解していなかった。
 しかし、反を物質的形式=同一性とすると、『資本論』は、資本主義、同一性資本主義のヘーゲル弁証法であることになる。もっとも、資本家階級を精神と仮定した上での話であるが。


参考:
弁証法
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
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弁証法(べんしょうほう、ギリシア語 διαλεκτική、英語 dialectic)とは、哲学 の用語で、現代において普通にいわれるときには、ほとんどがヘーゲルマルクス弁証法を意味し、世界 や事物の変化や発展の過程を本質的に理解するための方法、法則 とされる(ヘーゲルなどにおいては、弁証法は現実の内容そのものの発展のありかたである)。しかし、この言葉を使う哲学者 によって、その内容は多岐にわたっており、弁証法ヘーゲルマルクスとして全てを理解しようとするのは誤りである。

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ヘーゲル弁証法 [編集 ]

ヘーゲル弁証法を構成するものは、ある命題 (テーゼ=正)と、それと矛盾する、もしくはそれを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の 3つである。全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後には二つがアウフヘーベン (aufheben, 止揚,揚棄)される。このアウフヘーベンは「否定の否定」であり、一見すると単なる二重否定すなわち肯定=正のようである。しかしアウフヘーベンにおいては、正のみならず、正に対立していた反もまた保存されているのである。ドイツ語のアウフヘーベンは「捨てる」(否定する)と「持ち上げる」(高める)という、互いに相反する二つの意味をもちあわせている。なおカトリックではaufhebenは上へあげること(例:聖体の奉挙Elevation)の意。

ソクラテスの対話と同じように、ヘーゲル弁証法は、暗黙的な矛盾 を明確にすることで発展させていく。その過程のそれぞれの段階は、その前の段階に暗黙的に内在する矛盾の産物とされる。 またヘーゲルは、歴史 とは一つの大きな弁証法、すなわち奴隷制 という自己疎外から、自由 と平等な市民 によって構成される合理的な法治国家 という自己統一へと発展する「精神 」が実現していく大きな運動 だと認識した。

参考: Thesis, antithesis, synthesis

「しばしば、ヘーゲル哲学の方法は弁証法であると言われている。そのことは正しい。しかしながら、もしも、ヘーゲルがあらかじめ弁証法という方法を形式的に規定しておいて、これを個々の対象思考に適用するという風に考えるならば、それは由々しき誤解である。ヘーゲルは、おそらく、その全著作の何処を探しても、方法としての弁証法なるものを、具体的思考から切り離して、一般的抽象的に論考したためしはない。彼はただ対象に即して考えるにすぎない。彼が対象に即して、対象の真理を具体的に把握するに適するように、自由に考えながら進んでいった過程が、いわば後から顧みて、弁証法と呼ばるべき連鎖をなしていることが見出されるのに過ぎない。極言すれば、理性的思考がいわゆる正反合の形態を具えているということは、抽象的形式的に基礎づけることは出来ない事柄である。そして、いわゆる弁証法的契機(例えば綜合)の具体性ということも、結局、対象を内包する理性内容の具体性に依存するものに外ならない。それ故に、ヘーゲルの哲学を理解するために、その内容から切り離されたいわゆる弁証法だけをとり出して、これを解釈したり論考したりすることは、むしろ不必要である。」矢崎美盛 著『ヘーゲル精神現象論』

マルクス主義における弁証法 [編集 ]

カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルス は、ヘーゲル弁証法は、世界は諸事象の複合体ではなく、諸過程の複合体であることを指摘した点を高く評価しているが、ヘーゲルは「頭でっかち」で「逆立ち」しており、彼の考えを「地に足をつけた」ものにしなければならないと主張した。すなわち、ヘーゲルの観念論 による弁証法における観念の優位性を唯物論 による物質の優位性に反転させることで、唯物弁証法 (唯物論弁証法)またはマルクス主義弁証法が考え出された。世界は観念的な神や絶対知に向かって発展していくのではなく、物質に、自然科学に向かって発展していっているのである。この弁証法を歴史の理解に応用したものが、史的唯物論唯物史観 )であり、この見方は、マルクスエンゲルスレーニントロツキー の著作に見て取ることができる。この弁証法は、マルクス主義者の思想の核心的な出発点となるものである。

エンゲルスは『自然弁証法』において、唯物論弁証法の具体的な原則を三つ取り上げた。

1. 「量から質への転化、ないしその逆の転化」
2. 「対立物の相互浸透(統一)」
3. 「否定の否定

これらがヘーゲルにおいても見られることをエンゲルスも認めている。1.は、量の漸次的な動きが質の変化をもたらすということをいっており、エンゲルスは例えば、分子とそれが構成する物体ではそもそもの質が異なることを述べた。2.と3.に関するエンゲルスの記述は少ない。しかし、2.はマルクス主義における実体論でなく関係論と結びつく内容であるといわれる。つまり、対立物は相互に規定しあうことで初めて互いに成り立つという、相互依存的で相関的な関係にあるのであって、決して独自の実体として対立しあっているわけではない、ということである。3.はヘーゲルアウフヘーベンと同じである。エンゲルスによれば、唯物論弁証法は自然から弁証法を見出すが、ヘーゲルのそれはちょうど逆で、思考から自然への適用を行おうとする。

また、エンゲルスは、ヘーゲル弁証法の正当性は、「細胞」「エネルギー転化」「ダーウィンの進化論」の3つの自然科学的発見によって裏付けられたと考えた。

スターリン主義における弁証法唯物論は、政治的イデオロギーの側面が非常に強かったため、だんだんと教条主義的、また理論的に破綻したものへと変わって行った。ソビエト連邦 の哲学者の中で最も有名な人物は、イバルド・イリエンコフ である。彼は、観念論的偏向から解放されたマルクス主義 的な弁証法の研究を続けた。
キルケゴールにおける弁証法 [編集 ]

キルケゴール はみずからの弁証法を質的弁証法と呼び、ヘーゲルのそれを量的弁証法と呼び区別した。たとえば美的・倫理的・宗教的実存の領域は、質的に本質を異にし、そこにはあれもこれもでなく、あれかこれかの決断による選択、あるいは止揚による総合でなく、挫折による飛躍だけがある。

実存は、成りつつあるものとして無限への無限な運動、また単なる可能でない現実としてつねに時間的であり、その時間における運動は、決断とその反復において、時間における永遠を満たす。矛盾によって各々の実存に対して迫られた決断における真理の生成が、主体性の真理であり、主体的かつ実存 的な思惟者は、いわば実存しつつ問題を解く。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95 」より作成