否定としての差異共振MP2⇒+1と肯定としての差異共融MP1⇒-1

否定としての差異共振MP2⇒+1と肯定としての差異共融MP1⇒-1


テーマ:Media Point:MP1⇒MP2


ネグリとハートの『帝国』の「植民地的主権の弁証法」の中の「植民地主義弁証法」は鋭敏な洞察である。
 ここには、差異共振としての植民地主義が明確に解明されていると考えられる。今は詳述できないので、割愛するが、そこで、直観したことは、先に簡単に触れたが、差異共振とは、差異の否定であるということである。つまり、


凸i*凹i⇒+1


における*の積は否定の意味をもっているということである。これをネグリとハートの図式で言えば、


白人*植民地化された他者⇒白人の同一性


ということになろう。例えば、黒人は凹iであり、白人凸iに否定される他者である。この力学によって、白人凸iの同一性+1が形成されるということになるだろう。
 結局、差異共振は差異否定の力学であるということである。
 それに対して、差異肯定の力学が差異共融であると思ったのである。それは、凹iを肯定するものである。
 肯定は凹凹iではないか。即ち、


凸i*凹凹i⇒-1


となると考えられるのである。
 つまり、凹i自体は凸iにとっては否定的なものなのである。だから、凹iを肯定するとは、否定の否定で、凹凹iということになるだろう。
 それが正しいならば、これまで明確にならなった差異共立ないし差異共融の問題が解決されたことになるだろう。
 自己認識方程式において、初め、他者否定を凹凹iとして捉えて、その否定は⇒-1となり、肯定である凹iは⇒+1になるとしたのであるが、その後の理論的進展で、いわば、「肯定」としての積が⇒+1になることが明確になったのであった。
 そう、*の積がどうしても、差異の肯定に見えたのであるが、実は、差異共振であり、それは、同一性への変換なのである。
 また、さらなる進展によって、-1が超越界であることが判明してたのであり、-1への数式をどう理解するのかがずっと不明確であったのである。
 私は商を考えて、-1への帰結を考えたが、それは、直観的には不明瞭であり、判然としないものであった。
 しかし、今、肯定を凹凹iと捉えることで、明確に-1への数式が明らかになったと考えるのである。
 差異肯定(他者肯定)とは、差異共立を形成するが、さらには、差異共融となる考えられるのである。


凸i*凹i⇒+1   ・・・


凸i*凹凹i⇒-1 ・・・ B


Aにおいて、左辺は差異共立や差異共振を意味する。
Bにおいて、左辺は差異共融を意味すると思う。差異の相互浸透とは、差異共融で説明できると思われる。
 私が経験した一如感覚とは、差異共融であろう。そして、「神」の存在を感じたというのは、⇒-1であろう。
 ここで、スピノザ哲学について触れると、スピノザは差異共融に近い経験をもっていたと思われる。神=自然というのは、-1を指していると思われる。そして、属性である思惟・精神は凸iであり、延長・身体は凹iであろう。そして、後者を肯定して、凹凹iになったと思う。これが有名な心身平行論を意味しよう。
 しかしながら、問題は延長・身体にあると考えられる。即ち、延長とは端的に言えば、外界であり、物質である。つまり、スピノザは物質的身体を意味していると考えられるのである。
 そうすると、実は、延長・身体は凹iではなくなるのである。それは、+1である。つまり、スピノザは凹iと+1を混淆ないし連続化していることになるのである。
 『エチカ』を読んで、身体性があいまいであると感じたのは、おそらく、この混淆・混同にあると思う。
 つまり、身体が感性ないし感情になっているのである。これは、実は精神である。つまり、スピノザの身体とは、物質と精神が未分化であると考えられるのである。
 ということで、精神的側面においては、差異共融が生起したであろうが、物質的側面では差異と同一性との混合が生起したと思われるのである。
 以前、私はスピノザ哲学は連続的なのか、不連続的なのか、あいまいであると述べたが、それはここに原因があるのではないだろうか。
 スピノザ哲学は確かに、他者的肯定の側面があり、画期的なものではあるが、実は、精神と物質との未分化性があり、その他者性も不十分であるということになろう。
 今はここで留めたい。