色を感じる:色彩の精神性:トランス・モダン東洋的身体意識形成

色を感じる:色彩の精神性:トランス・モダン東洋的身体意識形成


テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ


陽光を受けた田園の風景は色彩の精神的エネルギー(気)を視覚者の「心」にもたらすようである。
 この精神的エネルギーは何だろうか。Media Point(MP)のエネルギーである。凸iと凹iとの振動エネルギーと考えられる。
 しかしながら、日常において(近代的世界において)、視覚は同一性=物質的に限定されている。本来、MP自体の視覚があるが、それが、抑圧されているのである。
 ⇒の先端にいわば同一性=物質のスクリーン(精神的フィルター)が発生する。この同一性=物質のスクリーンがMPの色彩の精神的エネルギーを制止して、同一性=物質的な濾過を行なうのではないだろうか。
 つまり、色彩の同一性=物質化があるのである。これが、近代的色彩と考えられる。
 ここで絵画を考えると、今日の絵画はこの色彩の精神的エネルギーを喪失していると思われる。理由は色彩の近代主義化があるからと言えよう。(現代クラシック音楽現代文学においても、同様のことが言えよう。)
 当然、凸iの傾斜が、同一性化をもたらしていると考えられる。本来、MPのエネルギーが生起するが、それを、凸i主導に、濾過しているのである。
 では、排除されたエネルギーはどこに「存する」のだろうか。簡単に言えば、無意識領域である。これは、-1ではないだろうか。即ち、凸i*凹凹i⇒-1である。
 ここで、ロレンスのdark God やdark sunを考えると、それは、やはり、-1を指しているのではないだろうか。Kaisetsu氏の人間認識図で言えば、第3象限であろう。


http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


 結局、本源的なエネルギーを近代主義は排除しているのであり、それは、精神的枯渇をもたらす。精神的不毛化である。
 現代芸術が一般に低調であるのは、これが要因であると考えられる。また、芸術だけでなく、その他、学術や社会生活においてもそうである。とりわけ、現代日本は、精神的砂漠化を起こしている。(うつ病等、精神病理が蔓延するのもここから説明できよう。)
 とまれ、-1ないし第3象限を開くには、認識の内的身体化が必要である。肚や胸を陶冶する必要があるのである。即ち、東洋的身体の形成である。
 このdark Worldを開くこと、ここに個人、社会の未来がかかっていると言っても過言ではない。
 日本人は「闇」を失い、「闇」の社会を生んだと言えよう。もっとも、-1、第3象限は、比喩的に闇であり、本来は、光も闇を超越した世界と考えられる。
 私が以前使用した、超越光はここに適用されるべきではないだろうか。そう、超越光=超越闇である。


補記:MPエネルギーであるが、それは、双極エネルギーである。しかし、差異共振エネルギーとは違うと思う。しかし、後者が、+1を結果にもつということに留意するならば、差異共振エネルギーでもいいだろう。双極共振エネルギーということもできる。


補記2:-1と第三象限の関係であるが、私が考える-1の領域の「感知」とは、凹iを介しているのである。先に、凹i⇒-1と述べた。だから、その方向性において、私が考える-1と第三象限領域はほぼ一致すると言えよう。
 この視点から言えば、凸iの傾斜と+1の結合は、凸i⇒+1ということで、第一象限を意味していると考えられよう。
 また、凸i⇒-1、凹i⇒+1もあり、それぞれ、第二象限、第四象限となる。凸i⇒-1と第二象限の作用がわかりにくいだろう。これは、西洋哲学を考えるとわかりやすいだろう。未知の世界-1を凸iの理性ないしロゴスで捉えようとしているのである。しかしながら、これは永遠の矛盾であり、西洋哲学は完成しないのである。プラトンイデア論イデア界は、MPと第三象限と見るといいのかもしれないが、イデア自体は、凸i⇒+1のロゴスの影響をもっているだろう。(第二象限については後で補足したい。)
 凹i⇒+1、第四象限はわかりやすい。感情的なものが、+1の物質と結びつくのである。貪欲、強欲、淫乱、腹黒さ(石原都知事)、策謀等は確かに、ここに存するだろう。
 


岐阜の田園風景は世界に誇れますね。

http://pics.livedoor.com/u/nadia_ld/3006543