検討問題:ダーク・マターと物質:傾斜を時計回り1/4回転と作業仮

検討問題:ダーク・マターと物質:傾斜を時計回り1/4回転と作業仮説する



テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ



1)ふと思ったが、物質の背後にダーク・マターがあるのではと思った。


2)アーラヤ識は、Media Pointではないか。


3)media pointにおいて、+実軸だけでなく、虚軸の凸、凹も知覚する。しかしながら、-実軸つまりマイナス1もなんらか知覚しないのだろうか。
 単純に考えて、マイナス1が根源であるならば、それが、Media Pointへと向かうことは考えられる。つまり、-1→media point→+1である。
 →media pointの→とmedia pointの「交点」において、知覚できるのではないだろうか。それは、物自体としての-1ではないのか。物質+1は、エネルギーの終点である。それは、滓、抜け殻のようなものである。
 例えば、樹木ならば、樹木として、感じる実体、身体は、物質+1ではなくて、物自体としての-1ではないのか。もっとも、凸iを認識、凹iを物自体と考えることもできるが、それは別の議論になるが、興味深い。
 こちらの線に切り替えて、考えてみよう。差異共立を薄明とすると、-1は、根源的闇となるだろう。そして、差異共振が光である。
 そして、光の下、対象を物質としての認識する。しかし、対象は凹iであるが、それを+1と認識するのである。つまり、虚数としての物自体があるということである。
 では、-1は何か。これこそ、不可知の存在ではないのか。ロレンスのdark Godではないのか。あるいは、dark sunである。
 そうならば、どうして、ロレンスはそれを直感できたのか。どこかに、センサーがなくてはならないだろう。ロレンスは、dark God が下から入る神であると述べている。そうならば、凹iに関係するだろう。
 先に思考実験したように、凹iは-1と関係するのではないだろうか。そして、凸iが+1と関係するのではないだろうか。
 人間において、男性の場合は特にそうであるが、凸iに傾斜している。だから、凸i=+1という自我・同一性・物質認識が生まれるのである。
 ここで作業仮説を立てるが、傾斜を時計回り1/4回転とする。そうすると、凸iは+1となるのである。そして、凹iは-1となるのである。つまり、傾斜力学が入ることで、凸iは+1と一致し、凹iは-1と一致するということになる。
 そうならば、ロレンスがdark Godを凹iで直感することができたのは、当然と言える。
 ならば、物自体において、ダーク・マターが直感できるということになるだろう。
 今はここで留める。


追記:そうならば、アーラヤ識は、-1=凹iに存するということになるだろう。


阿頼耶識

阿頼耶識(あらやしき、Skt : ālaya-vijñāna आलयविज्ञान)は、大乗仏教 の用語。

サンスクリット ālaya आलय の音写と、vijñāna विज्ञान の意訳「識」との合成語。旧訳では「阿梨耶識(ありやしき)」。また「蔵識」(藏識)「無没識(むもつしき)」とも訳す。「頼耶識」「頼耶」等と略されることもある。

唯識 思想により立てられた心の深層部分の名称であり、大乗仏教を支える根本思想である。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識 ・末那識 ・阿頼耶識の8つの識のうち第8番目で、人間存在の根本にある識であると考えられている。ālaya の語義は、住居・場所の意であって、その場に一切諸法を生ずる種子 を内蔵していることから「蔵識」とも訳される。「無没識(むもつしき)」と訳される場合もあるが、これは ālaya の類音語 alaya に由来する異形語である。法相宗 では、心は阿頼耶識までの八識 とする。天台宗 では阿摩羅識 を加えて九識 、真言宗 ではさらに乾栗陀耶識 を加えて十識 とする。

はたらき [編集 ]

ある人の阿頼耶識は、蔵している種子 から対象世界の諸現象<現行(げんぎょう)法>を生じる。またそうして生じた諸現象は、またその人の阿頼耶識に印象<熏習 (くんじゅう)>を与えて種子を形成し、刹那 に生滅しつつ持続(相続)する。

この識は個人存在の中心として多様な機能を具えているが、その機能に応じて他にもさまざまな名称で呼ばれる。諸法の種子を内蔵している点からは「一切種子識」(sarva-bījaka-vijñāna)、過去の業の果報<異熟(いじゅく)>として生じた点からは「異熟識」(vipāka-vijñāna)、他の諸識の生ずる基である点からは「根本識」(mūla-vijñāna)、身心の機官を維持する点からは「阿陀那識」(ādāna-vijñāna、「執持識」/「執我識」。天台宗 では末那識 の別名)と呼ばれる。
法相宗の説 [編集 ]

唯識法相宗は、万有は阿頼耶識より縁起したものであるとしている。それは主として迷いの世界についていうが、悟り の諸法も阿頼耶識によって成立すると説くので、後世、阿頼耶識の本質は、清らかな真識であるか、汚れた妄識であるかという論争が生じた。

* 阿頼耶とは、この翻に蔵となす。 唯識述記 2末

三種の境 [編集 ]

1. 種子 (しゅうじ) 一切有漏無漏の現行法を生じる種子。
2. 六根 (ろっこん) 眼耳鼻舌身意の六根。俗に言う「六根清浄 (ろっこんしょうじょう)」とは、この眼耳鼻舌身意が清浄になるように唱える言葉。
3. 器界(きかい) 山川草木飲食器具などの一切衆生の依報。

阿頼耶識は、常にこの3種を所縁 の境とする。
心 [編集 ]

心に積集、集起の2つの義があって、阿頼耶識は諸法の種子 を集め、諸法を生起するので、心という。

* あるいは心と名づく。種々の法によって、種子を薫習し、積集する所なるが故に。 唯識論 3
* 梵で質多という。これ心と名づくなり。即ち積集の義はこれ心の義。集起の義はこれ心の義なり。能集してもって多くの種子生ずる故に。この識を説いてもって心と為す。唯識述記 3末

阿頼耶識と文学 [編集 ]

三島由紀夫 の絶筆となる『豊饒の海 』(第三巻『暁の寺』)において主人公が一旦傾倒した思想であるが、その後インド のガンガー 川畔の巨大な火葬 の町ベナレス(ワーラーナシー )のガート での火葬風景を見て、途方もないニヒリズム に襲われる場面が描かれている。これは三島自身の実際のインド体験から発されたもので、その光景は「近代的自我」に執着し、その孤独に耐えることによってのみ数多くの作品を創出してきた三島にとってこの唯識思想を微塵もなく打ち砕く巨大で徒労な現前するニヒリズムの現実体験として映ったようである。

暁の寺』には、ベナレスでの火葬の光景がありありと描かれている。

三島にとってこの「究極の光景」は彼が営々として築き上げてきた美学 をいともたやすく、一瞬にして微塵もなく破壊したのである。



◆ ◆ ◆ 唯識の世界 ◆ ◆ ◆

8.人生を演出する阿頼耶識

前項で、過去一切の行為を洩れなく記録し(種子として)溜め込んでいる心を、唯識阿頼耶識と名付けている事を申し上げました。そして、過去一切と言うのは、私が母の胎内に生を受けた瞬間から現在までだけではなく、私に命を伝えた両親、そのまた命を繋いで来た無数の祖先達、遡れば、地球上に生命が誕生したと言われる30億年にものぼる過去を蔵しているのが阿頼耶識だと捉えてよいとも申しました。

しかし、30億年もの行為の記録と言われましても、残念ながら、それらが何かを私達は知ることは出来ません。どんな種子(しゅうじ)が溜めこまれているかが分からないのが深層無意識領域の阿頼耶識だからです。物心がついてからの記憶は勿論溜めこまれているでしょうが、どのような種子として溜めこまれているかは窺い知ることは出来ません。たとえば、他人とケンカした場合、相性の悪い人物像と言う種子として溜めこまれるのか、ケンカとなった原因を種子として溜めこむのか、ケンカの要素全てを種子として溜めこむのかは分りませんが、分らないことも含めて、過去の行為・経験を種子として溜め込んでいるのが阿頼耶識であると考えると、私と言う存在を考察する上での辻褄が合うと、唯識は考える訳であります。

また、こうして今私がこの唯識の世界を書いている瞬間も、私の阿頼耶識の内容は刻々と変化しています。これを唯識では「恒に転ずること暴流の如し」と、阿頼耶識は過去一切を蔵しながらも激しく変化し続けているものであると考えます。

そして、阿頼耶識はあらゆる行為を種子として溜めこむだけではなく、現在を生み出す源であると考えます。これが『種子生現行(しゅうじしょうげんぎょう)』と言う阿頼耶識のもう一つの働きです。前項の『現行薫種子(げんぎょうくんしゅうじ)』とこの『種子生現行』は、表裏一体のものと言えます。どちらが後でも先でも無いと言うものです。

表題を『人生を演出する阿頼耶識』と致しましたが、私達の人生をドラマと見たてたばあい、阿頼耶識は陰に隠れた脚本家であり、演出家のようなものだと思えるからであります。テレビドラマは、小説の原作者が居て、それをドラマ化する脚本家、そしてそれを俳優の演技に展開する演出家が居て始めてドラマ化されます。私達の人生を一つのドラマと仮定致しますと、脚本家と演出家は、阿頼耶識と末那識が担っており、私達はドラマの行く末を知らされないままに演技させられている人生の俳優であると言っても良いのではないでしょうか。と考えますと、人生の原作者は仏様でしょうか。

阿頼耶識は人柄を作り出す〜

人間の風格とか品性と言うものは急に作られるものではありません。コツコツと積み上げた身口意の三つの行為が阿頼耶識に薫習(くんじゅう)されておのずから具わって来るものである事は、人に感じる印象を思う時、納得出来るような気が致します。皇室の方々のもの静かで慎ましやかな物腰とお言葉は演技ではなく身に染み着いたものでありましょう。一方、犯罪を重ね人生の裏街道を歩み続ける暴力団は一目で分るような気が致します。医者には医者の匂いがあり、学者には学者の匂いを何となく感じます。賄賂に手を染めた政治家には、それなりの風貌を感じるのは私だけではないと思います。

これは、阿頼耶識に溜めこまれた種子(しゅうじ)が、我知らず表面に滲み出たものであります。阿頼耶識がその人の人格・風格を作るということは理解出来ると思いますが、恐ろしいのは、そうしてにじみ出る自分の匂いが自分には分らないということです。人にはそれぞれ、明るい人や暗い感じの人、清潔な感じの人や不潔な人、謙虚そうな人、高慢な感じの人が一見して他人には感じられますが、本人には分りません。「そんな積りではないのに」と言う事になりましょうが、この滲み出る匂いは無意識層の阿頼耶識から滲み出ると考えれば自分では分らないと言うことは納得出来るのではないでしょうか。

阿頼耶識が世界を作る〜

私達は、私以外の外の世界は、私とは別に存在しているように思っていますが、実は私の阿頼耶識が私の外の世界を作り出している、こう唯識は考えます。自分の感覚・知識を信じ切っている私達現代人にはなかなか理解出来ないことではありますが、以下の説明を聞けば、何となくそうかも知れないと思えるのではないでしょうか。

私達の眼は、通常は空気中の小さなホコリ、ばい菌を捉えることは出来ません。しかし太陽の光線が部屋に差し込む具合によりましては、沢山のホコリが見える時があります。もし、私達の眼が顕微鏡のような高感度のものでしたら、恐らくは、ばい菌とホコリだらけの世界が眼に映り、とても生きてはゆけないかも知れません。

音についても、私達の聞こえる音の周波数とイルカやコウモリとはかなり異なります。聞こえない音があるから静かに眠ることが出来ているのかも知れません。匂いも、犬は私達の何倍かの嗅覚力を持っていると聞きます。また大地震の前にはある種の動物が予兆を感じ取ると言う話もあります。

こう考えますと、世界は、私達が思っている通りの世界ではないと言うことになります。私達が世界と思っている世界は、私が私の能力で捉えている世界であり、真実の世界ではない、即ち、世界は唯(ただ)私の識(心)が作り出しているものだと言うことになります。

同じ人間でも、人に依って世界は異なります。前にも例として上げましたが、テレビに映る同じ人物を、私は吉永小百合に似ていると思うけれども、私の妻は全然似ていないと言うことがあります。私の認識している吉永小百合と、妻の認識している吉永小百合が異なる像として阿頼耶識に記録されていると言うことだと考えられます。

ピカソの絵を見て、感動する人もいるでしょうが、人に依っては単なる落書きにしか見えません。同じ仏像の前を通っても、その慈悲心に溢れた眼差しに眼が釘付けにされる人もいれば、全く無関心で一瞥も与えないで通り過ぎる人もいます。同じ仏像でも、阿頼耶識に蓄えられた種子に依っては見え方が全く異なると言うことになります。更には、ある人には存在している仏像が、他のある人には存在しないと言うことになります。

極端な話ですが、人間が見ている世界と犬が見ている世界とは目線が違いますし、犬には色彩感覚がないと聞きますから、全く世界は異なるものでしょう。犬にはお星様は見えないでしょうし、宇宙の存在は思いも及ばないでしょう。

私達は、阿頼耶識に溜めこまれた種子によって、一人一人異なる世界を作り出していると言ってもよい、そう唯識は考えるのです。

阿頼耶識が人生を演出する〜

何度も申し上げました「阿頼耶識と言う実体的なものは無い」と言う事を前提としての事でありますが、人夫々に異なった阿頼耶識を持っています。阿頼耶識は変りませんが、その蔵(アーラヤ)に溜め込んでいる種子の内容が異なります。だから人夫々の人生が現出していると言ってよいでしょう。

一流企業の社長・会長にまで上り詰めた人や、総理大臣と言う日本のリーダーだった人達が、司法の裁きを受けて牢獄で人生の最終章を迎える、そういう人生もあれば、雨露さえ凌げないあばら家で独り暮らしながらも、生も死もない自由を満喫しつつ、近隣の人々に愛され慕われ、惜しまれながら一生を終えた良寛様のような人生もあります。

私は、この千差万別の人生は、阿頼耶識に蓄えられている種子の内容の千差万別から生じていると考えます。別の言い方をしますと、阿頼耶識の中には価値観に結び付け得る種子の集合領域があるのだと考えます。価値観とは「人生で何が一番大切か」と言うことでありますが、これは無意識の領域だと思います。人間は常に「人生で何が一番大切か」を自問自答しながら生きているものではありません。しかし一瞬一瞬現れる言動は、無意識のうちに価値観によって支えられているのだと思います。そして、その一瞬一瞬の言動が人生を作ってゆきます。即ち、唯識的に言いますと、阿頼耶識が人生を陰で支えている、演出していると言えるのではないかと思います。

阿頼耶識は無意識層にあるだけに、自分では如何ともし難いのが人生であると言うことになりますが、唯識はだからこそ、阿頼耶識に溜めこむ種子を変えてゆこう、溜めこむ種子を変えれば、人生は変えられるのだと説きます。凡夫の生活から悟りの生活に変革出来ると説きます。

この心の変革過程に付いても、唯識は素晴らしい理論を持っています。それはもう少し後の勉強となりますが、これまでも度々引用させて頂いた下記の言葉は、阿頼耶識に薫習(くんじゅう)する種子を変えてゆくと、人生は変ると言う歌だったんだなと思うことであります。

心が変れば態度が変る、態度が変れば行動が変る
行動が変れば習慣が変る、習慣が変れば人格が変る
人格が変れば運命が変る、運命が変れば、人生が変る

http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki08.html