思考実験:凸i=ロゴス=遅延波(=西洋文明)⇒+1(物質)と凹i=

思考実験:凸i=ロゴス=遅延波(=西洋文明)⇒+1(物質)と凹i=内的宇宙=先進波(=東洋文明)⇒−1(暗黒物質


検討問題1:キリスト教三位一体とD.H.ロレンスの宗教論:「父」とは何か:その他


PS理論から見ると、「父」(以下、父)とは何だろうか。直感で言えば、MP1である。それは、霊界とも言える。しかし、ロレンスは不可知としての父を述べている。しかし、MP1は、可知である。
 しかしながら、どうも、ロレンスの発想には、凹iの主導化が感じられるのである。凸iの原自己にとっては、凹iの他者は不可知である。そのような視点から父が不可知であるというのは考えられることである。


検討問題2:遠距離への志向とは何か


田舎にいると、風景が広がる。都会では、建物が邪魔をする。
 拡大した視野は解放感がある。これは思うに、凹iが解放されるということではないだろうか。矛盾した言い方になるが、他者としての自己があるのではないだろうか。つまり、凹iとしての自己である。それが、拡大した空間を欲するのではないだろうか。
 否、そうではなく、MP1の差異共立の「視覚」が空間の広大さを欲しているのではないだろうか。つまり、MP1とはコスモス、宇宙、内的宇宙、全体である。だから、物質的視覚においても、Media Pointにおける、MP1が作用するので、広大な空間を欲するということではないだろうか。つまり、Media Point的視覚が作用するということである。
 日常生活、物質的生活においては、MP1は抑圧されて、MP2が中心であるから、脱日常的に、MP1を解放する広大、壮大、巨大な光景に出会うと、魅了されるのではないだろうか。そう、Media Pointは存するものの、通常はMP2によって、MP1が抑圧されていると言えるだろう。とまれ、この美学は崇高の美学と言えよう。
 しかし、以上は、差異共立美学である。それに対して、凹iに偏向すると、性的なものが強化されるのではないだろうか。つまり、凸iの傾斜による同一性だけでなく、凹iの傾斜に拠る同一性があるだろう。それが、諸欲望ではないだろうか。


追記:以上のように考えると、凸iとはシュタイナーの説く脳―脊髄神経系であり、凹iとは交感神経系(自律神経系)に相当するのではないだろうか。簡単に言えば、脳と内臓である。もっとも、シュタイナーによれば、松果体が接点である。つまり、Media Pointになることになる。
 また、深層心理から言えば、凸iが意識であり、凹iが無意識である(非意識、潜在意識:私は潜在意識という言い方も有効である。思うに、潜在的内身体的意識という方が正確であるが、長い。)。
 ところで、上述では、凸i*凹iが内的宇宙であると言ったが、問題は単純ではない。シュタイナー的に言えば、あるいは、ロレンス的に言えば、凹iが内的宇宙になるからである。この問題をどう捉えたらいいだろうか。
 凸iとは思うに、原同一性的認識志向性をもつと思われるのである。言い換えると、ロゴス=言語認識的志向性である。それに対して、凹iは、いわば、身体感性的認識志向性をもつと思われるのである。そこには、情感、感情、欲望、情動、衝動等を含めることができよう。一般にそれらは、受動、受身的に考えられるが、凹iはそれ独自の認識性をもつだろう。つまり、直感・直観的認識性だと思われる。
 ということで、そのように考えると、検討問題2の考え方は否定されることになる。コスモスは凹iに存するのであり、差異共立にではないということになる。
 もっとも、今は作業仮説の段階であり、検討問題2の考え方が正しいということもありえるのであるが、今は、そのようには考えないということである。
 ヨハネ福音書の冒頭の「初めにロゴス(言葉)ありき」であるが、それは、凸iを意味すると思われる。自己を重視するならば、それは、的確である。ただし、PS理論から言うと、凸i*凹iの双極性が基本であり、単にロゴス(言葉)では、一面的であると考えられる。
 ここで、先進波と遅延波の問題と関係させると、凸iは「光」であり、過去から未来へと向かう遅延波であり、凹iは「闇」=内的宇宙であり、未来から過去へと向かう先進波ということになるだろう。飛躍的であるが、占いとは凹iの「闇」=内的宇宙に関係するのではないだろうか。そう、端的に占星術(西洋占星術)である。それは、ホロスコープによって占うのであり、その宇宙像は、本来は凹iの「闇」=内的宇宙に拠るもの想定することはできよう。
 そうならば、それは、先進波、未来から過去へと向かうベクトルなので、当然、占うことができるということになる。また、アカシック・レコード(アカシャ年代記)もそこに存することになるだろう。また、阿頼耶識もそこにあることになるだろう。
 この線に沿って考えると、瞑想の意義が拡大するだろう。それは、予言的になるということである。
 さらにこの視点から、PS理論における難問のマイナス1の意義も新たに想定される。即ち、時計回りに1/4回転するとき、凸iは+1となり、凹iは−1となるが、凹iが先進波ならば、先進波は−1になるということになる。つまり、先進波はダーク・マターになるということではないだろうか。
 そうならば、Media Point変換において、凸i=遅延波は物質となり、凹i=先進波はダーク・マターになるということになる。そして、ダーク・エネルギーとは、凹i=先進波のエネルギーということになるのではないだろうか。そして、宇宙において、ダーク・エネルギーやダーク・マターが、光や物質よりも多いということは、宇宙、現宇宙は凹iに傾斜しているということではないだろうか。しかしながら、Media Pointの双極子は陰陽のように常時変動していると思われる。だから、凸iと凹iの平衡のときがあり、また、凸iの傾斜のときもあるだろう。凸iの傾斜の場合は宇宙は収縮するということだろう。
 そのように考えると、宇宙は生成消滅を反復するように思える。マヤ神話では、これまで、世界は四回(三回?)、既に滅んでいるのである。

 
追記2:キリスト教やロレンスの「父」の問題であるが、結局、根源は凸i*凹iの双極子ではあるが、凸iに傾斜した場合がヤハウェではないだろこうか。しかしながら、根源は双極性なので、ヤハウェには、凹iが影・シャドウとして存することになるだろう。キリスト教的西洋文明は、凹iの影に付き纏われていると言えよう。つまり、東洋の影である。だから、オリエンタリズムが生まれるのではないだろうか。また、それは、父権主義にもあてはまると言えよう。母権・女性の影が付き纏うのである。母権・女性に対して、攻撃的になるのである。


検討問題3:意識の相反する志向性について:脳的志向性と内身体的志向性:明るい意識と暗い意識


現代の日本人を見ると、意識は大半が脳的志向性をもち、内身体的志向性が欠如している。問題は、意識は二つの志向性をもち、その均衡をとる必要があるということだろう。意識が内身体に向かうときは、いわば、測深的に感性知覚するのである。私が直感と呼んでいるものはほとんどこの内身体的意識に拠ると考えられる。
 近代合理主義・近代的自我は、この内身体的意識を抑圧・隠蔽しているのである。それは、脳的意識にとっては、未知であり、他者であり、異質なものであり、回避する傾向にあるものである。(それに対して、女性は内身体的志向性が顕在している、本来的には。)
 思うに、道教中丹田に、Media Pointがあり、それが、一方では、脳的意識の志向性をもち、他方では内身体的意識の志向性をもつのである。つまり、Media Point的根源的意識があるということである。
 結局、男性は脳的意識に傾斜し、女性は内身体的意識に傾斜しているが、男性、女性ともに、自己の特性を認識していないので、それぞれ、脳的意識、内身体的意識に規定されていることがわからないと言えよう。
 結局、トランス・モダン意識形成のためには、Media Pointの二重意識を形成する方向で自己教育する必要があるということになる。しかしながら、これは、言うは易しである。というのは、不連続的差異論が明らかにしたように、内身体的意識と脳的意識は不連続であるからである。つまり、通常、意識は両者を連続化させようとするが、それは中途半端なのである。内的身体的意識が脳的意識とは不連続であると認識して、二重意識のバランスが生まれるのである。
 また、いわゆる、魂というものは、内身体的意識のことであろう。そして、それは、霊性と接しているということだろう。霊性は、多様な双極子ということにしておこう。