文字言語と音声言語:内的認識と外的認識:差異共立経済:虚数凸i通

文字言語と音声言語:内的認識と外的認識:差異共立経済:虚数凸i通貨と虚数凹i商品と差異共振実数価値


甲斐駒ケ岳とkaikomagatakeは、認識において異なるだろう。単に、音声として、聴覚で捉えたとき、それは、きわめて、抽象的である。しかしながら、漢字情報として、視覚的に捉えられたときは、いわば、ニュアンスがあるのである。あえて言えば、漢字情報は、内面的、情感、イメージ等が喚起されるのである。そう、内包性が音声情報よりも大きいのである。
 また、あえて作業仮説的に言えば、音声言語は、左脳的であり、文字言語は右脳が入り、いわば、両脳的である。
 思うに、デリダがロゴス中心主義として、音声言語を批判し、書記言語(エクリチュール)を肯定していたが、それはやはり本質を突いていたのではないだろうか。
 だから、音声言語と近代合理主義、唯物論はつながり、書記言語、文字言語は、それを「脱構築」する性質があるのではないだろうか。
 しかしながら、音楽は本来そうではないが、現代音楽(クラシック)の場合、抽象化して、左脳中心となり、音楽本来の情感を喪失してしまったのではないのか。
 とまれ、文字言語のことにもどると、それは、絵画に似ているのではないだろうか。とりわけ、漢字の場合、象形文字なので、その側面があるのではないのか。
 私が想起したのは、絵画は実は、単に空間芸術だけでなく、時間芸術であるということである。鑑賞するには、絵画に内的に参入する時間が必要だからである。外的認識(物質的認識)は凸iが行うとすると、内的認識(精神的認識)は、凹iが行うのではないだろうか。【シュタイナーの『オカルト生理学』から言えば、脳=脳髄神経系が前者であり、交感神経系(自律神経系)が後者にあたるだろう。】
 つまり、絵画鑑賞には、凹iを参与させるので、Media Point的意識になると言える。思うに、この内面性、精神性が単に絵画だけでなく、文字言語に接するときも、なにかしら喚起されるのではないだろうか。
 言い換えると、存在、あるいは、身体、内的身体性の問題である。これは、物質的存在・身体のことではなく、精神的存在・身体のことである。(心精的存在・身体ということでもある。)だから、文字言語には、精神的存在・身体性があるのではないだろうか。そして、その面を強調したのが、書、カリグラフィーということになるだろう。「言霊」とは、音声言語ではなく、文字言語に存するのではないだろうか。
 視覚文化が言われるが、ここから言うと、疑問である。視覚とは、本来、精神性があると考えられるからである。つまり、今日の視覚文化とは、外的、物質的視覚文化ということが言えるだろう。結局、凸iが凹iに対して、支配的になっているから、そのようになると言えよう。同一性主義、マテリアリズムの支配である。
 話題を飛躍させると、資本主義も、同一性主義/マテリアリズムに支配されていて、精神性を喪失していると言える。資本的生産には、知恵が必要なのである。多様なものを結びつける知恵が必要なのである。それは、Media Point的な知恵である。しかしながら、資本主義の、いわば、出口は、同一性である交換価値が支配するのである。つまり、内部は、精神的でありながらも、出口は物質的であるという絶対的矛盾が資本主義にはあり、その外側の同一性が結局、支配的になり、近代の惨状を作り出したと言える。そして、リーマン・ショックとはその最終的帰結である。質的価値・精神的価値が量的価値・物質的価値に支配されたのである。
 結局、差異は光であり、同一性は闇であり、両者のゾロアスター教的闘争が今日生じていると言える。しかしながら、今日の光は外的光、物質的光、暗い光となっているのである。内的光、精神的光、明るい光を喪失しているのである。つまり、光は闇となり、闇が光というパラドクシカルな状況にあるのである。(「きれいはきたない、きたないはきれい」『マクベス』の魔女の言葉。また、D. H. ロレンスのdark godやdark sunは、この側面から理解されるべきであろう。つまり、内的神、内的太陽ということである。ちなみに、外的神とは、イエス・キリストを指すと言えよう。可視的な神である。)
 結局、トランス・モダン経済とは、精神主導的経済ということになるだろう。心精的経済である。多元的差異共立体としての新経済である。つまり、差異価値が評価される経済である。資本家よりは、知恵ある経営者、知恵ある勤務者が、評価されることになる。
 また、差異共立体なので、地域共立体の構築にもはたらきかけると言えよう。
 思うに、とまれ、地域共立体は、経済共立体と行政体との共立を基盤にもつことになるだろう。
 ということで、差異共立資本、共立資本ということが考えられてくる。思うに、差異共立銀行が形成されるだろう。貨幣・通貨は差異共立貨幣・通貨となるだろう。
 ここで思いつきであるが、例えば、貨幣を凸iとし、商品を凹iとしよう。つまり、貨幣価値を凸iと、商品価値を凹iとするのである。具体的に言えば、千円ではなく、千凸i円であり、本は千凹i円の価格がついていて、両者が共振して、千円が発生するのである。即ち、


1000凸i円貨幣*1000凹i円本⇒+1000円


となる。
 そして、凸i円や凹i円では、虚数価値なので、現実性がないのである。ただ、ポテンシャルな価値に過ぎないとするのである。だから、企業評価は、資本金いくらではなく、どれほど、差異共振をして、現実的価値を生み出したかになるのである。
 一億凸i円という資本金があっても、それは、ポテンシャルな価値であり、企業の現実的価値ではないということになる。
 だから、差異共立体とは、差異共振的現実主義に基づくことになる。差異共立体という価値を形成した場合、それは、特別評価されて、減税対象となるとしたらどうか。
後で、検討を続けるので、ここで留める。


補記:東京弁は、外的音声言語だと思う。それに対して、地方言語は内的音声言語ではないだろうか。私は奈良県の吉野よりさらに南の地域で聞いた奈良弁は、内的音声言語というべきものであった。関西弁はそのような向きがあるが、今日、東京弁の影響を受けて、外的になっているのではないだろうか。
 ついでに、若者の音声言語であるが、聴くに堪えない、暴力的な音調となっている。文字言語教養の欠損症である。当然、教育の問題であるが、結局、唯物論教育を廃止すべきであるということである。あるいは、音声言語教育を止めるべきである。外的中心主義を廃止すべきである。物質主義的科学を乗り越えるべきである。美術教育や文字言語教育が必要である。結局、今日の若者の狂気は、唯物論教育を帰結である。
 言語教育を変革する必要がある。文字言語教養をつけるための言語教育が必要である。内的世界を形成するための教育が必要である。そう、内的教育である。そのためには、哲学教育や文学教育が必要である。


追記:日本の今日の歌謡の問題もある。内面性、リリシズムがまったく欠落して、利己主義的で汚い、酷い声になっているのである。
 日本復活のためには、脱唯物論、脱物質主義が必要である。それは、端的に、トランス・モダン化、トランス・モダニゼーション、トランス・モダン主義、越近代である。
 初めに、文字ありき。初めに、ヴィジョンありき。初めに、イデアありき。初めに視覚ありき。初めに光ありき。


追記2:以上の議論から、視覚が聴覚に先立つのである。とまれ、豊かな文字言語文化とは、豊かな視覚文化である。思うに、日本美術は、つまり、日本伝統美術はきわめて、巣すぐれているのに、どうして、日本の音楽はそれよりも劣るのだろうか。確かに、筝曲など、すぐれているが。思うに、どこかに、言語の「断絃のとき」があったと思われる。
 やはり、思うのは、江戸/東京の物質主義性である。悪魔が支配しているのである。だから、豊かな音楽が生まれないのである。
 とまれ、日本は視覚と聴覚の分裂・断層があると言えよう。これは、いったい何を意味するのか。精神意識の統一性の無さである。つまり、個の確立がないということである。
 精神が物質主義に抑えられているのである。個が自我に抑えられているのである。これは、江戸時代の封建体制が原因と私は考えている。
 日本の古典の文章は芸術的であるのに、現在の日本語・東京地方語は格式が低いのである。思うに、漢籍教養が喪失したからではないだろうか。漢字言語教養を喪失したからではないだろうか。文科省の国語政策がまったく間違っているのである。とりわけ、戦後の国語教育政策である。教養的文盲を生んでしまったのである。外的教育に偏し、内的教育を疎かにしたせいである。
 戦後の唯物論教育の総括が必要である。負け犬教育だったのである。国の魂を捨てた教育だったのである。新精神教育が必要である。
 端的に、日本の精神・心精とは何か。それは、光の心精である。光の霊性である。超越光の精神である。正に、東洋的霊性である。光という文字言語教養である。


「心とは山河天地なり、日月星辰なり。」道元『正方眼臓』の「即心是仏」