連続性同一性力学と脱連続性純粋差異力学:史的精神力学における連続

連続性同一性力学と脱連続性純粋差異力学:史的精神力学における連続性と脱連続性の振幅運動


テーマ:差異と同一性:身体論


(以下は、次の追記2を独立させたものである。http://ameblo.jp/renshi/entry-10604717457.html


以上のように、同一性が差異に対して、(錯誤的に)優位性をもつとするならば、逆にどうして、差異が同一性に対して、異議を唱えて、差異の精神性を説くのだろうか。
 だから、単に、同一性が差異に対して、優位性をもつというのは、不十分、不正確である。
 正確に言えば、同一性の差異に対する優位性の志向性があるものの、差異は差異として、同一性に対する独自性、独立性をもっているということと言えよう。
 言い換えると、Media Pointにおいて、同一性の優位的力と差異の独立的力との矛盾が生起していると見ることができよう。
 実際的には、両者を突き詰めることなく、曖昧に妥協させていよう。正確に言うと、同一性優位の下に、差異を保持させていよう。
 しかしながら、近代合理主義、唯物論は、同一性が差異を完全に否定している様態である。
 この力学の説明が必要である。これは、上述したような連続性の力学で説明がつく。
 では、また、元に戻ることになる。つまり、連続性の力学によって、同一性が差異に対して優位性をもつのに対し、差異は異議を唱えて、差異自体の価値をもつのである。これは近代文化の基底にある闘争的事態である。
 この闘争的力学を説明する必要がある。連続力学によって、同一性が優位になっても、本来の差異、不連続的差異は根源(虚軸)に存続して、優位な同一性に対して、異質性を保持すると考えられる。
 言い換えると、優位な同一性と根源的差異との断層(活断層)が形成されるのである。この相克が近代文化の深層にあることになる。
 そして、近代合理主義、唯物論は、前者に傾斜して、後者を否定するということである。
 整理すると、連続性の力学によって、差異(不連続的差異)に対する同一性優位の「精神現象」が生起し、それが原理化されたものが、近代合理主義、唯物論であるということになる。
 そして、(錯誤的に)優位な同一性に対する差異の闘争が反近代、脱近代の動きであり、それが、19世紀後半から活発化して、20世紀以降の深部の知的動向となったのである。
 これは、言わば、脱連続性、脱同一性主義の知の活動であり、多様な領域の出来事である。
 しかしながら、哲学においては、ポスト・モダンは連続性の力学に囚われて、差異を純粋化することができなかったのである(後期デリダの「すべての他者はまったき他者だ」というのは、十分に差異や他者を捉えていないと考えられる。何故なら、超越性がないからである。)。純粋差異論を確立できたのは、不連続的差異論とその進展であるPS理論である。


追記:再度、整理すると、連続性力学があり、それが同一性を(錯誤的に)優位化する。しかし、意識の深部では、差異と同一性の相克がある。
 また、以前述べたことだが、連続性力学に対して、脱連続性の力学が、バランス法則的に生起すると考えられるのである。図式化すると、

連続性力学⇄脱連続性力学 

となる。
 だから、意識の深部において、脱連続性力学が作用するようになるのであり、それに対して、連続性力学が反動化すると考えられるのである。
 つまり、賦活される差異を抑圧するように同一性力学がはたらくと考えられるのである。(思うに、これが、今日、現代の精神病理現象を説明するだろう。うつ病等や異常犯罪等である。)
 そう、初期近代においては、連続性力学は、積極的であったが、後期近代となると、反動的になるのである。
 ということで、連続性力学と差異力学の相克の問題であるが、それは、精神力学的歴史の視点によって説明されると言えよう。これで、混乱した本件の問題がこれで解決されたとしよう。
 今日、近代合理主義、唯物論は反動的なのであるし、近代資本主義も反動的なのである。
 同一性価値を資本とするならば、差異価値を新しい価値とする経済・エコノミーが必要なのである。それは、脱資本主義である。差異価値結合経済である。これについは稿を改めて検討したい。
 

追記2:先には捨てた考えであるが、差異の牽引のときに、共振化して、同一性現象が起こり、差異の反発のときには、脱共振化して、差異共立へと還元されるのではないだろうか。
 つまり、差異の振動・振幅があり、それが、連続性(同一性)と脱連続性(差異)の交互変換を形成しているのではないか。
 量子力学的には、連続性とは粒子であり、脱連続性とは波動である。哲学科学的には、物質と精神である。
 生成門氏が説いた反共振(非共振)であるが、それは、脱連続性とすれば、差異共立であり、凸i*-凹i⇒-1で数式化できよう。
 ならば、反共振=脱連続性のときは、ダーク・マターが形成されるということではないのか。
 また、共振=連続性のとき、発光現象が生起するなら、反共振=脱連続性のときは、「闇」現象が生起するということではないのか。しかし、「闇」は光の裏面であるし、逆に、光は「闇」の裏面である。つまり、可視性と不可視性の二重性があるのである。
 とまれ、「闇」=不可視性=ダーク・マターの「宇宙」があると仮説される。
 それは、光宇宙に対するダーク・コスモスである。
 とまれ、後で、マイナス1と差異共立の相互関係について検討する必要がある。これまで、マイナス1を源泉としたが、差異共立が源泉ということもここでは考えられたからである。
 もっとも、マイナス1と差異共立との相互性については、先に触れてはいるが。