日本人の父権的意識の解体へ向けて:封建的奴隷根性からのエクソダス

日本人の父権的意識の解体へ向けて:封建的奴隷根性からのエクソダス:奴隷的仮面を剥ぎ取れ!


テーマ:トランス・モダン社会/世界の創造・構築


「政治家」、役人を見て、基本的に、他者性のまったき欠落を思う。
 本来、日本人はこんな馬鹿ではなかった。他者を知る精神的知性をもっていた。つまり、東洋・日本的教養・叡知があったのである。これが、敗戦後が無惨にも捨てられたのである。
 これは、東洋・日本的個の原理、つまり、Media Pointを基盤にした教養である。これが、優れた日本を創ってきたのである。つまり、東洋・日本的個の原理が、西洋文明を消化して、日本を積極的に構築してきたのである。
 もっとも、東洋・日本的個の原理は同時に差異共振原理であり、社会形成的原理でもあるのである。
 日本を狂わせたのは、日本的同一性原理である。これは、父権的原理である。それは、権力・権威と同化する原理である。つまり、モデルを権力・権威に置くのであり、そのモデル=鏡像と自己を重ねる原理である。
 私見では、これは、日本伝統的精神とは異質な発想である。伝統的日本は母権文化である東洋的精神に根差しているのである。
 では、この集団の原理はどこから生まれたのか。個を否定するこの卑しい集団の原理はどこから生まれたのか。
 ニーチェなら、賤民というであろう。確かに、奴隷性である。
 私は今も、森鴎外の『阿部一族』の柄本又一郎の二重性を思っているのである。そこには、権力へ従属する発想が如実に表れているのである。
 確かに、サバイバルのためには、権力に従属する場合があろう。しかし、面従腹背という方法もあるのであるが、上では、正に、服従のみである。というか、個が権力・権威の飲み込まれているのである。
 どうも、やはり、江戸・徳川時代に「培われた」奴隷根性ではないだろうかと思うのである。
 つまり、最初は生きるための方策の服従が、身についてしまったのではないだろうか。
 そう、正に、仮面が本質になったのではないか。つまり、仮面的生き方をするうちに、仮面が本体になってしまったのである。一時的な服従が、精神の本体になってしまったのである。正に、安部公房の『他人の顔』である。
 どうやら、これは、腑に落ちる考えである。ならば、日本人が生き延びるためには、生まれ変わることが必要である。蘇りである。
 欺瞞的生き方が身についた日本人から、赤心の生き方への正統日本人への生まれ変わりである。脱封建的奴隷根性である。