精神的身体としての国家(国家身体=国家共同体)

精神的身体としての国家(国家身体=国家共同体)


テーマ:トランス・モダン社会/世界の創造・構築


イギリスの16世紀から18世紀にかけて、Body Politicという概念が流行したが、思うに、それは、本来的ではないだろうか。つまり、国家とは共同体であり、身体であるということである。
 言い換えると、身体とは差異なのである。だから、例えば、国家の財政赤字は身体の苦痛という差異なのである。
 しかしながら、国家身体=民族精神身体という視点がなくなり、同一性主義の発想になると、財政赤字は身体の痛みではなく、同一性の延長となるのである。それは、まったく痛みがないのである。それが、新自由主義化した自民党と現民主党の発想である。
 そう、精神と身体とは一体であるが、物質は精神/身体の同一性の抽象に過ぎないのである。
 近代合理主義とは精神=身体という国家身体を劣化・衰退化させた「病気」である。
 ところで、nation-stateの問題であるが、近代的に同一性主義ないしは連続主義となると、全体主義となるのである。しかし、それを絶対的差異と見るならば、それは、トランス・モダンの基点、「モナド」、創造的モナドとなるだろう。


Body politic
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For the defunct Canadian magazine, see The Body Politic (magazine) .

A body politic refers to the people of a nation , state or country considered collectively as a body of organized citizens.


王の二つの身体
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王の二つの身体(The King's Two Bodies)はエルンスト・カントロヴィチ による政治思想史の研究書。中世政治神学研究との副題がついている。

カントロヴィチの研究によれば、ヨーロッパの王は自然的身体と政治的身体という二つの身体を持っている。自然的身体は死すべき身体であって、偶然や不確実性、生物的な虚弱性の脅威に脅かされる。 一方、政治的身体は見ることも触れることもできない身体である。それは政策と政府から成り、人々を導き、公共の福利を進める身体である。この身体は自然的身体の欠陥や弱点を免れている。自然的身体は政治的身体を具現化する。

カントロヴィチは本書の中で、ヨーロッパの王の二つの身体が統一されており、王が生きている限りは分離されることがないという神学的思考を歴史的に辿ってみせる。この神学的思考はキリストの受肉が下地となり、清教徒革命 、ひいては民主主義 の精神の母胎となったという。
関連書籍 [編集 ]

* 小林公(訳) 『王の二つの身体 中世政治神学研究』 平凡社 、1992年。
* 小林公(訳) 『王の二つの身体〈上・下〉』 筑摩書房 、2003年。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E3%81%AE%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E8%BA%AB%E4%BD%93 」より作成