見えないものは忘れられる:近代の忘れものとしての東洋的身体思想:

見えないものは忘れられる:近代の忘れものとしての東洋的身体思想:例えば、禅や道教


テーマ:ニッポン亡国の凶相:売国奴と愚民と狂信者


近代合理主義の視覚では、例えば、禅や道教の肚は見えない。しかし、肚を練ることは、かつては、日本の教養cultivationであった。身体的精神の陶冶・涵養が必須であったのである。それが、近代合理主義・唯物論で、すっかり、忘れられた。
 そう、日本思想の東洋的土台が忘却されたのである。これは、とりわけ、戦後の近代合理主義/近代科学・技術の洗脳に拠ると考えられる。


追記:思うに、日本人には短絡的な二項対立主義があるのではないだろうか。狂信的な尊王攘夷思想や、明治維新脱亜入欧の欧化思想、そして、戦後のアメリカかぶれ、等々、あれか、これかで二者択一する発想があるのである。
 これは、いわば、一神教的発想である。他者なき自我・同一性の思想である。思うに、この短絡的同一性主義の発想はどこから由来しているのか。とにかく、父権的な発想であることは間違いない。後で検討したい。


追記2:近いところでは、小泉「フィーバー」がそうであった。この日本人の短絡的直情性は何なのか。血が頭に上ってしまうのである。まったき差異や他者の欠落・欠損・欠如。一種狂信性がかなりの日本人にはあると言えよう。狂信者としての日本人である。言い換えると、没知性的な日本人ということになる。


追記3:目に見えない肚や魂や精神というものは、ある形で目に見えるようにする必要がある。神社や寺院は、神仏の「存在」を可視化するものだろう。しかし、習慣の一部となり、意味がわからなくなるのである。


追記4:今日の民主党支持者も短絡的である。つまり、民主党崇拝になっているのである。そう、日本人は、自分が宗教的であることを認識すべきである。無宗教というのは、間違いである。日本人は宗教的衝動をもつが、それが、イデオロギーに利用されるのである。つまり、自分自身を見つめていないのである。
 そう、宗教的衝動と言っても、集団・団体・集合的宗教である。個としての独立が達成されていないのである。


参照:


058 池見酉次郎、潮文社
肚・もう一つの脳


普段、上半身は立ってるので、体の上部からのリンパ液は下半身へ流れる。しかし下半身のリンパ液のリターンには、太腿の筋肉ポンプが必要なのである。これも「気を巡らせる」ことになるであろうと思う。先ず、ウォーキングが循環促進に効果がありそうだ。歩いて太腿の筋肉が収縮するたびに、それがポンプの役目をするのである。同様に、気功体操には、同様の効果がある体位のものがあるに違いない。私も一つ考案した。まず仰向けに寝て、U型の呼吸法を数回する。足を上にあげて手で腰を支える。足だけを曲げて、太腿を胸に近づける。また上へ伸ばす。2〜3回やって、足を床につけ上体だけを起こして、呼吸を整える--と言うものである。ヨーガの鍬のポーズより楽であるが、リンパ液の移動の効果は、太腿の高低差分、こちらが優れいると考えている。

 このように気功や古武術は、さまざまの身体のメカニズムを組み合わせた健康法の宝庫であろうと考えられる。生物学の延長でチョット生理学を齧っただけの私ですら、気功の○○は生理学で言う××ではないか、と推測したくなる程、興味深いし真理を含んでいそうに思える。まして、医学の大家、心身医学の創設者の目からみれば、もっと深い理解があるだろう。

 池見は、ストレスによる障害等の心身の問題は、肚(はら)=丹田を鍛える事が解決策だと言う。肚を鍛えるには腹式呼吸と腰を立てる姿勢をとるやり方がある。医学会のみならず仏・武両道の達人との交際をきっかけとして肚を鍛えることの重要性を語っている。池見も肚に太陽神経叢の働きの以上のモノを見ているに違いない(なお、肚は日本の文化の根本原理であった、今やそれが失われている、という主張の本があるらしい。いずれまとめることとする)。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~monadon/books058.htm



道教復興:下丹田(肚)の復権


テーマ:日本ルネサンス:西洋包摂した新東洋文明


東洋思想とは、身体思想である。これによって、西洋思想との区別が自明である。
 しかるに、近代日本、とりわけ、戦後日本は、東洋思想を切り捨てたのである。
 伝統的日本文化は、肚の思想をもっていた。これは、道教で言えば、下丹田の思想だと思う。因みに、道教では、上丹田(頭)ー中丹田(心臓)ー下丹田(肚)の身体性を説いている。(インドのヨガでは、七つのチャクラを説いている。)
 作業仮説するが、PS理論の+iが上丹田であり、-iが下丹田であり、Media Pointが中丹田はないだろうかと思うのである。
 今日、下丹田-iが喪失されていると思う。近代合理主義=近代的自我は、これを否定してきたと考えられる。そして、現代日本人の堕落が生じたのである。

追記:時間がないので、精緻に考察できないのが残念である。私が問題にしたかったのは、「近代化」は、中丹田から上丹田へかけての意識形成を行い、下丹田を抑圧・排除しているということである。
 つまり、中丹田に関わるので、Media Pointはそれなりに存するが、しかし、下丹田が排除されているために、Media Pointが上丹田的な同一性と連続化していると思われるのである。つまり、利己主義化された中丹田になっているのである。
 下丹田を「啓蒙」化するならば、中丹田は、超越化されるようになると考えれる。そこで、下丹田の差異と上丹田の同一性が衝突するのである。しかしながら、中丹田ー下丹田の領域と中丹田ー上丹田の領域は不連続であるとして、絶対的に切断することで、この衝突は、「調和」されるようになると考えられるのである。
 思うに、下丹田とは、小宇宙・ミクロコスモスだと思う。いわゆる、神秘主義は、ここから発するだろう。
 とまれ、余裕のあるとき精緻に考察を行いたい。

後記:今日の日本人にリリシズムが欠落しているのは、下丹田が埋もれているため、豊かな精神の水源が塞止められているためと考えられる。三島由紀夫が「断絃の時」と言ったが、これは、下丹田の喪失をしよう。これが、とりわけ、戦後に起ったと考えられる。日本民族・日本文化の絶滅の危機である。
 
参考:
丹田
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
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丹田(たんでん)は、内丹術 で仙人 になるための霊薬 仙丹を練るため気 を集め練る体内の部位。東洋医学 における関元穴 に相当し、へその下3寸(へそと恥骨稜の間を5寸とする)に位置する。

意味は気 の田 のこと。古くは『素問 』遺篇本病論に「神游上丹田」、邊韶の書『老子銘』に「存想丹田」、張仲景の『金匱要略 』にもみられる。これらは後漢 (3世紀前半)の書として伝来するが、文献学的には唐代以後のものである。内丹術では、気を材料として下丹田を炉とみなし、呼吸 をフイゴとして仙丹を練る。なお女性の場合は乳房の間の膻中穴 を炉とする。

解剖学 的には該当臓器などはないが、心身医学 の領域では、自律神経 の働きと免疫 機構の関係が注目され、太陽神経叢 が丹田に相当すると考えられている。

丹田は男性での名称で、両眉の間にある上丹田、心臓の下にある中丹田、ヘソ下3寸(約9cm)にある下丹田などがある。上丹田は、鼎、泥丸(ニルヴァーナ(涅槃 )の漢字の音訳)という。下丹田は地、臍下丹田(せいかたんでん)、気海丹田(きかいたんでん)などとも呼ばれ、単純に丹田と言った場合、下丹田のことを指していうことが多い。丹田の概念はインドのヨーガ思想を模倣したものと言われる。

関連項目 [編集 ]

* 呼吸法
* 調和道丹田呼吸法
* 腹式呼吸
* 肥田春充
* 肥田式強健術

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%B0 " より作成
カテゴリ : 錬丹術 | 身体論

身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生

身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生
齋藤 孝/著 NHKブックス



◆ 日本は「腰肚(こしはら)文化」


日本の伝統的な文化は「腰肚文化」に集約されるのではないでしょうか。

腰や肚は精神的なことも含んでいますが、その基盤には腰や肚の身体感覚が実際にあるのです。

「腰をすえる」や「肚を決める」は、文化によって身につけられる身体感覚です。

腰と肚の身体感覚が強調されることにより、からだの「中心感覚」が明確にされるのです。
http://blog.livedoor.jp/longpa/archives/11396692.html

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation