司馬遼太郎文学は精神的歴史文学である:プレ・モダンとトランス・モ

司馬遼太郎文学は精神的歴史文学である:プレ・モダンとトランス・モダンの結合:差異として「竜馬」


テーマ:歴史


以下、世に倦む日々氏が慨嘆されているが、司馬遼太郎文学はいわゆる近代文学とは異なることを先ず認識する必要がある。漢籍に裏付けられた、ある意味でプレ・モダン的文学であるが、しかしながら、精神や魂をもつ人間像を描くことで、トランス・モダンになっていると思うのである。精緻な分析は後にして、司馬遼太郎が描いた竜馬は、トランス・モダン的人物であると見るのがいいと思う。その竜馬とは同一性(藩や幕府や攘夷)に拘っていないからである。つまり、差異の人物なのである。


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竜馬がゆく』を読み返しながら、今の日本が信じられない気分になる。この本を繙くのは、この30年間で三度目だが、前回や前々回とは全く違った感覚で読んでいる。「幕府はよくやっている」などと思ったことは一度もなかった。今の日本政府があまりに酷すぎ、今の日本人があまりに滅茶苦茶すぎて、『竜馬がゆく』の日本が別の国の話のように見える。違う民族の歴史のように感じる。と言うより、『竜馬がゆく』に描かれているのが本当の日本と日本人のはずだと私は思うから、であるとすれば、今のテレビやネットで見える日本と日本人は一体何なのだろう。幕府は、黒船来航の翌年に独力で洋式軍艦を建造、斉彬の薩摩は翌々年に蒸気船を開発して試運転に成功した。黒船から7年後、幕府は日本人乗組員の操舵と機関で太平洋横断を実現させている。浦賀ショックからわずか15年で日本人は社会体制を一新、幕藩制から近代国家へと姿を変えて世界史に躍り出た。昔、『竜馬がゆく』を最初に読んだとき、司馬遼太郎は竜馬や志士たちを美化して大袈裟に描いていると感じたが、今は全く逆の感想を持つ。書き足りてないと思う。人間が政治と社会を変えていくスピード感と迫力は、小説に描かれている以上に力強く凄まじいものがあったはずだ。そうでなければ、あれほど劇的に政治と社会は変わらない。彼らは時間を無駄にしていない。今の日本は、どうしてこれほどと思うほど時間を無駄にしている。

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