同一性自己+1⇒同一性主義自己-1:再帰差異共振性の不連続的受容に因

同一性自己+1⇒同一性主義自己-1:再帰差異共振性の不連続的受容に因る真の自己認識


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


『同一性自己+1⇒同一性主義自己-1:再帰差異共振性の不連続的受容に因る真の自己認識:付録:ヘーゲル弁証法神秘主義


先に次のように述べたが、再考が必要である。


「+1が差異共振的自己(ほぼ、ユング心理学の自己)であり、-1が同一性自己(自我:やはり、ほぼユング心理学の自我)である。」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10216729017.html


いったい、+1や-1は、「自己」から言うと何だろうか。+1について考えてみよう。これは、PS理論から言うと、端的に、同一性自己(自我:自己同一性)である。「わたし」である。しかしながら、Media Pointの活性化すると、差異共振性が再帰・復帰する。それは、+1に穴を空ける。
 だから、再帰した(+i)*(-i)が差異共振的自己になるだろう。しかしながら、同時に、+1の同一性自己もここには生起している。つまり、ユング心理学という自己と自我との「調和」がここにはある。つまり、PS理論は、ユング心理学の真の実現であろう。トランス・ユング心理学である。
 そうすると、-1は何かとなる。それは、同一性自己の一種であるが、主義になったものと考えられる。つまり、同一性自己主義ないしは同一性主義自己である。自我主義、利我主義、「自己中心主義」であり、近代においては、近代的自我である。
 そうすると、近代主義においては、自己は、同一性自己を形成した後、一種反動的に、同一性主義自己又は同一性自己主義を形成してしまうと考えられるのである。つまり、+1⇒-1に転化してしまうのである。
 これが生じるのは、再帰する差異共振エネルギーを否定したり、あるいは、同一性に連続的に連結化しようとするからである。
 ポスト・モダンとは、確かに、再帰差異共振エネルギイーに駆動されていたが、主にハイデガー存在論による障害のために、きわめて、歪んだ、偏った理論となってしまい、現実世界に対処できなくなってしまったと考えられるのである。何度も言うが、フッサール現象学ベルクソン哲学のトランス・モダンへの画期性が、ハイデガーデリダドゥルーズによって、喪失されてしまったのである。
 PS理論によって、再帰差異共振エネルギーが脱同一性化=不連続化されて、真の自己認識が可能になったと考えられるのである。(不連続的差異論のときは、不明晰な差異の脱同一性化=不連続化が生じたのである。)
 そうすると、自己認識方程式(思うに、これは、神人方程式とも言えよう)は、(+i)*(-i)⇔+1と記すのが明晰である。ただし、Media Pointを入れて表記する方がより適切であろう。即ち、(+i)*(-i)⇔Media Point⇔+1 である。言い換えると、Media Point的自己認識方程式である。(一言、ドゥルーズ哲学について言うと、それは、確かに、再帰差異共振エネルギーはあったが、それを、完全に連続化してしまったのである。そのために、金融資本主義と同型になってしまったと考えられる。そう、いわば、ポジに対するネガである。理論的には、再帰差異共振エネルギーを連続化させたために無限となった実軸ゼロ点の構造主義であろう。)
 ここで、本題と離れて、近代文化について考えたい。結局、近代とは、Media Pointの虚軸から実軸へと下降して、同一性自己を形成する方向が主導的であった。それは、ルネサンスプロテスタンティズムデカルト哲学に発現していると言えよう。
 しかし、後期近代(19世紀後半以降)において、差異共振エネルギー=超越エネルギーが復帰するようになったと考えられる。即ち、前期近代とは対称的に、Media Pointの実軸から虚軸へと上昇する志向が主導化し始めたのである。そのとき、近代文化が取る方向は、反動的に同一性を強化する方向であり、これが、 (+1)^2=-1であり、実際は帝国主義植民地主義、そして、金融資本主義になったと考えられる。
 もう一つは、ロマン主義ないしは神秘主義的方向で、それは、差異を強調する方向であり、それは結局、ファシズム全体主義に帰したのではないだろうか【追記:思うに、社会主義共産主義路線も、こちらに入るのではないだろうか。一見、異質であるが、考えてみると、反資本主義とは、実は、+iへの否定であり、(-i)^2⇒-1と考えられるので、こちらに入れるのである。ヘーゲル弁証法については、後で検討したい。】(かなり多くの文学者たちは、この方向を取ったと思う。因みに、D. H. ロレンスが一時唱えた「闇の神」は、(-i)^2⇒-1の「神」ということであろう。これは、ヤハウェと対称的な位置にあると考えられる。そして、晩年のコスモスとは、差異共振的超越性のことであると考えられるのである。)
 そして、今日、現代、差異共振エネルギーが解放されていると考えられるのである。いわば、差異共振精神が時代精神である。これは、キリスト教的に言えば、聖霊であり、これは、逆らえないのである。天の「風水」である。そして、ますます、差異共振エネルギーがMedia Resonance(メディア共鳴)して、ポリフォニー・交響的に発展していくと考えられるのである。ただし、差異批判知性をもつ必要があるのである。
 PS理論は、近代合理主義とロマン主義の対称的二元論の超克であり、正に、トランス・モダン理論である。


追記:ヘーゲル弁証法について検討したい。社会主義共産主義は、ロマン主義神秘主義と同じ分類に入ると述べたが、それは、資本主義の否定で明快である。そして、ヘーゲル弁証法は、最初、そこに入るのではないかと直感したが、簡単には説明できないことがわかり、ここで、考察を行いたい。
 結局、正反合をどう解明するかである。テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼである。単純に考えると、同一性、差異、統合であるが、果たして、そう考えていいのか。何故なら、ヘーゲルのテーゼとは「精神」だからである。だから、同一性にはできないのである。
 作業仮説として、Media Pointの実軸ゼロ点を「精神」=正(テーゼ)としよう。すると、ここから、同一性志向性が発生して、同一性=物質が形成される。これが、「疎外」である。つまり、「精神」の否定、反(アンチテーゼ)としての同一性=物質である。そして、さらに、同一性=物質が否定されて、「精神」へと回帰するが、これが、合(ジンテーゼ)である。
 すると、正=「精神」がMedia Pointの実軸ゼロ点で、反=同一性=物質は、+iの同一性志向性によって形成されると考えられるのである。それは、端的に、+1である。つまり、差異共振性の同一性化である。そして、合は、それの否定であるから、-(+1)=-1ではないだろうか。
 問題はこの否定の否定(合)の力学である。思うに、ここには、再帰差異共振エネルギーが作用しているのではないか。そう作業仮説して考察を続けよう。
 だから、再帰差異共振エネルギーが反(アンチテーゼ)=同一性=物質を否定していることになる。しかし、本来、再帰差異共振エネルギーは同一性=物質を否定しないのである。それは超越的に包摂するのである(超越的包摂)。ならば、それ(反)を否定する力学とはどういうものだろうか。
 ヘーゲルの「精神」は、実軸ゼロ点と仮定した。だから、必然的に、合(ジンテーゼ)においては、実軸ゼロ点へと回帰するということになると考えられる。
 それならば、構造主義である。しかし、ヘーゲル弁証法はもう少し奥がある。というのは、絶対精神が存しているからである。それは、いわば、超越神であろう。
 だから、前期近代主義を見るべきである。虚軸ゼロ点から実軸ゼロ点へと下降したのである。これが、ヘーゲル弁証法にも当てはまると考えられる。そして、両ゼロ点が重なっているのである。というか、一体化、つまり、癒着してしまっていると考えられるのである。
 そう、ここに本来のヘーゲルの「精神」を見るべきであろう。つまり、超越性(差異)と同一性が癒着しているのである。つまり、連続化である。差異と同一性の連続化である(だから、ドゥルーズ哲学はヘーゲル哲学にの同質なのである)。
 この連続化されたMedia Pointがヘーゲルの「精神」である。そして、これが、正(テーゼ)である。そして、反(アンチテーゼ)が同一性=物質(「疎外」)である。そして、合(ジンテーゼ)は、反を「止揚」した、「精神」であり、それは、最初の連続化されたMedia Pointである。ただし、展開された同一性=物質を包摂した「精神」と言える。
 思えば、ヘーゲルの理性には、超越性があるが、連続化された超越性である。いちおう、連続的超越性と呼んでおこう。だから、問題は、この連続的超越性とは何か、である。それは、言い換えると、超越的同一性である。それは、(+i)*(-i)=+1の矛盾的様態ではないだろうか。言い換えると、虚軸と実軸が一致してしまっているのである。
 私は上記において、この事態は+1⇒-1と考えた。つまり、再帰差異共振エネルギーを純正に受容するには、超越的差異共振性を認める必要があるが、連続性があると、それは不可能である。つまり、虚軸へと垂直的に上昇するのではなく、実軸上のまま、水平に反転すると考えられるのである。それが、+1⇒-1 ではないか。
 ここは微妙な箇所である。ヘーゲル弁証法は、同一性を否定しているのか、それとも、包摂しているのか。それは、言うまでもなく、後者である。ここで、単なる神秘主義とは異なるのである。それは、同一性=物質を否定する「超越性」であるからである。
 しかしながら、ヘーゲルはやはり、同一性=物質を否定していると見るのが正しいのではないだろうか。問題は、止揚揚棄aufhebenである。
 ここでは、反の何かが否定されて、残されたものを包摂するのである。いわば、否定的包摂なのである。
 否定されるのは、物質性である。同一性である。だから、+1⇒-1の事態が発生している考えれるのである。この物質性の否定において、ヘーゲル弁証法は、神秘主義と同質なものを含んでいるのである。ただし、神秘主義が強く同一性化されている点が普通の神秘主義とは異なる点と考えられる。
 これで、とりあえず、検討を終える。後で、整理したい。